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第2章 タランテラの悪夢
46 怨と恩6
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「若様」
声を掛けられて振り向くと、戸口にマルトが立っている。
「マルト、何か用か?」
「若様、フレア様がお目覚めになられました」
「本当か?」
「はい。嬢様……フレア様がお会いしたいと仰せでございます」
「分かった、すぐ行く」
アレスは立ち上がると、すぐにフレアの寝室に向かう。どういった顔をして会えばいいか分からなかったが、部屋の外で一度深呼吸すると扉を叩いた。
「どうぞ」
すぐに返事があり、アレスは扉を開けると部屋の中に入った。窓にカーテンが引かれて少し暗くしてある室内は、彼女が失踪する以前のままに保たれている。ただ、季節ごとにカーテンも床に敷かれた敷物も寝台の布団もいつ彼女が帰ってきてもいいようにマルトがこまめに変えていた。
アレスは寝台にゆっくりと近づいた。その傍らにある机には、彼女が肌身離さず持っていたものがきちんと並べて置かれている。
一つは彼がクーズ山の山頂で手に入れた聖なる石で造られた首飾り。手先が器用なバトスが加工してくれたものだ。もう一つある首飾りはメダルに紋章の様なものが刻まれている。これがおそらくフォルビア家の当主の証だろう。その他には翡翠で作られた耳飾りがあるが、どこかで落としたらしく片方しかない。それらの装飾品に囲まれて、幾ばくかのお金が入っている巾着が置いてある。見るからに高級な生地が使われ、落ち着いた色合いに銀糸で装飾が施されている。女性の物ならもう少し華やかな装飾が施されているはずだから、それはおそらく彼女の夫であるエドワルドの物だろう。
「アレス……」
「お帰り、フレア」
アレスは勤めて明るく声をかけた。フレアの枕元で丸くなっていた小竜が眠そうに頭を起こしたので、彼はその頭を優しく撫でてやる。
「助けてくれてありがとう」
体を起こす事が出来ない彼女は、アレスの方に顔を向けて礼を言う。
「礼はこいつに言ってくれ。彼が来てくれなかったら、我々は間に合わなかった」
「本当に?」
「ああ。昼飯を分けてやった時に、野良ではなさそうだったから、大好きな人はどこだと尋ねた。そうしたらあの洞窟で寝込んでいる子供のイメージを伝えて来たから、急いで皆で駆け付けた」
フレアも手探りでルルーの頭を撫でてやると、小竜はクルクルとのどを鳴らして彼女の手に頭を摺り寄せる。
「あの時はお腹が空いていたはずだから、たくさん食べたでしょう?」
「ああ。指まで食べられるかと思った。あの瓜にかぶりついた姿は見ものだったよ」
「甘瓜はこの子の大好物なの」
「そうか? 飛竜達も唖然としていた」
小竜の話題で久しぶりに会う姉弟の緊張がほぐれていく。
「この子はあの人が皇都で見つけてきてくれたの。コリンとは大の仲良しで、いつも一緒に遊んでいるわ」
「フレア……」
自分が知らない母親としての一面を垣間見て、アレスは少し戸惑う。
「アレス」
「うん?」
「お願いがあるの」
「何?」
フレアの改まった口調にアレスは居住まいを正した。
「エドを……あの人を助けて欲しいの」
「フレア……」
「あなたに頼むのは間違っているのかもしれない。あなたがタランテラを憎んでいることは分かっているけど、でも……でも、あなたに頼るしかない……」
「……」
「できる事ならコリンをここに置いて私が行きたい。でも今は動くどころか体を起こすことも出来ない」
フレアの頬を涙が伝い、彼女は両手で顔を覆った。
「あの人に会いたい……。エド……エド……」
「フレア、もういい。泣くな。腹の子に障る」
アレスはようやくそれだけ言うと、彼女の頬を伝う涙をぬぐった。
「……」
「大体の事は昨夜のうちにオリガから聞いた。ダニーも仲間も君の無実を晴らすために動き出している」
フレアが顔を覆った手を降ろすと、既に目は赤くなっている。
「……みんなが?」
「ああ。これから俺は父上に会いに行く」
「お父様に?」
フレアは驚いたように目を見張る。
「あまり手を煩わせたくないけれど、フレアが帰ってきたことを報告しないといけないし、現在のタランテラの情報をきけるかもしれない。とにかく君にかけられた濡れ衣は何とかしないと……」
「……迷惑かけてばかりだわ」
フレアはうつむいて目を伏せる。
