元王女で転生者な竜の愛娘

葉桜

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第10話

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 人生には、どうやっても避けられない事があると思う。

 前世でもあった。例えば学校でのテストとか試験とか……、大きく分ければ勉学ってことになるのかな。そうしたどうしても逃げることができない事って、あると思う。勉強は大事だけどね。せめて常識程度はしっかり学ばないと。……私、有名な伝承について知らなかったけど。

 いや、そんなことはいいんだ。そんなことはどうだっていい。

「もー、リリー? いい加減観念しなさいってばー」

 厩舎きゅうしゃから馬を引き取るテオとアルノーさんを待ちながら唸っていると、リフを抱えたレナが呆れたようにそう言った。
 だよね、わかってる。わかってるよもー! 覚悟を決めましたよー、だ!

「ならしゃきっとしなさい」

 ……ほんとにレナは時々厳しい。
 がくりと肩を落とす私に、レナは吹き出すように笑った。

「それで、リリィ。どうする?」

 と、馬を引いて戻ってきたテオが首を傾げる。
 その質問の意図がわからないわけがない。だって私がさっきまで悩んでいたことはそれで、覚悟を決めたところなのだから。

「テオの方に乗らせてもらっていい? 多分、アルノーさんの方だとリフが嫌がると思うの」
「もちろん構わない。ただ、リリィがアルノーの方が良いと言うなら俺がリフを預かる事くらいできると思うが……」
「それも考えたんだけど……きっとおとなしくはしてくれないと思うし、馬にちょっかい掛けかねないから」

 リフはまだ子供だから尚更なんだけど、風竜というものは竜の中でも特に悪戯っ子だ。自由気ままで何ものにも縛られないというか、とにかく気の向くままに行動しがちでお行儀よくというのはあまり望めない。
 私達と一緒に暮らしている影響でリフは風竜の中でも言う事を聞くおとなしい方ではあるけれど、それでも持って生まれた固有の気質は変えようがない。レナもレイン兄たちもいない以上は、言葉だけで絶対に止めることも出来ないし。

「ダメってばかりじゃいけないってわかっていても、そればかりはどうにかしないと危ないし……それなら傍にいてあげたほうが許容できる範囲も広がるから」

 言いながらリフを見ると、わかっているんだかいないんだか、キュイ、とひとつ鳴き声を上げた。
 それからもぞもぞと体をよじり始めたリフにレナがそっと腕を離すと、リフはふわりと中空を飛んだかと思えばひしりとテオの頭にしがみついた。

「キュ!」
「ん? そこにいるか?」

 満足げなリフと、気にした様子もなく見上げるテオに、レナが吹き出すように笑う。

「ふふ、見ている分にはかわいいけれどダメだよ、リフ。テオくんにくっついてたいなら、肩辺りにでもしておきなさい。落ちちゃったら危ないでしょ?」
「ンキュ~」
「甘えた声出してもだぁめ。リフが怪我しちゃったらって心配なんだよ? リフだって私達が痛い思いするのを見るのは嫌でしょう?」
「……キュ」

 少しの沈黙の後に返事をしたリフが、するりとテオの肩に降りる。とにかく今は傍にいたい気分みたいだ。
 両手を腰にあてがい、やれやれといった様子で眉を下げて笑うと、レナは今度はテオをじっと見て、

「テオくんもリフに優しくしてくれるのは嬉しいけど、ほどほどにね。わがままばかりの子にはしたくないから」
「……善処はしよう」
「あ、別に厳しくして欲しいってわけじゃないの。でもね、間違ってることとか危ないことだけは、ダメだよって叱ってあげてほしいな。テオくんに懐いているのがわかるからこそ、テオくんにもリフに良い悪いを教えてあげて欲しいの」
「といっても、テオにはリフと接してもらえているだけで充分助けられてはいるけどね」

 これは竜に対して友好的なテオだけではなく、明確に危害を加えようとはしなくともリフを警戒をしているアルノーさんも、だ。
 本能によって察知するだけじゃ得られないものがあるということは、レイン兄たちに教わるだけじゃなくて私自身がリフがアレンたちと交流する様子を見ていて感じていることだ。リフにとって二人と一緒に行動をする事は、思うよりもずっと多くの得られるものがあると思っている。
 そういう為の旅とかではないし、果たしていざ王城に着いた時にそう呑気に思えそうにはないけれど、それはそれだよね。

