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8月 5

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 改札を出て、駅直結の飲食店が入る建物を抜けると、奏人は秋の虫が鳴いていることに気づいた。昼間は相変わらず暑いが、夜はわずかに熱気が緩む。こんな緑の少ない、コンクリートのジャングルのような場所でも、季節を告げる生き物はしっかり生きている。奏人はそれに気づくと、食物連鎖の頂上に立ったつもりでいても、暑い寒いと騒ぐ人間が如何にちっぽけな存在かに思い至る。
 神崎綾乃はいつものように奏人を事務室で迎えてくれた。冷たいルイボスティーを頼み、ソファに腰を下ろす。にこやかに謁見室に戻ってきた女王は、奏人が恐れていたことを遂に口にした。

「桂山さんのご自宅に出入りしてるわね、奏人?」
「……否定しない」

 奏人の前に赤い茶の入ったグラスを置き、綾乃はうーん、と首を傾げた。

「スタッフの禁止事項に当てはまる以上言わない訳にはいかないわ」
「だよね」

 奏人だって分かっている。綾乃が彼を特別扱いすると他のスタッフに示しがつかない。

「でもこうでもしないと暁……桂山さん予約取ってくるもん、もう僕と会うのにお金を出して欲しくない」

 綾乃は桂山を呼び直す奏人に思わず笑う。実はディレット・マルティールのスタッフの退職理由として2番目に多いのは、客と深い仲になったからというものである。西澤はそんなスタッフに、身請けされたと笑って餞別を贈った。ベテランの奏人も、幸せを願いながら何度となく同僚を見送ったのに、自分がその立場になると、かなり戸惑っている。
 お盆が明けた後の週末、綾乃は奏人が久しぶりに描いたという絵を観に行った。自分をモデルにしたことや、大学の美術部の現役生たちが出品を喜んでくれているという話は聞いていたが、予想以上にインパクトの強い作品で、綾乃も驚いた。遊び心と真摯しんしな想いが満面に込められた3枚の絵。綾乃をエリザベス女王の肖像画に似せて、西澤遥一を彼の好きだった印象派を意識したタッチで描き、真面目な桂山暁斗をアンディ・ウォーホル風に見せる。
 西澤や自分を奏人がどう思っているかは、ほぼ理解している。しかし桂山が奏人にとって本当に特別な存在になっているのを、綾乃は絵の中の桂山の優しい笑顔(そこはややウォーホル風ではなかった)を見て察し、ほとんど戦慄せんりつした。桂山とゆっくり関係を深め、奏人が自分の幸せを考えるようになってくれたら良いとは思っていたが、あまりに奏人の変化が早過ぎる。

「桂山さんをお客様と見做みなすのが辛いのね」
「うん」

 奏人は素直に答えた。綾乃に隠すのは心苦しかったので、ちょうど良い機会だと思った。

「僕たぶんあの人のことほんとに好き」
「桂山さんも奏人が好きだものね」

 綾乃も桂山の奏人への気持ちが「お気に召したスタッフ」に対するもの以上であることを察していた。最近直接話していないが、素直な桂山は、言葉の端々に少年のような生真面目な恋心を匂わせていた。

「ゴールデンレトリバーみたいに可愛いんだよ、一途な愛情を向けられたら応える以外にどうしたらいいのって感じ」

 奏人は惚れられているからと言いたがるが、彼だってそこそこ惚れているのは綾乃にはお見通しだ。だてに長くつき合ってはいない。それに奏人自身の変化に周囲が気づき始めている。
 月末の「カウンセリング」の日にこのビルでスタッフ同士が顔を合わせることはよくあるが、奏人同様のベテランが、綺麗になったって言うと変だけど、と笑いながら、奏人に会った時に感じたことを話してくれた。綾乃も夏になった頃からそれは感じており、整った顔立ちだがどちらかというと地味な奏人が、道行く人の視線を何気に集める、光のようなものを発し始めた。恋をしたら変わるのは女子の専売特許ではない。

