タンブルウィード

まさみ

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Tempest

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体のけだるさに瞬く。
最初に甦ったのは聴覚、次に触覚。
現場復帰した五感が徐徐に知覚にリンクしていく。
暗闇で圧された視界は薄ぼんやりとして、焦点を結ぶのに時間がかかる。
荒く生々しい息遣いが聞こえる。
手負いの獣じみた……いや、発情した獣と表現したほうが正しいか。誰かが耳元で喘いでいる。それも野郎だ。気色わりぃ、と露骨に顔を顰める。耳元でハアハアやられるのは不愉快だ。
腕が自由なら跳ねのけていたところだが、何故か体が動かねえ。不可視の力に束縛され、指一本意志通りに曲げられない。

一体全体ここはどこだ?
やけに見覚えある光景に得体の知れない既視感が騒ぎだす。
そこで記憶が蒸し返される。
どうりで覚えがあるはずだ、ガキの頃から見慣れたトレーラーハウスの天井じゃねえか。けど俺のベッドの上ならどでかいポスターが貼ってあるはずだ。
兄貴がイメージトレーニングと称して貼ったマッチョなボディビルダーの上から、美女のヘアヌードを重ね貼りしたのだ。
地味な嫌がらせだな、と苦笑する。童貞こじらせたピジョンは目のやり場に困って赤面してたっけ。
今、それが見当たらない。ピジョンのヤツが剥がしたのか?
天井には何もなく、ただ平坦な闇だけが広がっている。
それ以外にも相違点を数え上げればきりがない。ベッドの寝心地も微妙に違ってる。
無防備に仰向けたまま、視線だけ横手に転じれば、ベッド際の壁にクレヨンで落書きした画用紙が何枚も貼ってある。
どれも笑っちまうくらい下手くそだ。どうやら女らしい、長い髪の棒人間が、小さい棒人間とおててを繋いだ絵。まあるく膨らんだ腹の女と、その中の丸。よちよち歩きのガキが描いたもんだと一目でわかる。
クレヨンの落書き群は壁一面を占領している。
『すっかり大人しくなったな。抵抗はもうやめか?それとも……クスリが効いてきたのか』
悪意を塗した揶揄を浴びせられ、正面に向き直る。
男がいた。顔は見えない。
細かい目鼻立ちは闇に溶け込んで判別付かねえが、声はまだ若くせいぜいハタチそこそこだ。
反射的に肘の内側を見りゃ、赤い点が散らばっている。
真新しい注射の痕跡……薬を打たれた?頭が回らねえのはそれでか。体も言うこと聞きゃしねえ。
何の薬だ?覚せい剤?ヘロイン、コカイン、モルヒネ……量はどれ位だ?脳裏で疑問と焦燥が渦巻く。
ヤバいぞ、この状況は。
何が何だかわからねえが、目が覚めたら知らねえ男がいて、クスリのせいで指一本まともに動かせねえときた。ぶっちゃけ詰んでる。
ひた、と頬に手が這わされる。
『いい子にしてりゃたっぷり可愛がってやる。お前のイイとこは全部知り尽くしてんだ、カラダの相性はぴったりだ。わかってんだろ』
自信満々言い切り、妙に優しい手付きで俺の頬をなでまくる。
男にしちゃすべらかな手が顔の輪郭をすべり、首筋におりてくる。
気色わりぃ、振り払いたい。なれなれしいんだよこんチキショウ。
こんなヤツ俺は知らねえ、会ったことねえし見たことねえ、そう叫ぶ理性の裏側で本能がうるさく警報を鳴らす、まるで覚えてもねえだれかの記憶を再現されてるような……

恐怖は俺にもっとも縁遠い感情だ。
生まれてこのかたさんざん無茶をやらかしてきたが、ナイフで刺されようが銃弾ぶっぱなされようが恐怖を覚えたことはなかった。
それが今、恐怖に限りなく近い慄きが腹の底から沸いてくる。

