『お出汁の湯気の向こう側 〜去った夫に贈る、私だけの美味しい食卓〜』

『お出汁の湯気の向こう側 〜去った夫に贈る、私だけの美味しい食卓〜』

『お出汁の湯気の向こう側』

静かすぎる部屋で
音を失った食卓を見ていた

箸も 器も そこにあるのに
「食べる理由」だけが消えていた

あなたの言葉は
味のない水みたいに
ずっと喉の奥に残っていた

――何もない人間だ

その一言で
私は空っぽになったと思っていた

でも

戸棚の奥に
忘れられた昆布があった

乾いた手触り
少しだけ海の匂い

水に沈めると
ゆっくり ゆっくり
形を取り戻していく

まるで
私みたいに

火をつける
音は小さい
でも確かに 始まっている

鰹節を入れた瞬間

ふわり

世界が戻ってきた

匂い
温度
記憶

そして

「いい匂い」

その一言が
私をここに引き戻した

一口飲む

ああ

ちゃんと 温かい

ちゃんと 美味しい

ちゃんと 私が感じている

涙は
悲しさのためじゃなかった

戻ってきたものが
あまりにも確かだったから

それから少しずつ

私は選び始めた

誰のためでもない
「食べたいもの」を

火加減を見て
音を聞いて
待つ時間を知って

私は知った

手間は
無駄なんかじゃなかった

あれは
私を大切にする時間だった

あなたは
効率で世界を測っていたけれど

私は
湯気の向こうで
自分を見つけた

ある日
あなたの名前を聞いた

けれど
鍋の音の方が
大事だった

もう
あなたの物語は
私の中にない

戻ってきたあなたは言う

「許してやる」

私は湯のみを持ったまま
少し考えて

そして

本当に思った

――誰?

怒りはなかった

ただ

必要がなかった


鉄瓶が鳴る

湯気が立ち上る

その向こうに
私の一日がある

誰にも奪われない
小さな選択の積み重ね

今日
何を食べよう

その問いが

こんなにもやさしく
こんなにも強い

私は

ようやく

自分を満たせるようになった

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