漆黒鴉学園

三月べに

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3巻

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 第一章 元凶の記憶


   一話 夢のような話
  

 六月のまぶしい日差しが昼休みの庭園に降りそそいでいる。
 私、宮崎音恋みやざきねれんは、庭園に咲く白い薔薇を夢見心地で眺めていた。
 三日眠らずにいると起きたまま夢を見ると聞いたことがあるが、私は夢を見ているのだろうか。
 前世にプレイしていた『漆黒鴉学園しっこくからすがくえん』という乙女ゲームの世界に、脇役として転生しているなんてことが、そもそも夢みたいな話だ。
 しかもそれは、前世での私の生き方に感銘を受けたという神様が、私の幸せを願って与えてくれたものなのだという。おまけに、それを鴉から告げられるなんて、本当に夢みたいな話だ。
 でも、夢じゃない。これは現実であって、今の私の人生だ。
 私はうとうととして閉じそうになるまぶたを大きく開く。
 この間、夜の学校で真っ暗な部屋に閉じ込められて以来、不眠症気味になってしまった。
 眠気は感じるのに、目をつぶった時の暗闇が怖くて眠ることができない。寝不足の頭は、今日の記憶すら曖昧あいまいだ。
 緑橋みどりばしくんと図書室で会ったのは、夢? 笹川ささがわ先生と保健室で話したのも、サクラが泣きそうになっていたのも、夢? 今ヴィンス先生に膝枕されているのも、夢だろうか? 
 けれど頬をでられる感触とヴィンス先生の甘い香りが、これは夢ではないと伝えてくる。
 目を閉じれば、このまま眠れるような気がしてくる。
 安堵を感じるヴィンス先生の香りが、私を眠りに誘う。誰かがそばにいれば、眠れるみたいです。
 一人でいることの多かった私は、今まで独りを苦に思ったことはない。
 それなのに、ここにきて誰かといる時間が多くなって、独りが怖くなってきた。
 あの日。暗闇に閉じ込められた後、屋上でみんなと一緒に流星を観て、私は安堵のあまり泣いた。皆がそばにいる、私は独りじゃないんだと実感できて涙が止まらなかった。
 だけど、みんなが周りにいて安心できる場所というのは、舞台の真ん中……つまり、このゲームのヒロイン、サクラの居場所だ。
 そこにいくことは、私の本意ではない。サクラの恋愛の邪魔をしてしまうし、なにより私が望む平凡な普通の人生を歩めなくなる。
 神様が私のハッピーエンドをいくら望んでも、また、そうなるように神様にサポートを頼まれた黒巣くろすくんがいくら画策しても、無駄だ。
 私にとって、サクラは憧れの人で、そばにいたい人。
 この日差しのようにキラキラした優しいまぶしさで私を温かく照らしてくれる大切な親友だ。
 彼女が幸せになれるよう、私は彼女の恋を見守りたい。そのためには、私がヒロインの居場所に立つわけにはいかないのだ。
 彼女の笑顔を守るためなら、たとえ寝不足になっても……

「……ヴィンス、せんせ……」
「なんでしょう?」

 眠気たっぷりな声はかすれてしまったけれど、ヴィンス先生の耳には届いたらしい。私を見下ろすヴィンス先生は微笑ほほえみを浮かべて、指先で私の髪と頬の輪郭を撫でる。

「……この世で最も大切な人と、自分……どちらを取りますか?」

 質問までに時間がかかったけれど、ヴィンス先生はかすことなく待ってくれた。
 花をでるように優しい手付きで私の髪を撫でながら、静かに声を発する。

「最も大切な人とは、誰のことですか?」

 目を開くと、穏やかな青い眼差しと目が合った。

「音恋さんにとって、その大切な人が自分より優先したいほど大切ならば、その大切な人を選べばいいのではないですか?」

 優美な声が、静かに回答する。
 サクラが、自分より上か下か。
 どちらか……、と考えている時点できっと自分自身が最も大切なのだろう。サクラは私にとって、とても大事な親友だけれど、私は自己中心的だから……