 なんて、私の考えていることなんかわかりっこないリフは、テオの肩の上でご機嫌そうに尻尾を揺らしながら鳴いた。もちろん、口を真一文字に結んだ険しい顔で見るアルノーさんのことなんてまったく気にせずに、である。

「さて、そろそろ出立しよう」

 と、テオが切り出すと、アルノーさんがしっかりと頷く。

「殿下の荷は全て、私の馬に積み終えております」
「普段より多い荷を任せることになって馬には無理をさせるが、頼む」
「ご心配には及びません。我が愛馬も私同様、鍛えておりますゆえ」

 テオは私がテオの馬に乗ると決めてすぐ、アルノーさんに荷物を預けていた。馬には問題なく走行できる重量の上限、というものがあるからだ。
 乗り手一人とその人の荷物くらいならば全く問題がないけれど、二人乗りに二人分の荷物をとなると流石に馬の負担は大きくなりすぎちゃうからね。それでも自分の荷物をアルノーさんに預けて私の荷物は私の手元に置いてもらえるのは嬉しい。別にアルノーさんに預けるのが不安だとかじゃなくてね?

 はてさて、そんなこんなであとは乗り込むだけなんだけど、と私は馬を仰ぎ見る。……乗れるのかな、これ。
 一抹の不安を抱いていると、テオから声を掛けられた。

「一人で乗れそうにないなら手伝おう」
「是非にお願いします!」

 返事は迷いなくはきはきと。
 いっそ食い気味に答えると、少しだけ驚いたように目を瞬かせながらもすぐにテオはわかった、とまずは私に馬の左側につくように指示した。
 素直に従うとテオは私の後ろに回り、

「鞍には……手が届くな、左手でしっかりと握って」
「う、うん」
「左足を支えながら持ち上げるから、そのまま少しだけ寄りかかるようにして跨いでくれ」

 いくぞ、という合図の後に持ち上げられた左足のおかげで、言われる通り鞍に跨ぐのは思っていたよりは簡単だった。たぶん、テオの手助けがなかったら無理だったろうけど。
 ほっと安堵していると、テオが軽々とあぶみに足を掛けて私の後ろに乗り、

「……よし、視界は問題ないな」

 背後とは言え声と体のあまりの近さにびっくりしたけど、こればっかりは受け入れる他ない。というかそもそも美青年はレイン兄とグレン兄で慣れてるし? 距離感だってそれなりに近かったものね! 家族だし!
 少しだけ焦っているようないたたまれないような感覚を抱いていると、頬をするりと何かが撫で、

「キューイ?」

 大変可愛らしい声で鳴いた。
 真横を見るとリフがどうしたのと言わんばかりに首を傾げていて、そのいつもと変わりない様子に私は吹き出すように笑ってしまう。

「大丈夫だよ。馬に乗るのだなんて初めてで、少しドキドキしてただけだから」
「キュ」
「鞍の上だし、抱え込むようにして手綱を握るつもりだから乗り心地は悪くはないと思うんだが……」

 そういうことじゃないけどそういうことにしておこう!
 気遣わしげなテオの声はほとんど頭上から聞こえてきていた。まだ少し落ち着かなくはあるけれど、リフがすぐそばにいるからか先ほどまでの感覚はない。

「普通は長距離を相乗りで、だなんて事はないからねえ。ただテオくんの言うとおり乗り心地は良いと思うよ? 後ろに乗るとなると、揺れも酷いからテオくんにがっちり掴まってないと絶対に危なかっただろうし」

 がっちり掴まるのは、ちょっとなあ……グレン兄ならともかくレイン兄にそれを出来ますかって聞かれても躊躇うし。
 だなんて考えはもちろん筒抜けだろうレナが、私を見上げてにっこりと笑っていた。……なんだろう、もう逃げられないぞっていう圧を感じる。逃げないもん。逃げられないもん!

