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第二章

42 不器用なグリフィス #

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クリスが以前使っていた部屋に運ばれると、待機していたハンナが心配顔で飛んできた。

「ハンナ……」
「クリス様、大丈夫ですか……?」
「アーネスト、下ろして」
「はい」

クリスは下ろされるなり、母親も同然のハンナに手を伸ばした。抱きとめられ、その胸に縋り付いてすすり泣く彼女の肩から、アーネストの上着と身体に巻いていた掛布が滑り落ちた。

「わっ!」

デイヴィッドとアーネストが慌てて後ろを向く。掛布の下から現れたクリスの身体を覆う物は、薄くて短いベビードール……と、無数の所有印。

「私とデイヴィッド様は廊下に出ているから、何かあったら呼んでくれ」

クリスに目を向けないよう、蟹のように横歩きで廊下に出た二人は顔を見合わせる。

「逃げられないようにあれを着せていたのかな……キスマークもなかなかの数を……」
「寝ている間だけかもしれませんぞ、新婚ですから……いや、下衆な考えはやめましょう。我々は仕事に戻りませんと」
「そうだな。後は女性に任せるか」

部屋では泣きながらすがり付いてくるクリスをハンナが宥めていた。頭を撫でながら優しく尋ねる。

「クリス様、ベッドに横になりますか?」
頷くクリスをハンナはトリシアと二人で、ベッドまで導いた。横になるのをトリシアが手助けし、ハンナはふわりとクリスの身体に掛布をかける。

「お眠りになりますか? それとも話し相手が必要ですか……?」
「話したいわ……」

ハンナは聖母のように微笑んで、ベッド脇の椅子に座った。

「ハンナ、グリフィスが……私のお見合いの話しを裏から手を回して潰していたの……」
「まあ、そんな事をグリフィス様が? お可哀想にクリス様……何とも酷い話しですね」
クリスは頷くと、涙を流し始めた。
「そんな事をする人とは思わなかった……」
ハンナに髪を撫でられながらいつまでも泣き続け、やがてクリスは眠ってしまった。


アーネストと、デイヴィッドは執務室へと向かっていた。

「ドア越しに聞いていて話は分かったけど、あいつ本当に見合いを潰したりしていたのかな?」
「私はにわかには信じられません。クリス様を手に入れる為に多少強引な事はなさるかもしれませんが、卑劣な手を使う方ではないと思うのです」
「うん、俺もそう思うんだけど……認めていたよな……」
「はい……しかし、今は憶測でしか物を言えません。取り敢えずはクリス様が落ち着いた頃に今後どうしたいかを伺って、グリフィス様からも話を伺うように致しましょう」
「そうだな……ってアーネスト、お前帰らなくていいのか? もう妹のマリオン達は帰ったんだろう? 一緒に帰る予定だったじゃないか」
「はい。マリオン様達は公務がありもう帰らなくてはいけない分、私にクリス様を託されました。ヘルマプロディトスには優秀な私の補佐がいるので、暫くは彼で事足りるでしょう」
「そうか。アーネストがいてくれるほうが、俺は心強いけどな。クリスの事もあるけど……」

そこでデイヴィッドが執務室の扉を開けると、書類が机の上で山積みになり、バサッと崩れ落ちてきた。

「この溜まった仕事を一人で片付ける自信がない……」
「さあ、共に頑張りましょう……!」


それから三日後。デイヴィッドが執務室の扉を開けると、グリフィスがいつもと変わらない様子で仕事をしていた。

「グリフィス……」

グリフィスが気付いて顔を上げる。

「デイヴィッド、おはよう」
「あ、ああ……おはよう」
「悪かったな。今まで二人に任せっきりにして。今日からまた平常通り仕事に戻るから安心してくれ」
「おはようござ……グリフィス様……!」