「眠れないほど悩んでいるのは、自分とその大切な人をはかりに掛けていることについてですか?」

 ヴィンス先生はそっと、私のあごの下に指先を滑らせる。

「あまり深く考えなくていいと思います。どちらにせよ、音恋さんの出した答えは、貴女自身にとって大切なものになるでしょうから」

 話の途中なのに、柔らかなヴィンス先生の声が子守唄のように眠りを誘う。
 私は予鈴が鳴るまで、ヴィンス先生の膝の上で束の間の眠りを堪能したのだった。


   二話 保留 


 その頃。昼休みの生徒会室に、容姿端麗ようしたんれいな生徒会メンバーが召集された。
 大きな窓を背に座るのは、桃色をほんのりまとうベージュ色の髪の持ち主。生徒会長で、九尾きゅうび妖孤ようこの血を継ぐ桃塚星司ももづかせいじだ。彼は皆を見回しながら、口火を切った。
 ――宮崎音恋に〝学園の秘密〟を明かし、関係者にするか否か。
 純血の吸血鬼でありながら、人間の音恋を寵愛ちょうあいし、彼女のそばにいるために、この学園の教師になったヴィンセント・ジェン・シルベル。彼の命を狙うハンターが存在し、そのハンターはヴィンセントを狩るためなら、手段を選ばないらしい。つまり、ヴィンセントの弱点である音恋を巻き込むことになんの躊躇ためらいも持たないだろう、と桃塚は告げた。

「あ、あの、ヴィンセント先生を狙うなんて……そ、そんなこと許されるのですか?」 

 長めの前髪で顔を隠し眼鏡をかけた男子生徒が、戸惑いでいっぱいになりながら問う。彼は生徒会書記で、メデューサの血を継ぐ緑橋ルイ。
 ヴィンセントは、モンスターの中でも頂点に君臨する吸血鬼の純血種だ。

「許されないよ」

 桃塚は静かに首を横に振った。

「三十年前、この学園が崩壊に追い込まれそうになった事件、知っているよね?」
「あっ……」

 緑橋は言葉を失う。
 漆黒鴉学園は、モンスターの血を継ぐ子ども達が人間に交じって学ぶために設立された学園。いわば人間とモンスターの共存の象徴とも言える。モンスターの存在を知る人間達は、モンスターの血を継ぐ生徒達と協力して、よりよい学園を作ろうとしてきた。
 そんな学園が三十年前、崩壊の危機に直面した。
 きっかけは、純血の吸血鬼であるヴィンセントが、漆黒鴉学園に通うハンター一族の娘を愛したこと。

「吸血鬼とハンター。二人が結ばれることを許さない双方の思惑のせいで、ハンター一族の娘が学園で死んた。それにより、ここは危うく吸血鬼とハンターの戦場にされるところだった」

 深紅の髪を持つ生徒が腕を組んで淡々と口にする。桃塚の斜め前の席に座る生徒会副会長――吸血鬼と人間のハーフであるあかがみじゅんは、続けて言う。

「三十年前は、ハンター側もこの学園をよく思っていなかったし、吸血鬼側も人間とモンスターの共存の象徴であるこの学園をなくしたいと思っていたのだろう。ヴィンセントとハンター一族の娘、とうゆかりの仲は、格好の火種だったんだ」

 そして悲劇は起きた。

「彼女は、ヴィンセント先生を仕留めるためのおとりにされた。吸血鬼は素早い。隙をつかなくちゃ人間では勝てない。だからハンター側は人間である彼女を、囮に使ったんだ。その結果は……」

 桃塚が最後まで言わなくとも、生徒会メンバーは知っている。
 自分のせいで危険にさらされたヴィンセントを守るため、東間紫は自分の命を絶ったのだ。もし、ヴィンセントが命を落とせば、吸血鬼は復讐を名目に戦争を起こすだろう。そうなれば、共存の象徴であるこの学園は滅び、人間とモンスターと争いが始まってしまう。それを防いだのだ。
 彼女を失ったヴィンセントは悲しみに打ちひしがれたが、争いを望まなかった彼女の意思に従いハンターへの復讐はしなかった。