『逃げんじゃねーよ淫売が』
頭皮に激痛が走り、前髪を力ずくで掴んで揺さぶられる。暴力を脅しに使うことにまったく躊躇がない。
狂気を孕んだ陰惨な笑いが響き、沸々と滾る憎悪を練り込んだ呪詛が紡がれる。
『お前が消えたせいで商売上がったりだ。まさか本気で逃げきれると思ったのか、甘く見られたもんだ。よちよち歩きのガキ連れて、トレーラーハウス転がして……店の連中はみんなご立腹だ、どんな手使ってもただちに連れ戻せとさ、稼ぎ頭にトンズラされちゃ丸損だ。さて、ガキはどうするか……びいびい泣いて足手まといなら窓から捨てちまうか、道端に置き去りが……運が良けりゃあゴミ溜めあさって生き延びっかもしんねーぞ?連れ帰ってもどうせ二の舞だ、下働きとしてこき使われて体売らされるんだ、小さけりゃ男でも女でもいい変態どもがうようよしてっからな……穴さえ付いてりゃいいんだよ連中は、いっそ手放すのが慈悲ってもんさ。それか親子で客とるか?案外ウケるかもな』
何言ってんだ、頭おかしいのか。
店の連中ってなァだれだ、ガキってなんのこった。
意味不明、支離滅裂の妄言を喋り散らしながら、俺の手首を掴んでのしかかる。
生温かい吐息が顔をぬらし、膨らんだ股間が腹にあたる。
『……気が変わった』
男の声がまた一段低まり、邪悪な笑みに染まる。
『腐れ淫売の分際で俺の手ェ噛んだんだ、ただじゃすまさねえ。店の連中はキレるだろうが知ったことか、もっといいこと考えた。今お前に打ったのはただのドラッグじゃねえ……特別なクスリだ。今まで試したヤツは全員泡吹いて苦しんでたが、幸か不幸か体質が合っちまったみてえだな』
どくん。
男の言葉が契機になったように心臓が跳ね、急激に体温が上がりだす。
血流の加速に乗じて薬の成分が循環、全身の毛穴から汗が噴きだし異常に喉が渇く。
知覚が鋭敏に研ぎ澄まされ、特に触覚が過敏になる。
性感が何倍、何十倍にも膨れ上がって、頬をただ擦られてるだけなのに刷毛でペニスをくすぐられてるようなじれったさに翻弄される。
『あッ……ァあ』
窄めた爪先でシーツを掻き毟り、巻き上げ、蹴飛ばす。
しなやかに仰け反る喉から、紛れもなく感じている声がでる。
全身の皮膚が性感帯に作り替えられたみたいだ。男にさわられた場所が熱を持ち、孔の中が疼いてたまらない。
男が俺にさわる。
首筋をなでさすり、胸をくすぐり、腰のくびれを掴み、尻の柔肉を揉みしだく。
焼き鏝のようなてのひらが体の裏表に触れる度、官能に火が付いて甲高い喘ぎが迸る。
やめろと叫びてえ、即刻ぶん殴りてえ、それができりゃ苦労しねえ。ナイフはどこやっちまった?肌身離さず持ってたのに肝心な時に役立たねえ……

