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恋人という関係

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 チェックアウトを済ませたのは、午前十時を過ぎた頃だった。煌びやかなロビーともこれでお別れかと思うと真山の胸には少しだけ寂しさが残る。

 真山とソウイチが連れ立ってエントランスを出ると、外はすっかり明るくなって、春らしい暖かな陽射しが降り注いでいた。空は晴れ、白い雲が見える。頬を撫でる風は柔らかく、家が近くなら歩いて帰りたくなるようないい天気だった。

「マヤくん、この後はどうするんだ」

 隣にいるスーツ姿のソウイチが真山を見上げた。
 幸い今日は何もない日で、真山は寄り道でもしながらのんびり帰ろうと思っていた。

「え、帰るけど」
「もしよかったら、うちに来ないか」
「っ、え」

 ソウイチからの突然の提案に、真山は思わず声を上げていた。
 もうサービスのことを気にせず会える。躊躇う必要もないのだが、突然のことに真山はあからさまに動揺していた。

「少し話をしたいんだが、いいだろうか」

 緊張した面持ちのソウイチにつられて、真山の鼓動が早まる。

「ん、いいよ」

 専属契約が成立したこの状況で、ソウイチの家に行くということがどういうことか、わからないわけではない。
 ずっと夢のままだった世界が現実のものになるということに戸惑いながらも、秘めやかに湧く期待に促されて真山は頷いた。



 ソウイチに案内されるままついていった先はホテルの駐車場だった。
 そこにあったのは、黒い高級外車のSUVだった。車にさほど詳しくない真山には正確な値段はわからないが、とにかく高いことだけはわかる。

「さあ、乗ってくれ」

 圧倒された真山はソウイチに言われるまま助手席に乗り込んだ。

 ソウイチの車は乗り心地も別格だった。
 ソウイチの運転する車はゆっくりと走りだす。視界の高さと振動のない滑らかな乗り心地も相俟って、ふわふわと飛んでいるようだった。

 車窓から見える都会の狭い空には白い雲が浮かんでいる。流れていくビル街の景色も、なんだか知らない世界のような気がした。
 街路樹の桜が咲いている。煌めくように花びらが散るのを眺め、そんな時期だったと思い出す。

 真山はまだどこか夢見心地で、これさえ夢の続きなのではないかと思った。頬を摘んでみると鈍く痛むので、どうも夢ではないようだった。

 車はしばらく走った後、タワーマンションの地下駐車場に滑り込んだ。どうやらここがソウイチの自宅のようだった。
 車を降りた二人は居住者専用エリアに入ってエレベーターに乗り込んだ。
 エレベーターひとつとっても、先ほどまでいたホテルほどではないが、モダンな内装で粗末さはない。

「すごいね」

 独り言のように言った真山を、不思議そうにソウイチが見上げた。

「エレベーターが、か?」
「ううん。車もだし、マンションも。でかいんでしょ?」
「まあ、そう、だな」
「そーいちさん、こんなとこに住んでんの?」
「ああ」

 ソウイチにとっては当たり前のことなのだろうが、真山が言うとソウイチ少しだけ嬉しそうに表情を緩めた。
 凛とした表情が時々柔らかく緩むのが、たまらなく好きだった。これを自分だけに見せてくれているのかと思うと、真山の胸はざわめく。
 二人を乗せたエレベーターは音もなく上昇を続けて、程なくして上層階に着いた。
 内廊下のマンションは初めてだった。カーペットフロアの廊下はホテルのようで、真山は視線をあてもなく彷徨わせる。フロアには部屋は多くなさそうだった。
 ソウイチに案内されたのは、その中の一室。黒に近いグレーの玄関ドアも高そうだった。
 ソウイチは鍵を開けるとドアを開けてくれた。

「どうぞ」
「お邪魔します」

 通された玄関から真山は圧倒された。
 広くて、白い。玄関だけで真山の部屋と同じくらいありそうだった。左右の壁には天井まである収納、玄関脇にはなんと呼ぶのかわからないが収納用の部屋もある。