「ちょっと待ってください。それとネレンに危険が及ぶことに、なんの関係が?」

 一人だけ三十年前の事件と、音恋の件との関連を理解していないだいだい色の髪をした男子生徒が、困惑した表情で問う。生徒会会計で狼人間の血を継ぐ橙くうかいだ。

「亡くなった娘の属する東間一族は、娘が死んだのは、すべてヴィンセントせんせぇのせいだと恨みを抱いているんですよー」

 黒髪の男子生徒が緊張感のない声で教えた。生徒会庶務で鴉天狗からすてんぐの血を継ぐ黒巣ななだ。

「さっき桃塚先輩が言ったように、吸血鬼は隙でもつかなきゃ退治できませーん。だから弱点になりうる囮を使うのが、効果的」
「ネレンを囮に使うってことか?」
「だからそう言ってるんですよー、さっきから。ヴィンセントせんせぇの弱点でしょ、宮崎さんは。逆恨みに燃える東間一族のハンターなら、きっとヴィンセントせんせぇに寵愛ちょうあいされている宮崎さんを優しく扱ったりしないでしょうね。ヴィンセントせんせぇを狩るためなら……宮崎さんが死のうがなんとも思わない」

 橙を小馬鹿にしたような表情で、黒巣ははっきりとそう告げた。
 ヴィンセントは宮崎音恋のために、むべき人間と共存するこの学園の教師になった。再び、人間を愛したのだ。
 つまり宮崎音恋は、三十年前のようにヴィンセントを狩るための囮にされかねない。
 ようやく理解した橙が、ガタン、と席を立つと声を上げた。

「んなハンターいるのかよ!?」
「いるらしいですよー? 笹川せんせぇの一番弟子でし、現役最強のハンターさんです」

 東間紫のめいだと、黒巣は教えた。
 養護教諭の笹川じんは、元最強のハンター。そして今、彼のまな弟子である東間おりが最強の名を受け継いでいる。

「笹川先生の話によれば、ヴィンセントに対する恨みを親から受け継いでいて、何をするか予測できないそうだ。冷酷な面があるため、ヴィンセントを狩るためなら手段は選ばない。宮崎音恋の安全は考慮されないだろうとのことだ」

 赤神が笹川仁から得たハンターの情報について話す。
 駆け出しのハンターである風紀委員も、東間紫織の動向を警戒している。

「三十年前と違って、今はモンスターからもハンターからも、この学園は認められている。でも……万が一ヴィンセント先生が狩られるようなことになったら、吸血鬼側は黙ってない」
「ヴィンセントの血筋は吸血鬼の中でも高い地位にある。再び、人間との争いの火種になりかねない」

 桃塚と赤神の言葉に、緑橋はがくぜんとする。
 二人はあえて口にしないが、万が一音恋が命を落とすようなことになれば、あのヴィンセントが黙っているわけがない。東間紫の時は彼女のために我慢したが、二度も愛する人を奪われて彼が復讐をしないはずがないのだ。
 ヴィンセントと音恋、どちらが命を落とすことになっても、事態は最悪。

「まだそうなるとは決まってないよ」

 青ざめて口を押さえた緑橋に、桃塚は優しく笑いかけた。

「まだ音恋ちゃんの存在は知られてない。知られる前に……二人を引き離そう」

 幸いヴィンセントと宮崎音恋は交際しているわけではない。東間紫織に存在を知られる前に、ヴィンセントを彼女から引き離せれば、最悪の事態は防げる。

「そんなこと、できるんすか?」

 橙の問いに、苦笑を漏らしながら桃塚が席を立つ。

「難しいよね、どう考えても。ヴィンセント先生は彼女から離れる気がないんだ。でもなにもしないよりはずっといい。音恋ちゃんはすでにヴィンセント先生の正体を知っている。だから、僕達の秘密も彼女に明かそうと思うんだ。桜子さくらこちゃんのように、学園の秘密を明かし僕達が監視という名目でそばについて、なるべくヴィンセント先生から遠ざける。風紀委員には前もってハンターの〝彼女〟の動向を把握してもらう。万が一〝彼女〟が現れる前に二人を引き離せなかったら、なんとしても僕達が音恋ちゃんを隠し通す。音恋ちゃんのため、学園のため」