後から入ってきたアーネストも驚きの表情を浮かべている。

「おはよう、アーネスト。今日から仕事に復帰をする。苦労を掛けて申し訳なかった」

グリフィスは何事もなかったかのように書類に目を通している。
二人は顔を見合わせた。


同日――

「クリス様、おはようございます」
「おはよう、トリシア」

トリシアがベッドにいるクリスの膝の上に、朝食が載ったトレーを置いたあと、部屋のカーテンを開けていく。朝日が部屋に満ちる中、クリスが眩しそうに目を細めた。

「今日もいい天気のようね」
「はい、後で散歩に出てみませんか? 気持ちがいいですよ」
「そうね……久しぶりに外に出てみたいわ」
「最初は目の下に隈があるし、元気になるまで時間が掛かるかと思いましたが、もうほぼ回復しましたね」
「あまり寝かせてくれなかっただけで、食事とか、他にも色々と甲斐甲斐しく世話を焼いてくれていたから、そんなに身体は辛くなかったの」

クリスが頬を赤らめて恥かしそうに打ち明ける。
「あのグリフィスがですか……?」
トリシアの問いにクリスはコクンと頷いた。

久しぶりに出た外は大変気持ちが良く、クリスは目を瞑って深呼吸をする。アクエリオスの庭園は広くて緑が多い。まるで野山にいるような気分になれる。

散々泣いて眠りについて、今日で三日目……最初はグリフィスのした事がただ哀しくて、裏切られたような気持ちになったけれど――

トリシアと、警護の騎士を伴って散歩をしているところに、どこからかボールが飛んできた。騎士が前に出てボールをキャッチし、遊んでいる子供達に投げ返す。

「ボール遊びは、あちらの広い場所でやるように!」
「は~い!」
「あっ、クリス様だ!」
「近付いたら駄目だって言われてるじゃん、早く行こう!」

なぜ子供達が……と、クリスは不思議そうに目をしばたいた。騎士に顔を向けると直ぐに答えが返ってくる。
「街の子供達を遊ばせて……いや、預かっているようなものです。最近アクエリオスは観光客や商用の客が多くなり接客するにも人手が足りず、子供がいる女性も働きたがっていたのですが、預ける場所がありません。そういった施設を造る話も進んではいるのですが、それならできるまで城で預かったらどうだろう、とグリフィス様が」
「グリフィスが?」
「はい。よく気づかれるお方ですから、街の者達もグリフィス様に感謝をしております。中には夫に先立たれ、子供を抱えて働かないといけない女性もおりましたので……」

そうだ……グリフィスは常に民の事を考えている。弱い者にもいつも優しい――

「しかし面白いのですよ。子供なのに城に入るには、ボディチェックを受けないといけないのです」
クリスがきょとんとする。
「それは何故?」
「クリス様がいらっしゃるからです――子供といえど、グリフィス様はクリス様が襲われたり、攫われないかと心配なのです。それだけクリス様の事を想っていらっしゃるのでしょうね」
「まあ……」

クリスが頬を紅く染めた。
屈強な騎士も警護についているのに、子供にボディチェック……。

横ではトリシアがクスクスと笑っている。

クリスは考えを巡らせた。
優しいグリフィス――。彼は今まで愚劣な真似をした事がない。要領は良さそうだが意外に真面目で、不器用だったりもする。裏から手を回したのは、何か理由があったのではないだろうか……?

そして雲一つない青い空を仰ぎ見る。

グリフィスと話してみよう。決め付けないで、きちんと向き合って話すのだ――

クリスは部屋に帰ってから、自分の考えをトリシアに話してみた。

トリシアは考える。
確かにグリフィスと話している時、腑に落ちない点があった。見合いを潰した件も、グリフィスが手を下したのは確かなのだが、詳細までは調べられなかった。クリス様の言う通りかもしれない……でも、助け出してからまだ三日。

「クリス様。私はまた閉じ込めたりしないよう、グリフィスにはきちんと反省をしてもらいたいし、クリス様にも、もう少し身体を休めて頂きたいと思っております。グリフィスは今朝から執務に戻っているのですが、仕事が大量に溜まっているようで、会うのは夜中になってしまいます。せめて一週間、あと四日お待ち頂く訳にはいきませんか?」

確かにグリフィスは一週間以上ほぼ自分と一緒にいて、仕事に出ていなかった。アレクサンダーから助け出してくれる間も仕事が出来なかった筈だし……

「分かったわ。もう少し様子を見てからにするわね」
「はい、その間にお身体を完全に回復させましょう」

しかし、クリスの思う通りにはいかなかった。一週間して身体も本調子になり、心も落ち着きグリフィスに会おうとした時には、彼等ははたから見ても信じられない程に忙しくなっていた。