体がぐずぐずに溶けていく。
腰がどろどろに溶けていく。

男が俺をメス犬のように這わせ、後ろから股ぐらをいじりだす。
俺の股ぐらは既にぬれそぼって、大量の愛液を滴らせている。グチャグチャと音がする。淫猥な水音……股ぐらに手をやって、乱暴に捏ね回す。
『手首まで入っちまいそうだ。試してみるか』
冗談キツイ。フィストファックはお断りだ、一昨日きやがれ。
『あッあぅあッ、あァあああッあ!?』
舌が回ればそう言い返してたところだ。俺の股ぐらを好き放題にこねまわしかきまぜて、内腿までべとつく汁を塗り広げていく。腰を中心にやるせない震えが広がる。
『こっちはどうだ?』
男の気配が背中に押し被さり、俺の腰を引っ掴んで、尻の窄まりにイチモツを添える。
下肢を引き裂く激痛、壮絶な異物感と圧迫感……巨大なペニスがみちみちと肉を圧し、閉じた肛門へめりこんでいく。
腹がキツい、苦しい、息ができねえ。
『はっ……すっげえ締まる……アナルはご無沙汰か?』
ガキの頃からいろんな野郎に使わせて、さんざん使い込んだケツのくせに、処女膜が破れる痛みを疑似体験する。
男が容赦なく動きだす。
俺の腰を掴んでペニスを抽挿、感度が高まった襞を巻き上げて奥をガツガツ突きまくる。
『はァッ、うわっ、やめ、あふっあァあ!!』
シーツをかきむしって絶叫する、気持ち良すぎて理性が消し飛ぶ、ふやけきった口から涎をたれながし夢中で腰を振る、こんな気持ちいいの知らねェ、今まで体験したことねえ最高のエクスタシー……脳裏で立て続けに閃光が爆ぜ、目の前が真っ白になる。
『!?ッぐ、』
首の後ろに激痛、興奮した男がうなじを噛んだのだ。
肉まで歯が達して、痛い。それがとても気持ちいい。マゾヒスティックな快感が駆け巡り、爪先までヒクヒク痙攣する。
男が身体の至る所に噛み付きだす。
肩、上腕、手首、背中、腰……歯が食い込むたび鋭い痛みと快感が錯綜、刺激と性感が脊椎を迷走する。
マウンティングのような……マーキングのような……愛情なんてかけらもなく、自分のモノに所有の証を刻む。
歯型の数と執着心は比例する。
俺がピジョンにしてるのと一緒だ。
コイツはまるで、俺の分身だ。悪趣味なパロディだ。
『ァはっ、あははははははははははッ!!』
顎の箍が外れたように馬鹿笑い。
痛々しく血が滲み、肉がへこんで穴が穿たれたあとは、この前ピジョンにマーキングしたのと位置から形状からまったくおんなじだ。
やった、兄貴とおそろいだ。
そうこなくっちゃ、俺たちは歯型もペアだ。じゃなきゃ刺青まで対にした甲斐がねえ、ツバメとハトは一心同体最強なんだ。
俺は笑いながら腰を振る、ケツを突き上げて派手に悶える、男が時折股ぐらに手をやって前をいじりまくる、ぐちゃぐちゃとぬる付く前に指が絡んで先端を押し潰す、その間もペニスの出し入れは止まらず直腸を突き上げ続ける。
『ふあァっ、あうっあうっあうぅッ』
肉付きのいい腰がいやらしくくねり、既にして大洪水の前が間欠的に潮を吹く。
前を押さえた手指の間からプシュプシュと汁が飛び散り、再び尿道を熱が駆け抜け、黄色い水が勢いよく弧を描いて迸る。
『小便くせえ……よすぎて失禁?相変わらず股が緩ぃな、予定日近ェのか』
熱い滴りが弛緩しきった股間を汚し、蒸れた湯気に乗じてお馴染みのアンモニア臭が漂いだす。
股を覆う手の間から放尿し、力尽きてぐったり突っ伏せば、一回ケツを叩かれまた引っ立てられる。
『勝手にへばってんじゃねえ、アヘりだすまでブチ犯してやるから覚悟しな』
『あッうぐ、やめ、いぐッァ―――――――――ッ!!』
男はびしょ濡れの手でぐちゃぐちゃにぬかるんだ股間をもみほぐし、赤く勃起したソコを重点的に責めまくる。
『アハッ変な汁がでてきた、破水かコレ?ガキと一緒に犯される気分はどうだよ、前と後ろで擦れて腹いっぱいだ、あとで子宮口にもねじこんでやっからな。赤ん坊に俺のを浴びせてやるよ』
一方ケツを串刺したペニスは衰えを知らず腹を裏漉しし、肛虐の快感を強引に開発していく。
前と後ろ、いつはてるともしれない挟み撃ちの責め苦。
『いぅッ……あっあ、ぅあ、ひあっ』
全身の細胞がグツグツに煮溶かされ、性器に作り替えられたケツを掘られる度外れの快楽に発狂しかける。
『あーーーーーーーーーーーッあ゛ーーーーーーーーッ!!』
赤ん坊返りしたように盛大に泣き喚く。
知らねえヤツにレイプされてるのに、なんでこんな気持ちいいんだ?
ありえねえ。
まだ足りねえ。
もっと欲しい、身体中の穴という穴にぶちこんでほしい、頭がぶっ壊れるまで犯しまくってくれ。
男が軽薄に口笛を吹く。
『すげえ、ぼんぼん蹴って暴れてやがる……助けようとしてんのか?』
瞼裏で光が爆ぜ、混沌と色彩が渦巻き、極彩色の螺旋を描く。遺伝子の二重構造ってこんな感じか?昔、母さんの馴染みの医者が教えてくれた……昔って何時いつだ?今は何時いつだ?ここは何処だ……
『ィくッ、ィきたい、あァああッ、ああァあァあァッ!!』
どこまでも永遠に続く、光り輝く螺旋階段を上り下りする。この先に天国の扉とやらがあるんだろうか?終点はどこだ……光がハレーションを起こし、瞼の裏の夥しい毛細血管が一際鮮明に赤く色付く。
さらなる刺激を求めて体内の襞がうねり狂い、ペニスを最奥にくわえこむ。
『あッ、そこ、すご、いい、イく、ィく』
上る、下りる、上る、下りる、上る、下りる……めちゃくちゃなタップダンスを踊る。だんだん楽しくなってきた。最高にハイってヤツだ。
幻覚と現実の境界線が溶け合って輪郭が歪み、曲がり、伸び縮みし、線になったと思えば輪になってぐるぐる回りだす。
大昔、まだ俺がよちよち歩きのちびだった頃に見た、移動遊園地のメリーゴーランドそっくりだ……ピジョンが指くわえて乗りたがった……ガキっぽいと、俺が馬鹿にした……(私も乗りたかった)誰だお前(綺麗な金色のポール、瀟洒な鞍を飾った白い馬……子供の頃から憧れた……一周ごとに手を振るの……へんね、こたえてくれる人なんていないのに)

