『カサブランカの咲くベランダで』

『カサブランカの咲くベランダで』

朝の光が
白い壁に触れてほどけるころ
名前のない静けさが
部屋の隅にやわらかく沈んでいる

かつては
音に満ちていたはずの場所で
私はようやく
自分の呼吸を聞く

鍋の中で揺れる出汁の香りも
刻む野菜の湿った音も
誰かに届くためではなく
ただ、ここにあるだけでいい

「おいしい」と言う声が
自分の中で完結する
それだけで
世界は欠けない

ベランダに出ると
白い花がひらいている

カサブランカ
何も語らず
ただ、そこに在る

その姿に
理由はいらない

土に触れた指先が
まだ少し冷たくて
それでも確かに
生きているものの重みを覚えている

風が通り抜けるたび
花弁はわずかに揺れて
光を抱いたまま
ほどけるように呼吸する

私はそれを見ている

見ているだけでいいと
初めて思う

失ったものの輪郭は
もう思い出せない
ただ、かつてそこに
重さがあったことだけが
遠くに残っている

その代わりに
いま、この手の中には
軽さがある

選び直した日々の
ささやかな手触り

水をやる
火を入れる
窓を開ける

そのひとつひとつが
私の時間として
静かに積み重なる

「来年は、もう少し鉢を増やそう」

声に出すと
未来はそれだけで
やわらかく形を持つ

誰のためでもなく
何かを証明するためでもなく

ただ、
私がそうしたいから

カサブランカは
変わらず白く咲いている

何も問わず
何も求めず

それでも
ここに在ることを
静かに肯いている

その隣で
私はようやく
自分の名前を持つ

風の中で
光の中で

何も奪われない場所で

この暮らしを
そっと抱きしめる

終わりではなく
続いていくものとして

今日もまた
白い花が揺れている

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