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後宮の偽女官
横溢の薫香③
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卓では、まあとでもいう風に口元に手をやる徳妃と、しまったとでも言わんばかりの柏がこちらを見ている。助けてくれるかと思いきや、柏はすぐさま表情を戻して皇帝に酒を注いだ。
「新たに雇い入れた侍女の白玲でございますよ、陛下。先日いらした際にお目通りをしております」
「おお、そうだったか。それはすまない」
「幼く見えますが、既に十五。お目に敵いますかな」
「十五とな。それは良い。良い年ごろだのう」
近う、と再度呼ばれれば白狼に断ることはできない。奥歯を噛み締めて怒鳴りたいのを我慢しながら近づくと、皇帝の目尻はやにわに下がった。
「これはこれは。随分とかわいらしい女子ではないか。どうだ、後宮暮らしには慣れたか? 不自由することがあれば申せ」
さりげなさを装っているが下心は全く隠せていない。皇帝に肩へ手を添えられ、白狼の奥歯はガチっと音を立てた。咄嗟に振り払わなかった自制心を誰かに褒めてほしい。誰にか。誰でもいい。この場の徳妃にでも、柏にでも構わない。鼻の下を伸ばしているであろうおっさんの顔を見るのも嫌で、ぎゅっと目をつむり白狼はひたすら首を横に振った。
「遠慮することはないぞ」
「……っ!」
「どうした。返事をせぬか?」
仮にも四夫人の一画であり、自分の子を宿している徳妃の前で外の女に声をかけるというのは一体どんな神経だろう。口が利けたらどれほど汚い言葉で罵っているか分からない。こんな奴が銀月の父親だというのが、全くもって信じられなかった。
口が利けない設定にしたんだから助けろよ、と傍らの宦官を見やれば柏は柏で皇帝を止めようともせず、空いた杯にまた酒を注いでいる。侍女たちもいつの間にか姿が見えなくなっていた。宮の大人たちは伽ができない徳妃の代わりに白狼を献上するつもりなのかもしれない。
冗談じゃねえ。
白狼がただ首を振っていると、肩に置かれた手がそそと背中を撫でた。背筋を悪寒が走り、白狼は思わず身を引く。その素振りがいかにも若い娘のように初々しく見えたのだろう。皇帝の顔が好色気に歪んだ。
まずい。白狼の脳裏にいくつかの選択肢が浮かんでは消えた。
どうする、いざとなったら殴ってでも逃げるか。しかしその場合自分の首も飛ぶが徳妃たちはどうなる? そして銀月たちは? そんな一瞬の躊躇いが白狼の動きを止める。
その間も、じわりじわりと皇帝の手のひらが白狼の小さな背中を蹂躙していた。しかしごくりと喉を鳴らした皇帝の指が腰まで伸びたときだ。
「陛下」
涼やかな声が、淫靡な空気を打ち払った。
「白玲はまだ後宮に勤めて日が浅く、ようやくこちらで仕事に慣れ始めてくれました。しかも生まれつき口が利けないので、不憫に思いこちらで世話をすることになったのです」
「ほう……」
「まだ後宮のしきたりも教えておりませぬゆえ、今宵はどうぞご容赦を。代わりにわたくしと柏と、また碁を打ってはいただけませんか? 陛下がご満足されるまでお相手仕りますわ」
ね、と徳妃は微笑むと手に持った碁石を卓に置いた。ぷっくりととろみのある艶を放った白石から、ぱちっと景気の良い音がする。そんなので釣れるかと思ったが、皇帝は碁石を手に取った。ほうほうと髭を撫でつけながら石を表にしたり裏にしたりして眺め、満足そうに頷くではないか。
「これは良い品だな」
「実家より、大きな蛤から削り出したといって送ってきた碁石でございます」
「なるほどなるほど。これ程よい石はなかなかないな」
どうやら皇帝は碁が好きらしい。銀月もなんだかんだ言いながら碁を好んでいることだし、やはりこれは血は争えないということなのか。皇帝の興味が白狼から碁石に移ったところで、徳妃が目配せした。小さく唇を動かし、下がってよいという。
助かった。
柏は少し苦い顔をしていたが、しきりに皇帝から袖を引かれ仕方なさそうに碁盤を出すよう侍女を呼んでいる。
これはおそらく長くなるだろう。貞操の危機が一点して好機到来だ。
白狼は即座に頭を下げて後ずさり、徳妃の部屋から辞したのだった。
自室に戻るとすぐさま侍女の衣を脱ぎ捨てた。なるべく色味の濃い上着を羽織って腰まわりと足回りを紐で縛る。宵闇に紛れ、下女たちが多くいる棟へ忍び込むためだ。あの夜は失敗したが、手習い所は続いているらしいし柏が書いた手本の一つでも手に入れられるかもしれない。
寝具の下に隠しておいた即席の綱を寝台の柱に括りつけ、ぐっと引っ張って強度をたしかめる。少し寝台が軋むが何とかなるだろう。
「っし。んじゃ、さっさと済ませるとすっか」
白狼はにやりと笑って窓の外へと身を翻した。正房の二階にあてがわれた白狼の自室から地上まで、身の丈のおよそ四倍ほどだ。さすがに飛び降りるのは難しいが、布で出来た綱に脚を絡ませそろそろと降りればどうという高さではない。
敷砂利に降り立った白狼は、なるべく音を立てないようにゆっくりと正房の裏から別棟に移動した。
途中、廊下を侍女が行き来している所があったが、皇帝の接待で忙しい彼女たちが外の物音に耳を傾けることはない。柏が酒を持ってこいと言っているということ、皇帝がまた勝ったから柏が罰として酒を煽っていることなど、漏れ聞こえる内容から察するにまだまだ碁は続いているらしい。
