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第2章 氷の王子と消えた託宣

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 異様に静まり返った広間に、ダーミッシュ伯爵にエスコートされた令嬢が姿を現す。

 蜂蜜色の髪をまとめ髪にして、幾筋いくすじかの後ろ毛がサイドに流されている。エメラルドと見紛みまごうほどの緑の瞳を伏せ、王が待つ壇上だんじょうまでの長い道のりを、令嬢はゆっくりとした足取りで進んでいく。

 その場にいた誰しもがその姿を目で追った。ある者は目を見開き、ある者はぽかんと口を開け、またある者は心奪われたように息をのむ。始終おしゃべりに興じていた夫人たちでさえ、言葉を失ったようにただその姿をみつめていた。

 繊細せんさい刺繍ししゅうが施されたシンプルだが上質な白いドレスを身にまとい、そのドレスのすそには美しい青のグラデーションが施されている。

 華奢な胸に輝くのは青い大ぶりな石がついた見事な意匠いしょうの首飾りだ。令嬢が進むごとに、その首飾りが複雑に光を返す。そろいの耳飾りにも青い石が揺れ、そのたたずまいはまるで、幻想の世界から紛れ込んできた姫君を目にしているような、そんな錯覚におちいる。

 しんと静まり返る中、リーゼロッテはフーゴと共に長い絨毯じゅうたんの上を慎重に進んでいた。刺さるような周囲の視線を感じ、緊張が極度に高まっていくのが自分でもよくわかる。軽く添えていただけのフーゴのひじを思わず強く掴んでしまう。

「怖いのかい?」

 前を向いたままフーゴが小声で言った。肯定するようにふたたび手に力が入る。

「大丈夫だよ。何も心配することはない。わたしがついているからね」

「はい、お義父様」

 小さく笑顔を返すも、やはりぎこちないものになってしまう。緊張で転んだりしないかとさらに歩みに力が入る。

「おや? まだ緊張しているようだね。だったらお前にいいことを教えてあげよう」

 そう言ってフーゴは、王のいる壇上へと視線を向けたままやさしく微笑んだ。

「クリスタはね、デビューの時に王の前で転んでしまったんだよ。それはもう見事にね」
「えっ?」
「瞳を潤ませて頬を真っ赤に染める姿は本当に可愛くて、わたしは一瞬でクリスタに恋をしたんだ。この人を一生守っていきたいと、そんなふうに思ってね。他の誰にもとられたくないと、わたしはすぐさま結婚を申し込んだよ」

 歩みは止めぬまま、周りにおかしく見られない程度にリーゼロッテはその目を見開いた。

「この話をしたことはクリスタには内緒だよ?」

 フーゴに穏やかに言われて、リーゼロッテの顔に自然な笑みが戻った。

「ジークヴァルト様もいらっしゃる。何も心配はいらないよ」
「はい。ジークヴァルト様のためにも粗相そそうをせぬよう頑張りますわ」

 自分が転んではジークヴァルトにも恥をかかせてしまう。フーゴのおかげで緊張は小さくなったものの、絨毯に足を取られぬようにさらに慎重な足取りとなった。

「例え転んだところで問題はないさ。ジークヴァルト様はそのくらいのことで揺らぐお方ではないよ。リーゼロッテもよく知っているだろう?」

 そう言われてリーゼロッテはふふと笑った。確かに自分が転んだりしたら、ジークヴァルトは夜会の会場だろうとかまわずこの身を抱き上げ、それきり降ろしてはくれなさそうだ。だが、そう思うと、なおさら転んだりはできないと思ってしまう。

 すっかり緊張のほどけたリーゼロッテは、転ぶことなく王のいる壇上の前へとたどり着くことができたのだった。

 礼を取ったフーゴにならって、リーゼロッテも淑女の礼を取る。王族に対する最上級のものだ。その優雅な所作にまわりから感嘆の声が漏れるも、今のリーゼロッテにそれに気づく余裕はない。

「よい。顔を上げよ」

 ディートリヒ王の声は、静かだが腹に響くような重みがあった。一度聞けばずっと耳に残る、そんな不思議な声だ。

「この日を迎え、余もよろこばしく思う。ダーミッシュ伯爵、今日までよくぞ務めを果たしてくれた」
「もったいなきお言葉。むしろ感謝を申し上げるのはわたしどもにございます。珠玉の宝をダーミッシュ伯爵家に託してくださったこと、心より感謝いたします。さあ、リーゼロッテ、お前も王にご挨拶を」

「フーゴ・ダーミッシュの長女、リーゼロッテにございます。末席まっせきながら、貴族のひとりに加えていただきたく参上いたしました。本日、御前おんまえにてご挨拶できます事、心よりうれしく思います」

 再び礼を取ったリーゼロッテに、王は金色の瞳をやさしげに細めた。

「良き父に育てられたな」
「……はい。世界一幸せな娘であると、自信をもってそう申し上げられます」
「そうか。伯爵、まこと大儀たいぎであった。引き続き父としての務めを果たすが良い」
「身に余るお言葉痛み入ります」

 フーゴも再び深々と礼を取った。

「そうかしこまらずとも良い。さあ、王妃からも言葉を」
「ダーミッシュ伯爵令嬢、顔をこちらに」

 ディートリヒ王の隣で悠然ゆうぜんと腰かけていたイジドーラ王妃が、妖艶ようえんな笑みを向ける。おずおずと顔を上げると、王妃の離宮で会った時以上に美しい顔がそこにあった。不敬と思いつつも、言われた通りに顔を真っ直ぐに王妃へと向ける。

「その飾りはオクタヴィアの瞳ね。とてもよく似合っていてよ」
「お褒めにあずかり光栄でございます」
今宵こよいはデビュタントが主役のうたげ。うんと楽しむといいわ」

 その薄い水色の瞳が細められ、王妃の唇は妖しくを描いた。

「王太子からも一言あるべきではなくて?」

 イジドーラ王妃に突然言われ、斜め後ろに立っていたハインリヒ王子がきょを突かれたような顔をした。一瞬、王子とリーゼロッテの視線が合う。リーゼロッテは慌てて瞳を伏せた。

 ハインリヒ王子は一度、苦い顔をしたが、すぐに元の冷たい表情に戻る。しかし、リーゼロッテにかけられた言葉は、表情ほどは冷たいものではなかった。

「ダーミッシュ伯爵令嬢。この良き日を迎えられたこと、わたしもうれしく思う」
「もったいないお言葉でございます。王太子殿下には本当によくして頂き、心より感謝いたしております。これからは貴族の一員として、王家の方々に忠義を尽くさせていただきたく存じます」
「ああ。だが、王妃殿下のおっしゃる通り、今日の主役はデビュタントである君たちだ。今夜は気にせず夜会を楽しんでほしい」

 動かないままのハインリヒ王子の表情は、王妃の茶会で初めて見たときと同じ「氷結の王子」と呼ばれるにふさわしいものだった。だが、その下に隠された本来の王子は、とてもやさしくやわらかなものだとリーゼロッテは知っている。

 カイに託したアンネマリーの小箱が無事に王子の元に戻ったのか、その表情からはうかがえない。だが、リーゼロッテにそれを知るすべは何もなかった。

 この後、アンネマリーがこの場に立つはずだ。

 そう思うと、胸の痛みが再び顔をもたげてくる。いたたまれない気持ちになっても、リーゼロッテはただ瞳を伏せることしかできなかった。
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