「じゃ、リリーもリフも気をつけてね! テオくんとルノくんも気を付けて。うちの可愛い妹弟分とあの子のこと、お願いね」

 貴方も頼んだよー、と馬に笑いかけながら撫でるレナに、ふっと口元を緩める。

「うん、行ってきます!」
「貴方がたの大切なご家族、しばしお預かりする」

 そう言い括ってテオが馬を走らせると、笑顔で手を振って見送ってくれたレナの姿はすぐに小さくなり、イシュルテの町並みからもあっという間に遠ざかってしまう。
 だからレナが私たちを見送ってから呟く様に口にした言葉も、その表情も、当然知る由もなかった。


「あっちは心配いらないと思うけど……問題はこっちよねえ」




 しばし続く平原を越えて木々が増え始めた道なりに馬を走らせてしばらく、ふと思い出したようにそういえばとテオが口を開いた。

くだんの天狼との合流地点は決まっているのか?」

 道中で滑り降りるようにして腕の中に収まったリフを抱き抱えた私はきょとりと目をしばたかせ、テオを見上げる。

「合流地点は決まってないわ。どこかに留まっている時ならともかく、移動を始めてしまったら連絡の取りようがないもの」
「それは確かにそうだが……」
「そのような状態で合流など望めるのか? まさか王都でようやく落ち合えるというわけではないだろうな?」
「流石にそれはないと思いますけど……」

 怪訝そうなアルノーさんの疑問に、私は曖昧に答えることしかできない。
 実際どうなるかだなんて言い切れないしね。もうすぐに会えるかもしれないし、王都近くになってようやくになるかもしれないし。私はカノンがどこにいるか知らないし……イスイルさんに連絡を取っていたから、もしかしたらそこにいたのかもしれないけれど。
 ただ私に言い切れるのは、こまめな連絡がなくとも問題ないという事実だけ。

「天狼は目も耳も鼻も良いの」
「うん? 幻獣種であればそうだろうが……」
「だから忘れないし間違えないんだって。人も、場所も、何も」
「……つまり、リリィとリフのことを識別出来る限りは問題がないと?」

 見上げた先で不思議そうな顔をちらりと向けるテオに頷いてみせる。

 幻獣種は獣人の上位種のような存在である事からもわかる通り、獣としての優れた能力をより優れた形で持っているそうだ。
 天狼はその中でも文字通り狼としての特徴を有している。目も耳も鼻も、脚力も肉体の強さも何もかも狼や獣人に組み込まれるような者たち以上に優れているのだから、思うよりは早く、また正確に私達の居場所を嗅ぎ当てる事だろう。

 とはいえ私だって小さな頃に迷子になったところを誰よりも先に見付けてくれたのが、事情を知らない外から返って来たところのカノンじゃなければ信じ難いままだっただろう。
 泣くことも叫ぶことも出来ずに蹲っていた私にどうしたんだ? と首を傾げた彼に迷子になっていたと伝え、カノンこそどうしたのかと聞いた時にそこにいたから、とさも当たり前の事のように答えられたりしなければ。
 だから私は今回もあの時のようにひょっこりと現れるだろうと信じている。

「そう上手くいくものなのか?」

 眉根を寄せたままのアルノーさんにテオが何も言わないということは、彼もまた似たような疑念を抱いているのだろう。
 でもこればっかりは実際に合流できないことには納得させられないだろうしなあ。

「遅くとも王都近くでは合流できると思うので、そういうつもりでいてくれたらそれで良いかと」

 イスイルさんのとこにいたとしても直ぐにだなんて無理だろうしね。
 それ以上は答えようがないと言外に伝えるように眉を八の字にして告げると、アルノーさんもテオもそれ以上わたしに問うてくることはなかった。

「……そうか。では無理のない時間をかけて帰路につくとしよう」

 代わりにテオはそう言うと手綱を操って馬の速度を緩め始めた。

「この辺で休むの?」
「ああ。走り通しじゃ辛くなるからな。馬も、乗るだけの俺達もな」

 小さく笑って言うけれど、これは間違いなく馬だけではなく私のことも気遣っての言葉なんだろう。鞍に跨ってほとんどテオに支えてもらっての乗馬でどこまで疲れるかは私自身もわかりやしないけど。
 それでも異を唱える理由はないし、わかったと頷いた時には道を跨ぐように流れる水量の少ない小川の近くで馬が足を止めた。

「リリィ、手を伸ばしてくれ」

 先に降りたテオが未だ馬に乗ったままの私に腕を伸ばす。
 それを見て思わず逡巡した私はおかしくないと思うの。うん。だって見た目はともかく感覚としては通算でいい年なわけよ、気恥ずかしいのよ。いや、これは見た目通りの年齢でも変わらないか? まあ応じるしかないんだけど。
 リフに肩か頭の上に乗るように声を掛けると素直に応じて肩にするりと身を滑らせてくれたことに感謝しつつ、意を決して私も腕を伸ばした。

