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37、魔人の本質
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ゼルガーダンは長い間茫然自失となっていたが、やがて怒りのために顔は白くなり、手は小刻みに震えていた。
屈辱と混乱で、考えが上手くまとまらない。
だが自分は切り替えが早い方だ。あんな無礼な小僧と関わるのなど、こちらから願い下げだった。そうだ。忘れればいい。だが、叔父上のことは――。
その時、扉の向こうから使用人の声が聞こえてきた。
「ハルファース閣下がお越しになりました」
聞いた瞬間、今度こそゼルガーダンの思考は停止した。
応じる間もなく扉が開く。当然だ。使用人達は皆、ゼルガーダンの命令を聞くようになっていて、何か一つ行動を起こすにしても主人にお伺いを立てなければならない。が、叔父は別だ。叔父がここを開けろと言ったなら、誰一人逆らわない。もちろん、ゼルガーダンも。
姿を現さなくなったとしても、彼が魔の国で第二位の力を持つ者であったことは誰でも知っているのである。
一人の長身の男が、足音も立てずに入ってきた。
ゾンネ・ハルファース。
一族の中で最も背が高く、それだけでまず周囲を威圧している。見下ろされた者達は、厳冬の冷ややかな空気を感じたように身震いしてしまうのだ。
長い髪は雪白。目は凍てつく冬そのもの。歩みは静かで、顔は老齢とは思えないほど瑞々しく美しい。
ハルファース卿は化け物だと皆が口を揃えて言う。しかしこの「化け物」という言葉は、魔人の間では褒め言葉だった。
「久しいな、ムント」
骨まで凍りそうな声であった。
魔人にも家名はあるが、何かに属していたり縛られているのを好まないので、あまり名乗ったり呼び合う習慣はない。個人名で呼び合うことが多く、地位を得ればそれに相応しい名を名乗るのである。
ゼルガーダン卿と呼ばれるようになってから長く経つ。ゼルガーダンは、昔から叔父に名前を呼ばれるとぞっとするのだった。
単純な恐怖と、強者に対する嫌悪。ハルファースは同じ一族で、援助をしてくれる存在でありながら、いつもゼルガーダンを脅かす影だった。彼が表舞台から姿を消しても、尚、その恐ろしさはつきまとう。
「……顔色がよろしいようで、叔父上」
ゼルガーダンは大きく息を吸ってから、控えめな笑顔を浮かべた。
よりによって今である。まだ動揺がおさまっていない。まるで黒角と入れ替わるようにやって来たので、あの男が呼んできたのではと疑いたくなる。
実際、叔父の顔色は良好だった。虚ろな影が消えている。床に臥していた時の、今にもかき消えそうな様子とは全く異なっていた。これは以前の彼だ。息を吹き返したと言ってもいいほどの回復ぶりである。
「地獄へ落ちるのは今日か明日かと天井を眺めていたが、どうもまたその機会を逃したらしい」
この男はもう、齢五百に迫る。一体いつまで生きる気なのだ、とゼルガーダンは心中吐き捨てた。
白に覆われた頭部から伸びる角は、灰色を通り越して黒に近い。しかし、あの黒角の角に比べればまだ薄い色だった。
それを思う度、信じられなくなる。一族で最も強いはずの叔父より、濃い色をした角を持つだと? しかも名前は「黒角」ときている。嫌みか自慢かと取るのが普通だ。
黒角も叔父も、ゼルガーダンにとっては煩わしい存在でしかなかった。どちらもあまりに目障りだ。
「お前と黒角の関係は良くないと聞いているが」
「揉めるほどの関わりもありません」
「しかし、立場としては敵対しているだろうな。そんな男の身内のもとを訪ねて、お身体を治して差し上げたいと言うのだからかなりの変わり者だ、あの小僧は」
ハルファースは薄い唇に笑みを滲ませた。
「……黒角はあなたに何か仰いましたか」
「何か、というと?」