 真剣な眼差しで桃塚は告げた。自分達が音恋のために、学園のためにできることをする。
 そんな桃塚に、珍しく橙が反論した。

「桃塚先輩に逆らいたくないですがっ……俺は反対です!」

 桃塚より背が大きいくせに、びくびくしながら橙が言った。桃塚を含めた他の生徒会メンバーは、橙からの反対に驚く。
 狼人間は強さに惹かれる性質がある。だから橙は桃塚と赤神、それと生徒会顧問の城島じょうじまの言うことには常に従っていた。意見に反対することなど、今までなかったことだ。

「宮崎さんの安全を思うなら、風紀委員に協力してもらうこの案が最善だと思うんですけどー」

 風紀委員と協力することが嫌なのかと、黒巣は橙に言う。

「協力することは別に反対じゃねぇ!!」

 橙は噛みつくように返す。

「反対なのは、ネレンに秘密を明かすことです! そりゃあ桜子みたいに監視するなら、守りやすくなるしヴィンセントから引き離す口実にもなるってことはわかります。でも……暗闇に号泣したんすよ? いきなり俺達の正体を明かしたら、ネレンがどうなるかわかったもんじゃないすよ!」

 橙は一気にまくしたてた。
 先日、流星を見せるために音恋を夜の学園へ連れてきた。タイミング悪くモンスターが現れ、橙は音恋の安全のために、やむなく彼女を真っ暗な教室に押し込めた。ところが、モンスターを退治して戻ってみると、いつも冷静沈着な音恋が号泣していたのだ。それからというもの、音恋は不調が続いている。
 びく、と緑橋が小さく震えた。黒巣が気付いて横目で見ると、緑橋はうつむいている。

「あ、うん……今、音恋ちゃんは……ちゃんと、眠れていないようだね……」

 桃塚は口ごもった。橙だけでなく、音恋の号泣には生徒会メンバーもこたえている。
 学園の秘密を、今の彼女が受け止められるだろうか。途端に揺らぎ始めた桃塚を見て、黒巣が顔をしかめた。この中で唯一、ここがゲーム世界であることを知る黒巣は、神様のパシリとして音恋をハッピーエンドに導く役割を担っている。

「いや、大丈夫でしょう。姫宮ひめみやさんもいるし、秘密を共有して親友同士支えあうなら、きっと」

 なんとしても音恋をゲームの当事者にしたい黒巣は、桜子の名を出して最初の議題である学園の秘密を明かす案を推す。

「ダメだ! ネレンに秘密を明かさないで、なんとかできないんすか?」
「チッ、自分で考えてから反対しろよ」

 なおも食い下がる橙に、小さく舌打ちをして黒巣はボソッと呟く。

「あん? 聞こえてんぞ、てめぇ!!」

 橙と黒巣が喧嘩を始めそうになったため、赤神が橙を黙らせようとしたその時。

「おれも反対だっ!」

 突然、生徒会室が開かれ、風紀委員長が部屋に入ってきた。脱色した短い髪をツンツンとねさせて、ピアスをたくさんつけた不良のような風貌の彼は、笹川竹丸たけまる。その後ろには副委員長の栗原京子くりはらきょうこと、二年生の草薙彦一くさなぎひこいちがいた。

「ヴィンセントの正体を知っても、宮崎が深入りを望んでいないからこそ、学園の秘密を教えずにいるんだ! それなのに、お前達の秘密まで明かすなんて、おれは反対だ!」
「……お前と意見が合う日が来るとはな」
「……奇跡だな」

 そう言いながらも険悪ムードでにらみ合う竹丸と橙。衝突ばかりする犬猿の仲の二人が意見を一致させるのはこれが初めてだった。

「あれ、何の集まりですかー?」

 そこに響く明るい声。栗色のセミロングの髪をなびかせた美少女が、首をかしげつつ生徒会室に足を踏み入れた。宮崎音恋の親友、姫宮桜子だ。その両腕には大量のパンが抱えられている。