しめしめ、と白狼は下女たちの手習い部屋へと急いだのだった。
「新たに雇い入れた侍女の白玲でございますよ、陛下。先日いらした際にお目通りをしております」
「おお、そうだったか。それはすまない」
「幼く見えますが、既に十五。お目に敵いますかな」
「十五とな。それは良い。良い年ごろだのう」
近う、と再度呼ばれれば白狼に断ることはできない。奥歯を噛み締めて怒鳴りたいのを我慢しながら近づくと、皇帝の目尻はやにわに下がった。
「これはこれは。随分とかわいらしい女子ではないか。どうだ、後宮暮らしには慣れたか? 不自由することがあれば申せ」
さりげなさを装っているが下心は全く隠せていない。皇帝に肩へ手を添えられ、白狼の奥歯はガチっと音を立てた。咄嗟に振り払わなかった自制心を誰かに褒めてほしい。誰にか。誰でもいい。この場の徳妃にでも、柏にでも構わない。鼻の下を伸ばしているであろうおっさんの顔を見るのも嫌で、ぎゅっと目をつむり白狼はひたすら首を横に振った。
「遠慮することはないぞ」
「……っ!」
「どうした。返事をせぬか?」
仮にも四夫人の一画であり、自分の子を宿している徳妃の前で外の女に声をかけるというのは一体どんな神経だろう。口が利けたらどれほど汚い言葉で罵っているか分からない。こんな奴が銀月の父親だというのが、全くもって信じられなかった。
口が利けない設定にしたんだから助けろよ、と傍らの宦官を見やれば柏は柏で皇帝を止めようともせず、空いた杯にまた酒を注いでいる。侍女たちもいつの間にか姿が見えなくなっていた。宮の大人たちは伽ができない徳妃の代わりに白狼を献上するつもりなのかもしれない。
冗談じゃねえ。
白狼がただ首を振っていると、肩に置かれた手がそそと背中を撫でた。背筋を悪寒が走り、白狼は思わず身を引く。その素振りがいかにも若い娘のように初々しく見えたのだろう。皇帝の顔が好色気に歪んだ。
まずい。白狼の脳裏にいくつかの選択肢が浮かんでは消えた。
どうする、いざとなったら殴ってでも逃げるか。しかしその場合自分の首も飛ぶが徳妃たちはどうなる? そして銀月たちは? そんな一瞬の躊躇いが白狼の動きを止める。
その間も、じわりじわりと皇帝の手のひらが白狼の小さな背中を蹂躙していた。しかしごくりと喉を鳴らした皇帝の指が腰まで伸びたときだ。
「陛下」
涼やかな声が、淫靡な空気を打ち払った。
「白玲はまだ後宮に勤めて日が浅く、ようやくこちらで仕事に慣れ始めてくれました。しかも生まれつき口が利けないので、不憫に思いこちらで世話をすることになったのです」
「ほう……」
「まだ後宮のしきたりも教えておりませぬゆえ、今宵はどうぞご容赦を。代わりにわたくしと柏と、また碁を打ってはいただけませんか? 陛下がご満足されるまでお相手仕りますわ」
ね、と徳妃は微笑むと手に持った碁石を卓に置いた。ぷっくりととろみのある艶を放った白石から、ぱちっと景気の良い音がする。そんなので釣れるかと思ったが、皇帝は碁石を手に取った。ほうほうと髭を撫でつけながら石を表にしたり裏にしたりして眺め、満足そうに頷くではないか。
「これは良い品だな」
「実家より、大きな蛤から削り出したといって送ってきた碁石でございます」
「なるほどなるほど。これ程よい石はなかなかないな」
どうやら皇帝は碁が好きらしい。銀月もなんだかんだ言いながら碁を好んでいることだし、やはりこれは血は争えないということなのか。皇帝の興味が白狼から碁石に移ったところで、徳妃が目配せした。小さく唇を動かし、下がってよいという。
助かった。
柏は少し苦い顔をしていたが、しきりに皇帝から袖を引かれ仕方なさそうに碁盤を出すよう侍女を呼んでいる。
これはおそらく長くなるだろう。貞操の危機が一点して好機到来だ。
白狼は即座に頭を下げて後ずさり、徳妃の部屋から辞したのだった。
自室に戻るとすぐさま侍女の衣を脱ぎ捨てた。なるべく色味の濃い上着を羽織って腰まわりと足回りを紐で縛る。宵闇に紛れ、下女たちが多くいる棟へ忍び込むためだ。あの夜は失敗したが、手習い所は続いているらしいし柏が書いた手本の一つでも手に入れられるかもしれない。
寝具の下に隠しておいた即席の綱を寝台の柱に括りつけ、ぐっと引っ張って強度をたしかめる。少し寝台が軋むが何とかなるだろう。
「っし。んじゃ、さっさと済ませるとすっか」
白狼はにやりと笑って窓の外へと身を翻した。正房の二階にあてがわれた白狼の自室から地上まで、身の丈のおよそ四倍ほどだ。さすがに飛び降りるのは難しいが、布で出来た綱に脚を絡ませそろそろと降りればどうという高さではない。
敷砂利に降り立った白狼は、なるべく音を立てないようにゆっくりと正房の裏から別棟に移動した。
途中、廊下を侍女が行き来している所があったが、皇帝の接待で忙しい彼女たちが外の物音に耳を傾けることはない。柏が酒を持ってこいと言っているということ、皇帝がまた勝ったから柏が罰として酒を煽っていることなど、漏れ聞こえる内容から察するにまだまだ碁は続いているらしい。
しめしめ、と白狼は下女たちの手習い部屋へと急いだのだった。
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