「……重かったらごめん」

 テオの腕に届くように体を傾けると、自ずと彼へと全体重を掛けてしまう形になる。だからこそ申し訳なさと羞恥を抱いていたけれど、テオに抱え上げられるような状態だったのは時間にして極僅か。

「重いだなんてことはない。むしろ軽いくらいだ」

 そっと地面に下ろされると同時に手が離され、テオがにこりと笑う。
 流石は王子様というべきか、爽やかだし実に様になってるわね。しかもお世辞であろうとも返答も完璧か。おかげですっごく気恥ずかしいからやめてほしい。こっちはそういうのにあまり耐性はないんだからもう少し雑に扱ってくれて全然いいのに。……いや、やっぱりダメだ。それはそれで腹立たしいかもしれない。

「テオドール殿下。少し周囲を見回って参ります」
「ああ、頼む」

 既に馬から荷物を降ろしたアルノーが、テオに目礼をして木々の奥に向かっていく。
 残された私はリフを肩に乗せたまま、馬に乗せていた荷物を手に取ったテオに促されるような形でアルノーさんが降ろした荷物の置かれた木の下へと足を運び、そこに腰を降ろした。
 視線の先では二頭の馬が川の水で喉を潤している。

「リフも行く?」

 目を遣りながら尋ねると、リフがひとつ返事をするように鳴き声を上げて肩から飛び立つ。そのまますいすいと泳ぐようにして川へと向かう姿を見ていると、

「リリィも水分補給を忘れないようにな」
「うん、ありがとう。テオもね」

 なんてことのない言葉に小さく微笑んで、自分の荷物の中から水筒を引っ張り出した。その中身である水に口をつけて一息ついたところで、

「リリィはイシュルテから離れたことはあるのか?」

 とても他愛もない問いだ。特段どうしても知りたいという風でもない、ただ話の種になれば良いといったそれに私は数回瞬きを繰り返しながら答えた。

「王都までっていうのは流石にないけれど、それなりに遠出をすることはあるよ。リフが生まれてからは私が出掛ける頻度は減ったし、そう遠くまでではなかったからリフにとっては今回の全てが初めての経験になるわね」
「リフが生まれてからは、というとやはり安全面からか?」
「それもあるにはあるけど、慣れの方が大きいかな。少しずつ慣らしていたところなのよね……今回だってテオにリフが懐いていなかったら流石に無理だったと思うの。多分連れ出した所ですぐに帰ろうとしていただろうから」

 リフは怖がりで臆病なところもあるからなあ……今のところは言う事を聞いてくれる良い子でいてくれているけど、それもいつまで続くかわからなくて不安はある。
 だってまだ子供だもん。人間の子供と一緒で何かの拍子で機嫌を損ねる可能性は常に存在するのよね。聞き分けは悪くない方ではあるけれど。

「リリィがいてもか?」
「私がいても、よ。小さな子供が言い出したら聞かない時があるのと似てるわね。まあ、レイン兄とシル姉ならどうにか出来ただろうけど」

 何せあの二人は我が家で一番発言力を持った権力者のようなものだ。絶対に心の底から怒らせてはいけない人たちなのである。穏やかな人たちほど怒らせちゃいけないって、本当なのよ?
 苦笑混じりに告げると、テオはそうなのか、と納得したように頷き、それからまた首を傾げた。

「レインとシルといえば、彼らはリリィとグレン殿の育ての親というだけで血の繋がりはないのだとは聞いたが……」

 誰が見ても分かることではあるからこそ、この事は聞かれる前にレイン兄とシル姉の口からテオとアルノーさんに明かされていた。
 といっても事情の全てではない。細かなところは個人的なことだからと伏せた上で、実の家族とワケあって暮らせなくなったため引き取って養育しているのだ、とその程度だけれど。
 もちろんアルノーさんはその話を聞いて訝しげな視線をレイン兄とシル姉に向けていた。テオに咎められて睨まれたことで渋々ながらも問いただそうとはしなかったけれど。