ゼルガーダンは一気に緊張した。黒角が自分に全て真実を話したとは信じられない。告げ口などしていないと言っていたが、全てを叔父に打ち明けている可能性もあるのだ。
だがまさか、叔父にかまをかけることもできない。それは自白したと同じだ。
「体を治す代わりに、何らかの要求をしたのではないかと。対価も得ずに治そうとなどしないでしょう」
「そうだろうな、普通は。私も最初は断ったのだ。しかし少しばかり話がしたいとあの男は言う。話をするなら体調が良い方が楽であろうと提案したのだ」
「話とは?」
「奴隷の話だ」
やはりか、とゼルガーダンは歯を食いしばる。だが、ハルファースの顔色も目つきも特段変わらず、甥に制裁を加えようとしている態度は見られなかった。
「人間の奴隷について話を聞かせてほしいと言われた。可愛がっているそうだが、それは本当なのか、と」
後は毒にも薬にもならない世間話をちらほらとしただけだとハルファースは笑っている。
黒角はハルファースの人間への扱いへ、妙に興味を持っているそうだった。
「ムント。お前の寄越した奴隷だが、実に気に入った。お前は良い趣味をしているな」
まだ油断はできないため、褒められてもどう返すか迷ってゼルガーダンは結局沈黙した。
「私は隠居した身で、何もすることがない。振り返ってみると今まで落ち着いて何かを愛でてみるという経験がなかったな。愛玩動物というのはなかなか良いものだ。お前には感謝しているよ」
隠居老人の微笑ましい話に聞こえるが、話しているのはあのハルファース卿である。数多の血と断末魔が彼の歴史だ。手をのばされて首をもぎ取られた者はいても、今まで撫でられた者などいない。
だが報告によれば叔父は例の人間の奴隷の頭を撫でてやるというのだから不気味でしかなかった。死の床で気が狂いかけているからだろうとは思っていたのだが。
ハルファースが人間の奴隷を真実可愛がっているという話を聞くと、黒角は頷いて満足し、戻っていったという。
「聞いたところによると、黒角は例の人間の辺境伯を囲っているそうではないか。我らはあの男にはなかなか手こずらされた。黒角は半魔人ゆえ、何か人間と通ずるところもあるのかもしれないな。面白い男だ」
興味深い、とハルファースはうつむく。
「私は黒角が気に入った」
言いながらハルファースは足を進め、前方を見続けるゼルガーダンの背後に回る。
「私はもちろん、一族の繁栄を願っている。期待しているぞ、ムント。ただお前は少々守りに入りすぎるところがあるな。ああいった無茶な競争者が近くにいるということは、良い刺激となるであろう」
笑いを含んだ声で言うと、ハルファースは後ろからゼルガーダンの首に片手で触れた。後ろから首をしめるような形だが、触っているだけで力は少しもこめられていない。
細くて長い、氷のような冷たい指が喉を這う。
「誰がこの地上で天下をとるか、見物だな」
耳元で囁かれたゼルガーダンは戦慄した。
この叔父は生粋の魔人である。余裕を失わず、時にはおかしなことを始め、狂気の片鱗を見せる。「愉快でありたい」、それこそが魔人の本質だ。
ハルファースはまだ楽しんでいる。閉じかけていた目を開いてしまったのだ。
こんな男は葬るべきだったのだ。だからこそ、命を助けた黒角が許し難かった。あれは、ハルファースがどれほど恐ろしい存在か知らない。
背中で感じるハルファースの魔力は確かに増えていて、彼がすっかり回復したという話が嘘でないというのを肌で感じる。
化け物の中の化け物。こうなってしまっては、再びしとめようとしてもそう簡単にはいかないだろう。
叔父を倒す好機を逃した。闇討ちなど、出来るものなら何百年も前にやっている。
「気を抜くでないぞ、ムント」
「わかっております」
ゼルガーダンはせめてもの矜持で、震えるのだけはどうにかこらえた。
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