「どうしたらいいのかな」

 奏人はルイボスティーを少し口にして、言った。本当に、どうしようかと思う。ディレット・マルティールを辞めるという選択肢は、これまであり得ないと思っていたのに、最近意識の上にちらつく。
 生活費に困っている訳でもなく、ただやり甲斐があるから続けていた。自分の顔を見ると喜んでくれる人たちがいる。彼らは自分と過ごすために少なくないお金を出してくれる。だからお返しに楽しんで頂けるよう頑張る、それだけだった。
 最初暁斗から、あなたが他の人に触れるのは想像したくないと言われた時、可愛らしい焼きもちだと笑いそうになったが、今は正直なところ、昼間の仕事がきつかった日などは特に、相手を暁斗だと思って1時間耐えている時がある。客にも暁斗にも失礼な話で、奏人は自己嫌悪に陥ってしまう。展覧会のために時間が欲しかったというのもあるが、心理的な負担もあって、お盆以外はこのところ仕事を減らしていたのだ。
 暁斗のことが好きだ。もう認めざるを得ない。どうしてなのだろう。仕事は出来るが平凡な彼は西澤遥一の代わりにはなり得ない。エリート官僚への道を捨てて勉強をやり直すために、家族の反対を押し切ってアメリカに来ていたヴォルフのような気迫も、彼には無い。
 ひとつ分かっているのは、暁斗といると背伸びをしなくていいことだ。奏人は彼の前でみっともないくらい泣き過ぎていた。彼に嫌われたくないので、面倒くさく鬱陶しい自分は見せたくない。なのに彼は我慢しなくていいなどと言って奏人を泣かせ、抱き締め、涙を拭いてくれるのだ。理解に苦しむが、ちょっと、いやかなり嬉しいし、癒される。
 そして実家を出てからこれまで、自分があらゆる場面において、かなり背伸びや無理をしていたと思い至った。奏人はそれが自分の成長に繋がると思ってきたし、出会う人に恵まれて成長は出来たが、常に意識の高い自分でいないといけないことに、疲れていたかも知れない。

「桂山さんと一緒にいたいなら……この仕事を卒業することも考えないといけないわね」

 綾乃は言った。常識的な判断だった。奏人はあらぬ方を向いて、うん、と曖昧に応じた。綾乃は経営者として考える。彼が辞めるとなると、多くの顧客が離れることになる。彼のパトロヌスは約50名、代わりのスタッフを紹介して会員に留まってくれそうなのは、多くても20名程度か。パトロヌス制に登録していない太客もいる。結構な痛手だ。
 経営者の立場を離れ、奏人の旧知の者として考えれば、それは喜ばしいことだった。奏人を指名する客は、財力の大小に関わらず、桂山のように月1回程度のアプローチが平均的で、中には半年に一度、東京に出張にくる時に会いたいという者や、忘れた頃に声をかけてくる者もいた。奏人は全ての客にとって、いつもここに連絡すれば会え、ビールを注ぎながら愚痴を聞いてくれる小料理屋のママのような存在(と綾乃はとある客から聞いた)なのだった。
 この「馴染みの彼氏」が1人の男性の彼氏になると聞けば、彼の客は退会してしまうだろうが、大概が祝福しそうな気がする。彼自身の中で最高の客であった、西澤遥一がそうしたがっていたように。

「桂山さんのこともあるんだけど……僕勉強したいとも考えてて」

 奏人は綾乃の顔を伺いながら言った。西澤の通夜で奏人が西澤の遺族から侮辱されるのを見ていた1人の研究者が、奏人がアメリカで発表していた小さな論文や研究ノートに兼ねてから興味を持っていたとかで、担当教官の豆谷を通じて、先日連絡を取ってきた。勉強を再開したいなら手伝えることがあるだろうと言ってくれたのだ。綾乃は目を丸くした。

「まあ、それ西澤先生が亡くなる前に言ってあげたかったわねぇ」
「それは言わないでよ」

 奏人は俯いた。西澤にまさしくそれを望まれていたのに、頑なに断り続けた。

「西澤先生があちらで何かしてらっしゃるのよ、あなたが修士を取れるようにね」
「それも微妙……」

 暁斗にもこの話をした。彼は怪我の功名だね、と少し意味のわからないことを言って、喜んでくれた。それを言うと、綾乃はやや表情を曇らせる。

「勉強と桂山さんとの関係を両立できる? 留学も視野に入れるってことなんでしょう?」

 綾乃の心配は理解出来た。奏人には、恋人に死なれたことで勉強を投げ出して帰国した過去がある。学問の世界――いや、どんな世界でも、そういう弱さは足枷あしかせになる。
 留学するなら、暁斗は待つと言ってくれた。その言葉に甘えたい。毎日少しでも連絡を取れたら、乗り切れるだろうか。この間暁斗ともその話になり、彼は大真面目に、時差を考えてメールしないといけないな、と言った。今の奏人に必要なのは、背伸びをすることではなく、待ってくれる暁斗を信じ、今度こそ修士を取りたいという自分を信じることだ。

「私はあなたが辞めると決めても反対はしません、まあお客様は残念がるでしょうから……あなたの気の済むようにしてあげるといいわね、桂山さんに怒られない範囲で」
「お客様全員に1回ずつ挨拶を兼ねて会うとか言ったら、暁斗さん嫌がるだろうね」
「私が桂山さんだったら嫌ね、頑張って説得する?」
「……黙っとく」

