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妃嬪の徴証

手蹟の悪戯④

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「そこで何をしているんだい」

 背後からかけられた柔らかく高めな男の声に白狼の肩が震えた。心臓を鷲掴みにされたかと思うほど驚いたが、叫び声は上げない。大きな物音を立ててはますます逃げられなくなる、という市井時代に培った経験の賜物だ。
 隙を見て逃げ出そう。まだ顔は見られていない。窓から飛び出せばあとは塀を超えるだけで小路に紛れ込める。動揺を悟られないよう、腕で顔を隠しながらゆっくりと白狼は振り返った。
 いつの間に戸口へやって来ていたのか、ひょろりと背の高い男、いや宦官は手に持った燭台を室内に掲げている。揺れる蝋燭の灯りに照らされた人物はやはりというか、案の定というか、徳妃付き宦官の柏だ。つるりとした顔にはいつも通りの笑顔が浮かんでいる。
 その変わらぬ笑顔に白狼の背筋はぞわりと粟立った。

「この宮の者ではないね。こんな夜更けに、一体どこから来たのかな?」

 白狼はそれには答えずじりじりと後ずさった。

「徳妃様の御命を狙いに来たというにはこんなところで油を売っているし、見たところ丸腰だ。毒でも盛りに来たか、何か細工をしにきたか、といったところかい?」

 今日の天気を語るかのように、全く緊張感を感じさせない声が逆に恐ろしい。一刻も早くこの場から逃げ出そう、と白狼は更に後ずさる。しかし柏はそれを察したのかふふっと小さく笑った。

「逃げるというならそれでもいいが、君の主はその失態を罰せずにいてくれるものかね?」

 どうやら白狼をどこかの刺客と思っているのだろう。逃がしてくれるのであれば好都合である。顔を隠したまま、白狼は窓枠に手をかけた。

「君の主は、皇后陛下かい? それとも、朱充媛の縁者かな? せっかく敵が一人減ったところで、性急なことだね」

 敵、とは貴妃の事か。白狼の動きが止まる。手当たり次第に懐へいれた手習いの書き付けが、かさりと乾いた音を立てた。その音を聞きつけたのか、柏がほうっと小さく息を吐く。蝋燭に照らされたその顔が、ほんのわずかに歪んだように見えた。

「そんなものを持ってどこへ行こうって言うんだい? 下女たちの書き散らした書とも文とも言えない落書きだよ」

 ずいっと柏が歩みを早める。

「焚きつけにも使えない粗末な紙に、何の用かな? 悪いことは言わない。それを返してくれないか。君には不要のものだろう」

 やっぱり、と白狼は息を飲んだ。この宦官のこだわり方に、頭の中に渦巻いていた疑念が確信となる。この中におそらく「証拠」があるのだ。であれば一刻も早くこれをもって逃げなければいけない。それが焦りを加速させたのだろう。
 白狼は窓の外に身を翻した――つもりだった。
 自分の身軽さを過信していたわけではない。迫られていたとはいえ柏とは十分な距離があった、と思っていた。承乾宮の周のように武官上がりではないことは、そのひょろ長い体つきから予想がついていた。しかしそんな思惑をはるかに上回る機敏な動きで、柏は宙に浮いた白狼の身体を取り押さえたのだ。

「くっ……!」
「いけないよ、まだ話の途中だ……おや?」

 組み伏せられた白狼は必死に顔を床にこすりつけた。じたばたと手足を動かしてもがくが、思いのほか柏の力は強く振りほどけない。上背がある分だけ体重もあるらしく、どれだけ暴れてもびくともしないことに今更ながら慄く。せめて顔を隠さなければ、と思ったがそれももう遅かった。

「……やはり君だったか。白狼君」

 ため息とともに名を呼ばれ、白狼は舌打ちをした。

「燕と仲が良かった君が何か勘付くとは思っていたが、これは帝姫様の差し金かい?」
「ち、ちがっ……!」
「独断ではないだろう? さて、育ちの悪い下男のしつけも十分にできていないとは、皇后陛下に帝姫様もろとも叱ってもらおうか」
「違うっつってんだろ! 離せおっさん!!」

 声を荒げた白狼に、上から柏が顔を近づけた。口元に人差し指を立て、しぃっとささやく。

「あまり騒ぐと宮の者も起きてしまうよ。衛兵に君を突き出せば、どうなると思う?」
「うるせえじじい! 離せ! てめえ、燕の自害に一枚噛んでんだろ! てか燕を自害に見せかけて殺したんだろう! てめえが黒幕かよ! いや徳妃か? どっちにしたって皇后にバラしてやる!」
「皇后陛下に口を開く前に、君の頭は胴と切り離されているだろうねぇ」

 否定の言葉はない。ということは是である。白狼の頭が一瞬で沸騰した。
 人の好さそうな顔をして、慈悲深い妃とその宦官と見せかけて、下女たちを手駒として使ったのだ。燕は騙されていたと気が付いたのか、それとも知らずに殺されたのか、自害に追い込まれたのか。自害に追い込まれたのだとすれば、それは白狼の一番嫌いなやり方だった。
 かっとなったままもがく白狼の上で、柏は変わらず笑顔を浮かべている。それがさらに白狼を苛立たせた。
 しかしひとしきり暴れていると、床にこすりつけていた顔の鼻先すれすれでどすっと鈍い音がした。目の前に剣が突き立てられたと気が付いたのは、白く光る金属に映ったぼんやりとした影に焦点があった時だ。
 白狼の喉がごくりと鳴った。

「誰にどこまで話した?」
「……話してねぇ。誰にも」
「そんなわけはあるまい。君は帝姫に相当心酔しているそうじゃないか。底辺の生活から救われた恩義もある。後宮内を自由に歩き回れるように取り計らわれているのは、集めた情報を姫に献上するためだろう?」

 心酔している、というのは燕からの情報だろうか。恩義とまで言われ、不思議と白狼の頭が冷える。そんなんじゃない、自分たちはと言いかけて口をつぐんだ。
 ではどうなのだと言われても答えようがない。四つ年下の少年の、端正で美しい横顔が脳裏をかすめる。その顔が小憎らしく笑った。
 その顔を思い出したところで白狼の腹が決まる。あらんかぎりの力を込めて、頭上の柏を睨みつけた。

「病弱な姫君だ。ようやく啓礼の儀を済ませ、後宮から出て行ける日も目前だというのに余計なことに首を突っ込まなければよいものを」
「言ってねえよ。俺の独断だ」
「本当かい?」
「確証がなかった。証拠揃えて、訴えてやろうと思ったんだよ」

 初めに遺書を疑ったのは銀月だが、その後勝手に動いたのは白狼自身である。ここに居るのは、燕の死の真相を知るために自分で選んだ結果だ。

「そうかい。じゃあ、今ここで君が消えても永和宮に嫌疑の目が向けられることはない……と」

 ふむ、と柏は頷いた。そして何気なく、本当に何気なく床に落ちた塵でも拾うかのようなさりげない動作で剣を振り上げた。

「余計なことに気が付かなければ長生きができたね」

 ぬるりと光る刃の切っ先が、白狼を目掛けてまっすぐ降ろされた。
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