俺の中にいるのか?
俺が中にいるのか?

知ってるようで知らねェ女の雑念ノイズが浸蝕し、大きいのと小さいの、二重の鼓動ノイズが同時に響き渡る。
水面を隔てているように声と音が撓み、無数の泡が上がる。
ラジオ電波の混線か……雑音が……もがいて溺れ、溺れてもがき、ぬるい水の中で不安定に浮き沈みをくりかえす。

もう声は押さえず、媚びるような半笑いで正体不明のレイプ魔を仰ぎ、大臀筋の浮かぶケツをめちゃくちゃに振りたくる。
汗でしけった髪がばらけて額に張り付き、絶頂の連続でぶっ壊れた涙腺が勝手に涙をだだ流し、鼻汁と涎が溶け混ざって顔中ぐちゃぐちゃだ。
『すっげえ声、外まで聞こえちまうぞ。まあこの嵐じゃ関係ねえか』
言われて初めて気付くが、窓の外の空は暗黒に覆われ暴風雨が吹きすさぶ。
へし折れた小枝やひっぺがされた建材の一部が凄まじい勢いで薙ぎ飛ばされてく光景に、濁流と化して大地を削る雨と殺伐とした風の唸りが轟々と重なり、地獄の釜が開く。

世界の終わりなんてものがあるなら、今がそうだ。
この夜がそうだ。
俺たち以外の人間はすべて死に絶え、世界は滅んだあとなのか。

ピジョンは?
母さんはどうした?

名前を呼ぼうと口を開くも、喘ぎ声にかき消されて音から意味が剥ぎ取られる。
『お前に打ったのは試験段階の新薬で、俺ァその試し打ちを任されたんだ。腹ボテの妊婦にゃまだ試してなかったからな……いいデータがとれるって、組織が喜びそうだ。ショック死してもおかしくねェ量を打ったんだが、ホントしぶてえよな』
売春宿のケチな用心棒より、組織の使い走りのほうが金になる。
『お前は逃げろ。死ぬ気で逃げろ。そしてさがせ、てめえら親子が助かる方法を、地獄を突っ切る唯一の道オンリーウェイを。今、胎盤を通した子宮ン中でビッグバンが起きてる。どんなバケモンが産まれてくるか乞うご期待、ヘミングウェイのネコよろしく六本指か、頭が二股にわかれてっか、それともそれとも……ちっちぇえ角としっぽが生えてたり?カワイイカワイイベイビーちゃんがどんな障害持って生まれてくるか楽しみだろ。とんでもなくツイてりゃ生き延びるかもしんねえが、なんにでも対価ヴィクテムは付き物だ。世の中広い、世界のはてにゃ中和剤ワクチンがあるかもしれねえ。見付からなけりゃそれでおしまい、ジ・エンド。ゆりかごから墓場まで最速の直行便だ』
ぺらぺらとよく喋る……耳障りだ。この手にナイフがありゃ、その憎たらしい口を耳まで切り裂いてやるのに。
『ほら、イッちまえ』
『ふあッ、あふ、あッあああああッァうああ゛――――ッ!!』
不浄を注がれる感覚に結合部がドクドク脈打ち、大量の白濁と出血がまじった液体が伝っていく。
オーガズムの瞬間、理性が蒸発。前が不規則に潮を吹き、体の内側と外側が激しく痙攣すれど火照りは冷めず、充血しきった襞が、潤んだ粘膜が、奥で濡れ広がり白濁した残滓が滴る肛門が、膨れ上がる鼓動と同期してヒク付きだす。