まず、アーデル川での航行の権利を完全に独占したが為に、今まで細々と小さい船で港から港へ人を運んでいた者達への対応に当たらなければならず、その他にもそれぞれの港の使用料、新しい取り決めなど、やるべき事がたくさんある。

暖かい間に済まさなければいけない街道の整備にいたっては、道路に積もった雪を溶かす温泉の水捌けが上手くいかず、設計にも携わっていたグリフィスが顔を出さなければいけなくなった。
アーネストや、デイヴィッドにも忙しくしていて会えないのに、一番時間のないグリフィスに会うのは憚られた。

二人で出席する筈だった式典も、彼が多忙な為に結局はクリス一人で出席をした。
閉じ込めていた頃は、クリス一人で公務に出すつもりはなかったとトリシアから話を聞く。考えを改めてくれたのだ。

式典で警備の騎士や兵士の多さに驚いていると「グリフィス王子のご命令です」と教えられた。それも優秀な騎士や兵士ばかりをつけてくれている。
自分を想う気持ちが嬉しく、グリフィスに会いたい気持ちが募っていった。

一ヶ月が過ぎ、いくら忙しくても夫婦なのに会えないのはおかしい、と思い始める。グリフィスの事だ。また変に反省をして`自分はクリスに相応しくない ‘ と、考えているような予感がする。

これは早めにきちんと話し合わなくては……。

トリシアにも相談したところ、大いに賛成してくれたのでクリスは彼女を伴って、早速グリフィスの執務室に赴いた。

「すいませんクリス様。グリフィス様はお忙しくて、今は手が離せないのです」
レオナルドが申し訳無さそうに説明をすると、クリスは思い切り息を吸い、大きく口を開いた。

「グリフィス! きちんと話し合うまでは毎日でも通う覚悟よ! だから早く降参して私に会って、そして話すの!」

廊下にその大きな声は反響をし、警護の騎士や兵士はみな振り返り、執務室の中はシーンと静まり返っていた。デイヴィッドが我慢できずに笑い出す。

「クリスらしい! いやぁ、我が従妹ながら見事だ!」
「はい、クリス様らしいですね」
今では笑い転げているデイヴィッドの横で、アーネストも笑いを零している。扉を開けて戻ってきたレオナルドも、笑いを堪えるのに必死のようだ。

最初は呆然としていたグリフィスも、脱帽したように頭を振る。

「グリフィス、会ってこいよ!」
「いや、いい」
「何でだよ、見合いの件もちゃんと話したほうがいいって」 
「いや、潰したことには変わりないし、彼女を閉じ込めたことにも変わりない」
「あ~~~!! お前、頭がいいのに、ほんっと自分の事に関しては不器用な! 第一いつかは話さないといけないんだぜ?」
「……ほら、仕事が溜まっているんだから、手と頭を動かせ」

それからまた一週間が過ぎた。グリフィスは真夜中に仕事の区切りをつけ、私室へと向かっていた。クリスは毎日やってくる。そして悔しそうに声を張り上げては帰って行く。
クリスには悪いが最近ではその声を聞くことが、ちょっとした楽しみになっていた。

今日彼女は執務室に来るのが遅かった。ひょっとすると諦めて、自分を見限り故国に帰るつもりではと、内心胸がざわついた。

我ながら情けない――

しかし遅れてきたクリスは王女である事も気にせずに、いつものように声を張り上げ、自分の部屋に帰っていった。

グリフィスは私室で例の実験段階のシャワーを浴びると、着替えもそこそこにベッドに倒れこむ。

早くあれが完成しないだろうか……

クリスの事を思い浮かべながら、吸い込まれるように眠りにつく。

暫くすると寝室の扉が開き、何者かが足音を忍ばせて入ってきた。警戒するようにグリフィスに近付き、様子を伺ったあと、真っ直ぐ彼へと手を伸ばす。
グリフィスはその手を掴み、背中へと捩じり上げながらうつ伏せにベッドへ押し倒した。枕の下に忍ばせていたナイフを取り、喉元に押し当てる。

「グリフィ――っ、腕が痛い……」
「クリス!?」

呻き声をあげるクリスをグリフィスが慌てて助け起こした。



お読み頂きありがとうございます。「今日もいい天気のようね」から下がムーンと違っております。同じ文章が出てくる事もあります。 
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