 奏人のこの仕事への気持ちは尊重したいと暁斗は言ってくれた。とは言え、彼の忍耐に限界はあるだろう。
 綾乃は奏人の表情が少し明るくなったのを見て、もう彼が心を決めつつあることを悟った。それでいいと思う。元々ディレット・マルティールは、これから日本で同性婚が認められるようなことになり、ゲイのためのデリヘルが特殊なものでなくなる日が来たら、解散するのを最終目標として開始された事業である。その日がいつになるか分からないが、だからこそスタッフたちにはこのクラブに縛られて欲しくないという思いが、綾乃にはあった。特に奏人たちベテランスタッフには、幸せになって欲しいし、ここで得たものがあるならば、それを生かして前向きに生きていって欲しい。
 桂山暁斗は全面的に頼りになるとは言えないかも知れない。彼自身が同性愛者である自分を見出したばかりだからだ。しかしその部分を、奏人がフォローすれば良いし、奏人の心の中で欠けてしまっているところを、桂山がその人生経験と、性質として備わる素直さや明るさで埋めて行ってやってくれたら、と綾乃は思った。
 それにどうも、この2人は身体の相性も良いのではないかと綾乃は考えている。奏人は自分を指名する客に常に奉仕的だが、桂山には特に一生懸命になり接している様子が最初から伺えたし、奏人の言葉の端々に、桂山に触れていることへの愛おしさのようなものを感じるからだ。少なくとも綾乃が奏人と知り合ってから、淡白な彼がそういう、猥雑わいざつさと清冽せいれつさを合わせ持つ色香を漂わせてくることは初めてだった。

「西澤先生も喜んでくださると思うの、あなたがスタッフとしてでなく尽くしたいと思う人に出会ったということをね」

 奏人は綾乃の美しい横顔や豊かな栗色の髪を見つめながら、この女性にも随分色々な心配をかけてきたと、申し訳なさを覚えた。

「あっ……桂山さん9月に予約入れて来たわよ」

 綾乃はパソコンの画面を見ながら目を見開いた。奏人は馬鹿、とつい呟く。

「あなたがスタッフの規則を破っておうちに来るのを気にしてらっしゃるんだわ」
「じゃあ暁斗さんに免じてたまに行くのを大目に見てくれる?」

 奏人は上目遣いで綾乃を見て、おねだりモードを作ってみる。自分のこういう態度に、男女問わず甘くなる人が多いのを知っているからだ。綾乃は奏人の無茶振りに小さく溜め息をついた。

「月に一度、一泊だけよ」

 綾乃は命じた。

「万が一他のスタッフに知られるようなことがあったり、あなたの勤務態度に関してお客様からご意見があったりした時は、その場で禁止します」

 奏人は女王の出す条件に、承知しました、と神妙に答えた。綾乃に一応の許可を貰ったと言えば、暁斗も無駄な予約を入れて来なくなるだろう。
 本当にこの仕事を辞めるとしても、今すぐは無理だ。奏人はやはり、自分を気に入りこれまで指名してくれた人たちに、きちんと挨拶をしたい。ならば数ヶ月の猶予が必要だ。その間暁斗にプライベートで定期的に会うことが出来れば、励みになるというものである。
 出来るだろうか。奏人は少し不安になる。ディレット・マルティールを辞める段取りをしながら、修士論文を書く準備を始める。本業はこれまで通りで良いとしても、時間が足りないのではないか。もし留学を視野に入れるとしたら、忘れてしまった英語も勉強を再開しなくてはならない。

「きっといっぱいしなくちゃいけないことが出てくるわね、力一杯やるといいわ……まだあなたは力を全部出し切れていないと私は思うの、下手に何でも出来ちゃうから」

 綾乃は奏人に微笑みかけた。若い時にがむしゃらにすることを経験した方がいい。奏人がこれだけ何でも人並み以上に出来るに関わらず自己評価が低いのは、彼の家族、特に父親が、期待していた長男の同性愛の傾向に気づいた時から、彼を出来損ない扱いしたからだ。鬼籍に入った父親に自分を認めさせることはもう出来ない。ならば奏人自身が、力の限りやったのだと納得出来る行動をし、成果を出すしかない。

「ちょっと怖いな」

 奏人の素直な言葉に、綾乃は出来るわよ、となるべく押しつけがましくならないよう応じる。桂山ならこういう時、何と言ってやるのだろう。

「でも誰も手伝ってくれないもんね」
「手伝ってあげられないけれど見守ることは出来るわ、桂山さんも私も……桂山さんはあの人のやり方で、私は私のやり方でね」

 奏人はうん、と口許に微笑を浮かべて小さく頷いた。そしてルイボスティーを最後まで飲み干した。彼が、出したものをいつも残さず口にする礼儀正しさは、綾乃も好きである。
 綾乃は天に召された恩人、目の前の弟のような、あるいは息子のような青年にとっても大切だった人に、胸の内で語りかける。先生、カナはようやく巣立とうとしていますよ。どうかこの子をそちらからも見守ってやってください――。自分の祈りはきっと届く、西澤はいつも奏人や綾乃の数歩先を見ていて、より良き方向へ自分たちを導いてくれたから。綾乃は根拠の無い自信に可笑しくなりながら、桂山に予約の完了を告げるメールが自動送信されたことを確認した。

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