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第1章 ふたつ名の令嬢と龍の託宣
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◇
「まあ、それはさぞお辛かったですわね」
リーゼロッテは庭の片隅の小さなベンチに腰掛けながら、となりの枯れた木の根元で膝を抱えている人物の話に深く頷いた。
ベンチのそばには小さな丸テーブルが置かれ、その上には紅茶のセットとお茶菓子が添えられている。紅茶はもちろん、リーゼロッテが座るこのベンチもテーブルも、公爵家の使用人たちがわざわざここまで運んでくれたものだ。
日よけのパラソルまで用意してくれたのは、毎日のようにその場に通うリーゼロッテを見かねた、庭師のおじさんだった。
『ううう、分かってくださいますか。ボクのこの胸の苦しみを』
「ずっとおひとりで抱えていらっしゃたのね。心中お察しいたしますわ」
リーゼロッテの言葉に、隣の男が滂沱の涙を流している。鬱陶しいほど長い前髪は鼻の頭まで伸びていて、目が隠れているため表情はあまり伺えない。しかし彼が悲嘆に暮れていることだけはひしひしと伝わってきた。
男は年の頃は二十代半ば、生成りのシャツとベストに糊のきいたスラックスを履いた身なりの良い格好をしている。彼は公爵令嬢付きの従僕だったそうだ。
過去形なのは、彼がもうすでにこの世の者ではないからだ。うっすらと透けて見える彼は、公爵家の庭に随分前からいる異形の者だった。
どこから見ても人にしか見えない彼を、異形の者と呼ぶことに違和感を覚えたリーゼロッテは、初めて会った日に何となく彼に話しかけてみた。それからというもの、この奇妙な異文化交流は続いている。
『ボクは取り返しのつかないことをしてしまったのです……』
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、その手は土の上にのの字を書いている。どよんとした空気に包まれて、頭の上には、陰々滅々と書いてありそうだ。
『ううう、おぢょうざまぁ』
彼の話は支離滅裂だ。同じことを繰り返し話すし、つじつまが合わないことも多い。
十回に一回くらいにかみ合った会話ができる程度で、会話が成り立っているかどうかも怪しかったが、リーゼロッテは根気よく時間をかけて彼の話に耳をかたむけていた。
今までの話を要約すると、彼の仕える公爵令嬢は、意に染まない結婚を強いられ、思いを寄せる人と駆け落ちの約束をしたらしい。しかし妨害があって、待ち合わせの場所に行けなくなった公爵令嬢は、従者の彼に手紙を託したのだそうだ。
そのあと彼は、取り返しのつかないことをしたと繰り返すばかりで、何を悔いているのかまではわからなかった。
おそらくその手紙を届けることができなかったのだろうと思いつつ、リーゼロッテは詮索することもなく彼が話すにまかせていた。
はじめの頃はただ泣いているばかりで、言葉すら聞き取れなかったのだ。リーゼロッテは悲嘆にくれる彼の心の波動を感じつつ、静かに相槌を打っていた。
時折通りかかった使用人たちが、立ち止まってはぺこりとリーゼロッテに会釈をしていく。
リーゼロッテはそのたびに淑女の微笑みを返しては、公爵家の使用人をメロメロにしていた。もちろん、本人にその自覚は全くない。
公爵家の使用人たちは、そのほとんどが異形の者を目にすることができた。無知なる者ばかりのダーミッシュ家とは正反対である。異形の者を祓うほどの力はなくとも、日常で異形の存在に慣れ親しんだ者たちばかりであった。
彼らにとって、この泣いてばかりいる異形はもはや風景と化していた。たまに使用人の子供がちょっかいをかけるくらいで、その存在を気にかけるものなど皆無であった。
まして話しかけようなどと思う人間がいるはずもなく、そのためリーゼロッテの行動は、はじめのうちはみなに奇妙に映ったようだ。
しかし最近ではそんな行いも当たり前のように受け入れられている。むしろ、リーゼロッテに微笑みかけてもらおうと、普段は通らないこの道をわざわざ選ぶ者も少なくなかった。
「リーゼロッテ様。旦那様がもうすぐお帰りになるそうです。そろそろお戻りになっていただけますか?」
落ち着いたデザインのドレスを着た女性がリーゼロッテを迎えに来た。
「エマニュエル様」
「エマで結構ですわ。リーゼロッテ様」
艶っぽく微笑む彼女は、リーゼロッテの世話係として新しくついた侍女である。ウェーブのかかったこげ茶の髪に青い瞳をした美人で、目の下の泣きぼくろが妖艶さを醸し出している。
彼女は子爵夫人で、二十代に見えるが実は五人の子持ちらしい。ぼんきゅっぼんな体形で、とても五人も子供を産んだとは思えない見事なプロポーションの持ち主だった。