 靴を脱いであがると、花のようないい匂いがした。ルームフレグランスの香りだろうが、これもきっと高いのだろう。

 真山はリビングに通された。パーティーでもできそうな広いリビングは、真山の部屋がいくつ入るのかわからない。置いてあるのはモダンなデザインの黒い革張りのソファとテーブルのセット、観葉植物、それからテレビくらいで、どこか殺風景な印象を受けた。
テレビは真山の部屋にあるものの四倍くらいの大きさだった。家具以外の物は思ったより少ない。家具が整然と並んだ、手入れされて埃ひとつ見当たらない部屋だった。
 生活感の少ない整然とした部屋を眺めて呆けていると、ソウイチの手がそっと真山の背に触れた。

「マヤくん」
「あ、ごめん、見惚れてた」
「どうぞ、座ってくれ」

 微笑むソウイチに促されるまま、真山は二人掛けのソファに座った。ソウイチはリビングの奥のキッチンに向かった。
 リビングは広かった。ここだけで真山の部屋がいくつ入るだろう。奥にはキッチンがあって、ソウイチの姿が見えた。

 座ったソファは柔らかく、真山の身体をしっかりと受け止めてくれた。滑らかな手触りの革のソファは、きっとこれもお高いのだろう。
 そうやって初めて訪れたソウイチの家を満喫しているうちに、ソウイチがキッチンから戻ってきた。その手には、湯気のゆらめくマグカップがあった。

「すまない、あまり人を上げないからこんなものしかなくて」

 真山の前に置かれたのはのコーヒーの入ったマグカップだった。
 コーヒーのいい匂いがする。インスタントではなく、ちゃんと淹れたコーヒーの香りだ。
 質素だが、質の良い暮らしが窺える。

「ありがとう」

 真山の隣にソウイチが座る。二人掛けのソファがあるだけなので必然的にそうなるのだが、真山はなんとなく身を硬くした。

「マヤくん、名前を聞いていいだろうか」

 隣に座ったソウイチが真っ直ぐに真山を見た。

「名前?」
「マヤくんが本名なのか?」

 真山はようやくソウイチの言っている意味を理解した。

「真山慎だよ」
「ああ、だからマヤ、か」
「そう。登録するのはかわいい名前の方がいいらしいから」
「そうだな、かわいい名前だ」

 くすくすと控え目に笑うソウイチは年上だとわかっていても愛らしい。中性的ではあるがちゃんと男だとわかる顔立ちをしているから、仕草がかわいいのだろう。

「俺は桐野きりの宗一そういちという」

 ソウイチはスーツの内ポケットから革の名刺ケースを取り出した。そこから一枚名刺を抜き取り、真山に差し出した。名刺にはキリノグループと書かれている。聞いたことがある。不動産関連の有名企業だ。
 真山は名刺を両手で受け取った。
 そこには同じ名前が書かれていて、その上には、代表取締役社長という肩書きが見える。

「社長……ていうか宗一って、まんま使ってたの」
「あぁ。そういうものじゃないのか」

 背筋を伸ばしてソファに浅く座る桐野は真面目な顔で、さも当たり前のことのように言った。

「いや、みんな身元バレるのとか嫌がるから、偽名というか、ニックネームが多いんじゃないかな」
「そうなのか……」

 桐野は初めて知ったと言わんばかりに綺麗な指先で顎を撫でた。意外と世間知らずなところが垣間見えて、真山は思わず笑みをこぼした。

「ふふ、そーいちさんて、意外と抜けてるね」

 真山につられて桐野の表情も綻ぶ。

「真山くん」
「慎でいいよ」
「慎くん」

 桐野の澄んだ声で呼ばれると、自然に表情が緩んだ。その声がこれからずっと、自分を呼んでくれる。そう思うと真山の胸は温かく優しいもので満ちるのだった。
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