「うん。血縁関係は全くないね、顔も何も似ていないからわかるとは思うけど」
「ああ、別に疑っているわけではないんだ。ただ、二人の関係が気になってな」

 それはテオにとってはすごく素朴な疑問だったのだと思う。実際私も昔は気になったし、直接尋ねたりもしたしね。
 けど返される言葉はいつだって同じだった。

「あの二人は夫婦とか恋人とか、そういう関係じゃ全然ないの。家族……姉と弟、もしくは兄と妹みたいな関係っていうのがしっくりするみたいだけど――なんだって」

 一番端的で、一番正しい表現は主従関係。
 それをレイン兄とシル姉は隠そうとは決してしていない。かといって言いふらそうともしない。聞かれれば答えるし、もし聞かれたらそう教えてもいいと二人から言われている。……それ以上は伝えてはいけないって言われているけれど。

 テオはひどく驚いたような顔で私を見ていた。

「主従関係……?」

 意外であると声でも表情でも訴えて来ていたが、何かを発しようと開かれた唇が動かされることはなかった。

 視界の端で馬たちがぱっと顔を上げる。半拍遅れてリフが泳ぐようにこちらに向かってきて、

「キャウ!!」

 何かを告げるような鳴き声ひとつ。それから更に半拍あって、

「殿下! リリィ嬢! 逃げてください!」

 鋭い声が少し遠くから聞こえてテオが素早く立ち上がり鞘に収められた剣の柄に手を伸ばし、それと同時に鳴る茂み。その音は遠くから響いてきたアルノーさんの声と同じ方向から聞こえてきていた。
 一体何があったのかと考える間もない。飛び込んできたリフを抱き留めた直後――茂みから黒い影が飛び出した。

「っ!?」

 突然のことに動けずにいる私の目の前で、迷いなく抜き出され振るわれたテオの剣が黒い影を斬りつける。
 その影は犬のような形をしていた。キャイン、と悲痛な声を上げながらも地面に降り立った姿を見て、ようやくそれが何かわかった。

「フォレストドッグ!?」

 焦げ茶の毛並みに赤くぎらぎらと光る目を持った子牛ほどの大きさの犬――フォレストドッグは魔物の一種だ。
 多くは森の中に生息するこの魔物は前世の知識で言うならゲームでも序盤に現れるモンスターの一種だけど、普通の人間――つまり私にとっては大変な強敵だ。一発で致命傷を負わされかねない。ゲームじゃなくて現実なんだから当たり前だけれど。

 テオによって刻まれた裂傷から血を滴らせながらも、フォレストドッグはこちらを遠巻きに睨んでいた。戦意は失われていない、本能故に隠されない殺意に身が竦む。
 この世界では魔物はごく普通に存在するし、家の周りやそれ以外の場所でも見かけたりはするとはいえ、無力な自覚がある分、こうした対峙は何度経験したって怖いものは怖い。

「リリィ、そこから動くなよ?」
「っ、うん……!」

 確認するようなテオの言葉にリフを抱きしめながら返事をすると、テオがフォレストドッグへと踏み出した。
 至極落ち着いた様子で繰り出される斬撃は、身を翻したフォレストドッグに一撃目は躱されるも二撃目は的確に打ち込まれ――異なる方向で茂みが鳴った。

「え、」

 振り向いた時には迫る別のフォレストドッグの姿があった。
 牙を剥き出しにするように開かれた口と、振り上げられた鋭い爪が閃く。

「……っ! リリィ!」

 テオの声が聞こえた。けれどもきっと彼は間に合わないのだろうと漠然と理解していて。
 ああ、喰われる。それとも爪で肉を裂かれるのかな。
 逃れられないと悟った頭でそんな事を考えていた――刹那、かさりとまた茂みが鳴って、襲いかかって来ていたフォレストドッグが横合いから勢いよく向かってきた何かによって視界から消えてしまった。
 ぱちくりと瞬き一つ。フォレストドッグと共に何かが消えた方を見ると、そこにはフォレストドッグよりも大きな獣がいた。

 毛並みは綺麗な銀色。子牛ほどの体躯のフォレストドッグよりも何回りも大きなそれに、私は見覚えがあった。

「……カノン?」

 呟く様に呼び掛けると、その獣は口に咥えていたぐったりとしたフォレストドッグを雑に投げ捨ててから私へと向き直り、

「ぺっ! ぺっ! 血生臭……っ! っあー……口をすすぎたい……」

 その姿を瞬く間に青年のそれへと変えると、答えるより先に眉根を寄せながら血で汚れた口元をごしごしと手の甲で擦り始めたのだった。
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