(わがままボディがまぶしすぎる……。むしろエマニュエル夫人とお呼びしたいわ)
年齢不肖な美女に微笑みを返しつつ、リーゼロッテは静かに立ちあがった。
「お迎えが来たので今日はもう戻りますわね、ジョン」
リーゼロッテが膝を抱えてめそめそ泣いているジョンに向かって言うと、ずっと下を向いていたジョンがふいに頭を起こした。
『またボクの話を聞いてくださいますか?』
「ええ、もちろん」
すがるような声音にリーゼロッテが微笑みを返すと、ジョンはわずかに頬をほころばせた。そしてすぐに下を向くと、再びぐじぐじと泣き出してしまった。
「お待たせしました、エマ様」
「今日はいかがでしたか?」
「ええ、今日も泣いてばかりで新しいことは何も……」
帰りの道すがら、エマニュエルがジョンの様子を尋ねるのはいつものことだった。
はじめはリーゼロッテにほとんど反応しなかったジョンが、日を追うごとに変わっていった。その様をエマニュエルは驚きと共に観察していた。
ジョンはずっとそこにいた。エマニュエルの祖父が彼の祖父から聞いたとき、ジョンはすでに今と同じ泣き虫ジョンだったらしい。それくらい長い間ジョンは泣きながらずっとそこにいた。ジョンは泣き虫ジョンであって、それ以外の何者でもなかった。
そのジョンのプライベートな情報が、回を重ねるごとにリーゼロッテによって明らかにされていく。ただ泣いてばかりとリーゼロッテは言うが、今日のジョンは一瞬ではあるが笑顔までのぞかせていた。
(不思議な方ね。このリーゼロッテ様は)
異形など、そこらへんに履いて捨てるほどいる。いちいちかかずり合っていてはキリがないのだ。下手に相手をすると付き纏われたり面倒なことにもなりかねない。悪さをしなければわざわざ祓うこともない。道端の石ころと同じである。それが常識だ。
リーゼロッテの行いは、ともすればただの愚行と言えた。しかし、リーゼロッテは子供じみた好奇心や安い正義感でジョンに会っているようには感じられない。
その力があれば、簡単に浄化することもできるだろうに、彼女はただ寄り添い、静かに相槌を打つだけだった。
廊下の端々にいる小鬼たちが、歩くリーゼロッテを伺うように覗いている。
いつの間にか集まってくる弱い異形の者は、リーゼロッテの力に惹かれているようだ。近づきたいが近づけない。そんな様子の小鬼たちを、エマニュエルはさりげなく追い払った。
(ほんと、不思議な方だこと)
リーゼロッテに付き従いながら、エマニュエルはじっとその細い背を見つめていた。
「まあ、それはさぞお辛かったですわね」
リーゼロッテは庭の片隅の小さなベンチに腰掛けながら、となりの枯れた木の根元で膝を抱えている人物の話に深く頷いた。
ベンチのそばには小さな丸テーブルが置かれ、その上には紅茶のセットとお茶菓子が添えられている。紅茶はもちろん、リーゼロッテが座るこのベンチもテーブルも、公爵家の使用人たちがわざわざここまで運んでくれたものだ。
日よけのパラソルまで用意してくれたのは、毎日のようにその場に通うリーゼロッテを見かねた、庭師のおじさんだった。
『ううう、分かってくださいますか。ボクのこの胸の苦しみを』
「ずっとおひとりで抱えていらっしゃたのね。心中お察しいたしますわ」
リーゼロッテの言葉に、隣の男が滂沱の涙を流している。鬱陶しいほど長い前髪は鼻の頭まで伸びていて、目が隠れているため表情はあまり伺えない。しかし彼が悲嘆に暮れていることだけはひしひしと伝わってきた。
男は年の頃は二十代半ば、生成りのシャツとベストに糊のきいたスラックスを履いた身なりの良い格好をしている。彼は公爵令嬢付きの従僕だったそうだ。
過去形なのは、彼がもうすでにこの世の者ではないからだ。うっすらと透けて見える彼は、公爵家の庭に随分前からいる異形の者だった。
どこから見ても人にしか見えない彼を、異形の者と呼ぶことに違和感を覚えたリーゼロッテは、初めて会った日に何となく彼に話しかけてみた。それからというもの、この奇妙な異文化交流は続いている。
『ボクは取り返しのつかないことをしてしまったのです……』
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、その手は土の上にのの字を書いている。どよんとした空気に包まれて、頭の上には、陰々滅々と書いてありそうだ。
『ううう、おぢょうざまぁ』
彼の話は支離滅裂だ。同じことを繰り返し話すし、つじつまが合わないことも多い。
十回に一回くらいにかみ合った会話ができる程度で、会話が成り立っているかどうかも怪しかったが、リーゼロッテは根気よく時間をかけて彼の話に耳をかたむけていた。
今までの話を要約すると、彼の仕える公爵令嬢は、意に染まない結婚を強いられ、思いを寄せる人と駆け落ちの約束をしたらしい。しかし妨害があって、待ち合わせの場所に行けなくなった公爵令嬢は、従者の彼に手紙を託したのだそうだ。