「もう! 食堂で待ちぼうけしちゃったじゃないですかー。お昼抜きなんてだめですよ!」
「あ、ありがとう……」
「どういたしまして!」

 生徒会室の状況をまるで気にしていないような桜子は、桃塚のお礼に胸を張って明るく笑う。

「ところで、なにか問題でも起きたんですか?」
「今、宮崎さんむぐ」
「ナナ!」

 黒巣がここぞとばかりに最初の議案を話そうとするが、緑橋が咄嗟とっさに口を押さえて阻止した。

「?」

 桜子に話したら、もちろん賛成するに決まっている。何故なら桜子は、親友の音恋に隠し事をしている状態を、ずっと嫌がっていたからだ。

「そういえば、姫宮はヴィンセント先生が吸血鬼だって知ってるの?」
「え? 知らなかった。でもそんな気がしてました」

 草薙が爽やかにさらなる秘密を暴露すると、桜子はサラリと言って笑う。
 その反応に、一同は呆気にとられる。そんな風に音恋もあっさり受け止めてくれるなら、こんなに揉めないのに、と桃塚は心の中で思った。反対意見がある以上、この話を進めることはできない。

「ヴィンセント先生がどうかしましたか?」
「ヴィンセント先生のこと、どう思う?」
「? いい先生だと思います」

 赤神の質問に首をかしげつつ、桜子は答えた。

「すっごくネレンを気遣ってくれるんですよ! 何かあったら相談に乗ってくれるって言ってくれたんです。ヴィンセント先生とはいつもネレンのこと話してます! あんな生徒思いのいい先生が担任になってくれて嬉しいです!」

 にこにこ、と笑う桜子。
 それは音恋のことを探られているだけではないのか。数名がそう思ったが、嬉しそうな桜子にはなにも言えなかった。桜子の中で、ヴィンセントの好感度は高い。
 三十年前の事件を知らない桜子にどう話したら理解してもらえるか。悩む桃塚は竹丸に視線を送る。竹丸もお手上げだ。

「で、ヴィンセント先生がなにか?」
「あ、いや……なんでもないよ」

 ひとまずは保留にしよう。桃塚は橙達に視線でそう伝えた。

「あ、そうだ。桃塚先輩達に、おりってご相談があるんですけど……」
「ん? なにかな?」
「ネレンに……学園の秘密を打ち明けてもいいですか?」

 桜子の発言が、ちょうど今の議案とかぶって桃塚は笑みをひきつらせる。
 ちょんちょん、と人差し指を合わせながら、桜子は続けた。

「なんか……よくわからないんですけど、ネレンが秘密を知ってるって言ったんです。もしかして学園の秘密かもしれないと思ったんですけど、違ってたら怖いので聞くに聞けなくて……どうしたらいいですかね?」
「あ、それは……」
「だめだ! 今ネレンは寝不足だろ? そんな時に話すなんてだめだ!」

 音恋は吸血鬼の存在を知っている。おそらく音恋の言った秘密とはそのことだろうが、桜子は音恋が吸血鬼の存在を知っていることを知らない。
 桃塚が説明する前に、橙が力強く却下した。音恋の不調を言われると弱い桜子は、ハッとしたように口をつぐむ。

「俺は正体を明かす」
「えっ?」

 橙と竹丸がそろって桜子に説教している中、赤神が桃塚にだけ聞こえるように耳打ちする。

「もう吸血鬼の存在は知っているんだ。俺が正体を明かしても、現状は変わらないだろう」
「え、淳? 明かしてどうするの?」

 生徒会室を出て行こうとする赤神を、桃塚は慌てて引き留めた。
 振り返った赤神は、ニヤリと意味ありげな笑みを浮かべる。そして何も答えず、生徒会室をあとにした。

「え、ちょ、今の笑みはなに? なんなの淳? よくわからないけど、今考えてること、よくないことだよね? よくないよ! よくないと僕は思う!」

 ただならぬ予感に、桃塚は赤神を追い掛けて部屋を飛び出す。
 それを見送る緑橋は浮かない顔だ。
 ――せっかく上手くことが運びそうだったのに、音恋を関係者にする案は止まってしまった。
 黒巣は眉間にシワを寄せて部屋を見回すと、大きなため息をついた。