この上なく愉快げに男が提案したのは、絶望的に勝算の低い追いかけっこ。
ゴールがどこにあるかもわからず一方的に追い立てられて、あるかもわからない希望を探し続けるしかない。
とこしえに。

『負けたらガキをもらう』
窓で踊り狂う異形の影は激しい風雨に撓う梢か、吹き飛ばされていく有象無象か。
荒れ狂う嵐の中、暴力と狂気に憑かれて哄笑するバケモノが、繋がった身体をデタラメに揺すり立てる。
『一定の年数生き延びた遺伝子変異体ホルダーは貴重だ、組織が存在知ったら喉から手がでるほど欲しがるだろうな』
(いやよいや)
『お前らは追い付かれねえよう逃げるんだ、マクダラのマリアもそうだ、弟殺しのカインもそうだ、世界のはてまで転がろうが安息の地なんざどこにもねえ』
(だめったらだめ)
『昼も夜も永遠に呪われた荒れ地バレンを彷徨い続けるんだよ!』
(それだけはやめておねがい!)
再び雷が連続、窓からさしこむ稲光が男の影を奇妙に歪ませ引き伸ばす。

トレーラーハウスの天井に悪魔が巣食ってる。

稲光が連続で疾駆、眩い光が壁の一箇所に貼られた絵を照らしだす。
風圧で窓に張り付いた小枝が、女の膨らんだ腹ん中、まるっこい何かに不吉な影を投じる。
俺にはそれが、赤ん坊の背中から生えた黒い翼に見える。
男が萎えたペニスを抜き、首筋の歯型を甘噛み。
髪の毛が縺れて纏わる顔を手挟み、目と目が直線で出会うようゆっくり捩じる。
『お前は悪魔を愛せるか?』
近くに雷が落ちたのだろうか、地を突き上げる重低音と同時に今度こそ暴かれた顔は―……
俺だ。
俺だった。



(愛せるわ)




