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第46話

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妙に緊張してきた。
「来るかな…」
「来るわよ、焼き鳥食べるって息巻いてたもの。」
入り口を背にして座っているから様子を見ることはできない。仮に後ろを向いて待っていたら、自分を見つけた瞬間に帰ってしまうだろう。
志信は溜め息を飲み込むようにビールを流した。
「ほら、来た。」
背中を汗が伝う。
「しの、こっちー!」
カツカツとヒールの音が近づいてくる。
「お疲れー!ねえもう、残業やばくて殺意しかないんだけど…」
先客に気づき、立ち止まった。
「お疲れ。」
「私、帰る。」
「待ちなさい。しのは私と交換。」
「はあ?!」
「話すことあるでしょ。」
立ち上がって四葉の手を引っ張り、無理やり座らせた。
「じゃ、後は野となれ山となれー!」
機嫌よく立ち去った後に残ったのは、気まずい雰囲気だった。
「とりあえず、好きなだけ頼めよ。俺のおごりだし。」
四葉は能面のように表情を崩さず、じっとお品書きを見つめている。
志信はこの空気に耐えられず、自ら注文をした。四葉の好みは分かっている。
無言のまま料理は運ばれ、テーブルの上は四葉の好物で埋まった。
「冷める前に、食えよ。」
それでも動かない四葉に、志信は溜め息を吐いた。
「あのさ、マジで…俺なんかした?言ってくれなきゃ、全然分かんねえんだけど。」
無言が辛い。
いつもみたいに、罵ってくれた方がどれだけマシか。
「四葉、何か言えよ。」
どれくらいの間が経ったのか分からないが、極小さい声がした。
「名前で呼ばないで。」
「へ?」
「名前で呼ばないでって言ってるの。」
志信は瞠目した。
「え、それが理由?」
「名前で呼ばれると、思い出すから嫌。」
何を、とは言わない。
自分が意識的に呼んでいたのだから、分かる。
「俺は、嬉しいけど。」
「私は嫌。」
「他は?不満なこと全部言えよ。」
四葉は唇を歪ませて、拳を強く握った。
「いつも喧嘩腰なのに、急に優しくしないで。」
‪—‬喧嘩腰なのはそっちだろう。
その言葉は飲み込んだ。
「それと?」
「私のことニヤニヤ見てるのも嫌。」
「うん、で?」
「歩いてる時に手を繋ぐのも、髪を撫でるのも、すぐキスするのも。」
「うん。」
「私のわがまま許すとこも、嫌だって言ってるのにしつこいとこも…」
「うん。」
「さりげなくお酒を遠ざけるとことか、知らない間に助けられてたり、壁になったり…」
「うん…」
四葉の俯く瞳から、ぽたりと水滴が落ちてテーブルを濡らした。
志信の指先が、四葉の目尻を拭う。
「そうやって、甘やかすとこ!」
「好きな女は甘やかすだろ。」
パカリと開いた口の中に、出汁巻卵を突っ込んだ。
「あにふんの」
瞳を潤ませてもぐもぐと咀嚼する姿に、愛しさしか湧かない。
「お前が何しても可愛く見えるんだよな、俺。」
ごくんと卵を飲み込み、何か言おうとした口にすかさずイカの一夜干しを突っ込む。
「んー!」
「怒ってても、泣いてても、ちんこついてて性欲強くても、すげー可愛い。エロいのはむしろご褒美っつーか。」
段々と真っ赤になっていく四葉の、サイドの髪を耳にかける。色づいた耳たぶを指でなぞり、下がっている華奢なピアスを揺らした。
「俺、四葉が好きだ。」
言葉を返そうと、必死にイカを噛んでいる四葉に笑ってしまう。




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