   三話 元凶の記憶


 翌日の体調は、最悪だった。
 一睡もできないまま朝を迎えた私、宮崎音恋は、起きたまま夢を見ているような覚束おぼつかい感覚で身支度をする。
 いくら万能薬である純血の吸血鬼の血で体調を整えても、倒れてしまいそうなくらいフラフラしていた。とにかく眠気を覚まそうとエスプレッソをストレートで飲んだけれど、イマイチ効果なし。

「音恋ちゃん、大丈夫? 休んだ方がいいよ?」

 一緒に朝食をとっていた桃塚先輩が、心配そうに声をかけてきた。けれど、寮の部屋に一人きりでいることが嫌で、私は大丈夫だと伝えて学校に行く支度をするため部屋に戻った。
 だけど、部屋の鏡に映った自分の顔は、病的に白い上に、くっきりとくまが浮かんでいて、我ながらひどい。桃塚先輩が心配するのもわかる。
 待ち合わせ場所に現れたサクラはいつもと変わらない様子で、フラフラする私の鞄を持ってくれた。昨日、泣きそうなサクラに思わず秘密を知っていると言ってしまったけれど、何も訊かれなくてほっとした。
 学校に着く頃には、体調は更に悪化して、チクチクと小さな頭痛までしていた。いよいよヴィンス先生の血ではカバーしきれなくなったらしい。
 今日から本格的に体育祭の練習が始まるというのに、これでは本当に倒れてしまいそうだ。
 私は額を押さえて、自分の席でじっと苦痛に耐えた。
 昼休みになれば、ヴィンス先生の血の入ったお弁当がある。それを食べれば、幾分か体調も楽になると思う。けれど、それまで持ちそうにない。せめて少しでも仮眠ができればいいけれど。

「音恋さん。保健室へ……私が運びましょう」

 声をかけられて顔を上げれば、いつの間にか目の前にヴィンス先生がいた。ヴィンス先生は心配そうに青い瞳を私に向けている。その直後、身体がふわっと浮いた。またお姫様抱っこされたみたいです。
 ヴィンス先生は、クラスメイト達に何か伝えると私を抱えて教室を出た。
 これがいけないのに、私を包む甘い香りに安心してしまう。ヴィンス先生が上手うわてなのか、それとも私が隙だらけなのか。
 近くに入り込まれてしまう。こうやってそばに誰かの存在を感じてしまうから、独りが苦になってしまうんだ。わかっているのに。わかっているのに、私はすがるようにヴィンス先生のスーツを握り締めてしまう。
 ああ……どうすれば以前の私に戻れるのですか?
 どうすれば、あの闇の恐怖を忘れられるのでしょう? 
 解決方法がわからないまま、私は束の間の眠りに落ちた。


 久し振りに眠れたと思う。夢も見た。
 あれは、確かに自分。前世の私が、病室のベッドの上にいた。
 私はゲームをしている。ぼやけてはっきりしないけれど、大好きだった乙女ゲームの『漆黒鴉学園』をプレイしているようだ。
 ああ、これは前世の最後の記憶だ。そう気付いた。なかなか退院できず、病室にこもりっきりで、ゲームだけが唯一の楽しみだった。
 最後は誰のルートだっけ? 思い出そうとしたら、何かが喉に込み上げてきた。
 こらえきれず吐き出すと──深紅の血。例えようのない気持ち悪さに襲われて倒れてしまう。
 バグが起きたみたいに、視界が次第に黒に染まっていく。
 じわじわと黒色に侵食されて、やがて真っ黒になった。
 そこで、私は死んだ。
 死んでもずっと、黒一色だった。闇の中だった。
 ずっと、ずっと。
 何も見えない。何も見えない。何も見えない。
 ここには何もないから、見えない。
 声を上げても、自分の声が聞こえない。
 自分の手の先も、見えない。自分の存在自体、感じられない。


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