目を開ける。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
なんだ今の。
隣ではピジョンがぐうぐう気持ち良さそうに寝ている。天井を見上げれば、ヘアヌードの美女が艶やかに微笑んでいる。
ここはトレーラーハウスの中、固くて狭苦しい俺のベッド。
平手でマットレスに触れ、現実に帰還した事実を確かめる。タンクトップは汗を吸って変色している。
湿りけを感じて頬を擦りゃ、手の甲に水滴が付く。
涙だ。
「なに泣いてんのお前?ドン引きだわ」
いまさら夢で一回二回レイプされたからって涙腺に干渉されるほどセンチメンタルじゃねえ。
実際レイヴンは何度かご登場したが、寝起きはただただむしゃくしゃしてピジョンに当たり散らしたっけ。
「ヴァージンじゃあるめーし」
雫を弾き飛ばして舌打ち、枕の下へ手を忍ばせてナイフをとる。
何かあればすぐ刃を出せるように身構え、ブラインドを一箇所上げて透かし見る。
窓の向こうには澄んだ夜空が広がっていた。
荒廃し、蔦と雑草に覆われ、半ば自然に帰りかけたドライブインの光景。不審者が潜んでる気配もない。
まだ心臓がばくばく言ってる。やけに生々しい夢だった。右手に預けたナイフを回し、がりがりと頭をかきむしる。
「……夢ン中でケツ掘られるなんて溜まってんのか。しかもてめえに」
たとえ夢でも、レイプされるのはあんまり気持ちいいもんじゃねえ。実際犯されたような喪失感と疲労感が付き纏い、今日はもう勃ちそうにねえ。付け加えるなら、こちとら突っ込まれるよか突っ込むほうが「向き」なのだ。
随分難易度の高ェオナニーだなと自嘲、顔でも洗ってくるかと腰を浮かせば隣でもぞもぞと毛布のかたまりが動く。
ピジョンが寝返りを打ち、億劫げに眼をこすりながら聞いてくる。
「……スワロー……夢遊病?夜中に一人でブツブツうるさいよ」
「変な夢見た」
「悪い夢?途中で起きるなんて珍しいね、だいたい朝まで爆睡してるのに。あ、わかった、ひょっとしてオナ」
「それ以上言ったら殺す」
「……兄さんに対して酷いぞ」
しきりに瞬きし、ほんの少し真剣味を加えた顔で俺の方に近寄ってくる。あくまで毛布からでないあたり寝汚い。
「顔色ひどいぞ。汗もかいてる……どんな夢?サメ系?」
「サメ系ってなんだよ」
「サメが徘徊する沖合にボロ筏でほうりだされたり、頭が分裂したサメに雪山で追いかけ回されたり、サメが血の雨と一緒に降ってきて挙句宇宙に打ち上げられたり」
「もういい」
「サメの怨霊が街中駆けめぐって洗車してるギャルや便座に腰かけたおじさんを下水道に引っ張りこんだり」
「サメから離れろ」
「じゃあゾンビ系?」
「寝る前にホラー読むなよ、発想が馬鹿になるぞ」
漸く毛布をどけて上体を起こしたピジョンが、しょぼくれた寝ぼけまなこのまま心配そうに膝を詰めてくるのがうざったく、毛布をかぶり直してさっさと寝直すことにする。
「トレーラーハウスにサメはでねえよ、もしでたら養殖してキャビア獲り放題だ、食卓が潤って万々歳。しこたま塩買い込まなきゃな」
「どこで飼うんだよ、ウチシャワーだけでバスタブないぞ、しかもしょっちゅう壊れるし」
「シンクは?」
「はみでるからまめに水をかけなきゃ……食塩水がいいかな?塩は何グラム溶かせばいいんだろ」
「名前は何にする?ジョーズかアサイラムか……」
「映画の借りパクじゃないか」
「トイレにダンクしてお帰り願うか」
「まず捕まえられるかが問題。それに別のサメかもしれない、キャビアがとれるのはチョウザメだけだ」
「食べたことねェのにくわしいじゃん」
「サメには二種類いる。人を食うサメと、人を食うけど食べられるサメだ」
「どっちも食うんじゃん!サメなんて怖かねーよ、フィクションで超進化しねーかぎり陸上じゃ無能だ」
「……もっと怖いのがでるかもしれない」
夜中に目覚めて人肌恋しくなったのか、小さいガキに戻っちまったみたいに頼りない表情の兄貴が、俺に寄り添ってうとうとまどろみはじめる。
コイツには頭の悪い犬のようなところと、寂しがりの猫のようなところがある。
どんなに冷たくしてもこりずに纏わり付き、かと思えば普段は警戒してるのに、こっちが弱ってる時だけ素早く見抜いてすりよってくる。
他人の痛みに敏感すぎ、その孤独や寂しさを不器用なスキンシップで埋め合わせるコイツには、昔飼ってた犬と猫を足して割ったようなところがある。
「俺が守ってやるから……だいじょうぶ……」
安らかな寝息をたてはじめたピジョンに、どっちが守られてんだと突っこみかけてアホらしくなり、代わりにシャツの袖を掴んでずりおろす。
露出した右肩、そこに歯型がある。
夢の中で俺が付けられたのと同じ、劣情の痕跡。
タンクトップから剥き出しの右肩を確認したが、当然歯型はない。
「…………」
夢を現実に持ち越さずに安堵。
ピジョンの右肩、薄らいだ歯型に軽く接吻。人肌のぬくみが鼓動を落ち着け、袖から手を放してカーテンで仕切られた方向を見る。
夢の中で聞いた女の声が、母さんに似ていたのは気のせいか。
「……まさかな」

俺達の母さんが、あんな風に声を荒げたことは一度もねェ。
あんな風に、死ぬほど苦しげに泣くことはねェ。

「……あってたまるか畜生。夢だ夢、忘れちまえ!」
ガラスの切っ先で臓腑をかきむしるような悲痛な嗚咽を追い出し、カーテンの向こうでぐっすり寝てるはずの母さんに心の中でおやすみを告げる。

嵐は去った。
少なくとも、今は。

二度目の眠りに落ちる間際、世界のはてより遠いカーテンの向こうで幻聴と区別の曖昧な儚い嗚咽が聞こえたが……
ところにより毒と放射能が蔓延る荒れ地バレンすら禊ぎ浄めるテンペストのあとの、澄み渡った夜の静けさに呑まれ、消えた。









(愛せるし、愛するわ)
(愛し抜くわ)
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