そのあと彼は、取り返しのつかないことをしたと繰り返すばかりで、何を悔いているのかまではわからなかった。
おそらくその手紙を届けることができなかったのだろうと思いつつ、リーゼロッテは詮索することもなく彼が話すにまかせていた。
はじめの頃はただ泣いているばかりで、言葉すら聞き取れなかったのだ。リーゼロッテは悲嘆にくれる彼の心の波動を感じつつ、静かに相槌を打っていた。
時折通りかかった使用人たちが、立ち止まってはぺこりとリーゼロッテに会釈をしていく。
リーゼロッテはそのたびに淑女の微笑みを返しては、公爵家の使用人をメロメロにしていた。もちろん、本人にその自覚は全くない。
公爵家の使用人たちは、そのほとんどが異形の者を目にすることができた。無知なる者ばかりのダーミッシュ家とは正反対である。異形の者を祓うほどの力はなくとも、日常で異形の存在に慣れ親しんだ者たちばかりであった。
彼らにとって、この泣いてばかりいる異形はもはや風景と化していた。たまに使用人の子供がちょっかいをかけるくらいで、その存在を気にかけるものなど皆無であった。
まして話しかけようなどと思う人間がいるはずもなく、そのためリーゼロッテの行動は、はじめのうちはみなに奇妙に映ったようだ。
しかし最近ではそんな行いも当たり前のように受け入れられている。むしろ、リーゼロッテに微笑みかけてもらおうと、普段は通らないこの道をわざわざ選ぶ者も少なくなかった。
「リーゼロッテ様。旦那様がもうすぐお帰りになるそうです。そろそろお戻りになっていただけますか?」
落ち着いたデザインのドレスを着た女性がリーゼロッテを迎えに来た。
「エマニュエル様」
「エマで結構ですわ。リーゼロッテ様」
艶っぽく微笑む彼女は、リーゼロッテの世話係として新しくついた侍女である。ウェーブのかかったこげ茶の髪に青い瞳をした美人で、目の下の泣きぼくろが妖艶さを醸し出している。
彼女は子爵夫人で、二十代に見えるが実は五人の子持ちらしい。ぼんきゅっぼんな体形で、とても五人も子供を産んだとは思えない見事なプロポーションの持ち主だった。
(わがままボディがまぶしすぎる……。むしろエマニュエル夫人とお呼びしたいわ)
年齢不肖な美女に微笑みを返しつつ、リーゼロッテは静かに立ちあがった。
「お迎えが来たので今日はもう戻りますわね、ジョン」
リーゼロッテが膝を抱えてめそめそ泣いているジョンに向かって言うと、ずっと下を向いていたジョンがふいに頭を起こした。
『またボクの話を聞いてくださいますか?』
「ええ、もちろん」
すがるような声音にリーゼロッテが微笑みを返すと、ジョンはわずかに頬をほころばせた。そしてすぐに下を向くと、再びぐじぐじと泣き出してしまった。
「お待たせしました、エマ様」
「今日はいかがでしたか?」
「ええ、今日も泣いてばかりで新しいことは何も……」
帰りの道すがら、エマニュエルがジョンの様子を尋ねるのはいつものことだった。
はじめはリーゼロッテにほとんど反応しなかったジョンが、日を追うごとに変わっていった。その様をエマニュエルは驚きと共に観察していた。
ジョンはずっとそこにいた。エマニュエルの祖父が彼の祖父から聞いたとき、ジョンはすでに今と同じ泣き虫ジョンだったらしい。それくらい長い間ジョンは泣きながらずっとそこにいた。ジョンは泣き虫ジョンであって、それ以外の何者でもなかった。
そのジョンのプライベートな情報が、回を重ねるごとにリーゼロッテによって明らかにされていく。ただ泣いてばかりとリーゼロッテは言うが、今日のジョンは一瞬ではあるが笑顔までのぞかせていた。
(不思議な方ね。このリーゼロッテ様は)
異形など、そこらへんに履いて捨てるほどいる。いちいちかかずり合っていてはキリがないのだ。下手に相手をすると付き纏われたり面倒なことにもなりかねない。悪さをしなければわざわざ祓うこともない。道端の石ころと同じである。それが常識だ。
リーゼロッテの行いは、ともすればただの愚行と言えた。しかし、リーゼロッテは子供じみた好奇心や安い正義感でジョンに会っているようには感じられない。
その力があれば、簡単に浄化することもできるだろうに、彼女はただ寄り添い、静かに相槌を打つだけだった。
廊下の端々にいる小鬼たちが、歩くリーゼロッテを伺うように覗いている。
いつの間にか集まってくる弱い異形の者は、リーゼロッテの力に惹かれているようだ。近づきたいが近づけない。そんな様子の小鬼たちを、エマニュエルはさりげなく追い払った。
(ほんと、不思議な方だこと)
リーゼロッテに付き従いながら、エマニュエルはじっとその細い背を見つめていた。
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