「気に病まないことだよ。とにかく今は、元気な赤子を産むことを考えればいい」
「……」
「ダニーが珍しくやる気になっているから、どうしたのかと思ったけど、結局酒が無くなったから補充して来いだって。彼のやる気もその程度だから、深く悩まなくていいよ」
深刻に悩んでしまっている姉の気持ちをほぐそうと、アレスは勤めて明るく言った。
「……本当に?」
「ああ。だから思いつめなくていいよ。結局、みんな楽しんでいるから」
アレスの口調につられて少しフレアの表情も和らいでくる。
「じゃあ、俺は出かけてくる。ゆっくり休んで、養生してくれ」
まだ安静が必要な姉の体に配慮し、アレスは話を切り上げて彼女の寝室を後にした。
フレアの相手がタランテラの皇子と聞いて二の足を踏んでいたアレスだったが、姉が夫を慕う様を目の当たりにし、腹をくくって一肌脱ぐ決意をした。とにかく今は時間が惜しい。彼は速やかに旅の支度を整えると、相棒の飛竜にまたがって旅立った。
コリンシアは真夜中にふと目を覚ました。辺りを見回してもフレアの婆やだという優しげな老婆も、お医者様だというきれいな竜騎士のお姉さんの姿も見えず、心細くなってくる。
「母様……」
昼間はちょっとだけオリガがルルーを連れて彼女に会いに来てくれた。老婆もきれいなお姉さんも優しくしてくれるが、彼女に会えたのは本当に嬉しかった。しかし、余計にフレアに会いたくなってしまったのだ。
「母様……」
コリンシアはそっと寝台を抜け出すと、裸足のまま床に降りた。ずっと寝込んでいて足腰が萎えている上に未だ熱があって立っていることが出来ない。それでも彼女は這うようにして戸口を目指し、壁に捕まりながら廊下に出た。
「……」
夜中と言うこともあって廊下に明かりはほとんどない。明り取りの窓から月の光が差しこんでわずかに辺りを照らしていた。
「母様……どこ……」
見知らぬ家にいるのでどこに行けば人がいるのかさっぱりわからない。動くこともままならず、途方に暮れたコリンシアは廊下に座り込んでしくしく泣き出した。そこへ明かりが近づいてくる。
「!」
現れたのは体の大きな老人だった。会ったことが無い相手に思わず怖くなってコリンシアは後ずさりする。
「……熱が……」
声をかけてきたのはバトスだった。彼はこんなところにいたらまた熱が上がるよと言いたかったらしいが、コリンシアには残念ながら伝わらなかった。それでも彼が着ていた上着をかけてくれたので、姫君は相手が怖い人ではないことを理解した。
「母様に……会いたい」
勇気を振り絞ってコリンシアはバトスにそう言ってみた。彼は困った様に首をかしげ、床に座り込んだままのコリンシアをそっと抱き上げた。
「母様に会いたいの……」
知らない人に囲まれている寂しさがこみあげてきて、コリンシアはまた泣き出した。バトスは困った様にその場に立ち尽くしていたが、小さな姫君の熱がまた上がったように感じてくる。本当は有無を言わさずに寝台へ連れて行くのがいいのだが、母親を慕って泣くこの子をこのままにしておくのは忍びなかった。
「寝て……」
フレア様のところへ連れて行ってあげるが、もしかしたら寝ているかもしれないよとバトスは言ったつもりだったが、当然コリンシアには伝わらない。しくしく泣き続けているコリンシアを抱いたまま、バトスはフレアの部屋に向かい、扉を軽く叩いてみる。
「はい?」
出てきたのはマルトだった。バトスがコリンシアを抱いていることにひどく驚いた顔をする。
「廊下……」
ぽつりと言ったバトスの言葉にマルトは全てを理解した。困った様子であったが、黙って戸口の脇にどける。
「母様……」
寝台に横になっているフレアの姿をコリンシアが見つけて声をかける。その声にフレアもピクリと反応して体を起こそうとする。
「コリン……コリンなの?」
「母様!」
バトスの腕の中でコリンシアは身を乗り出そうとする。慌てて彼はしっかりと抱きなおすと、フレアの寝台に近づいてそっとコリンシアをその横に寝かせる。
「コリン……」
「母様……」
横になったまま2人はしっかりと抱き合った。フレアは何度もコリンシアの額にキスをすると再びしっかりと腕に抱き締め、コリンシアはフレアの胸にすがりついて泣き出した。
その様子を見ていたマルトとバトスは親子の再会を邪魔しないようにそっと部屋を退出する。そして2人はある提案をするためにペドロの元へ向かった。
話し合いが無事に終わり、マルトがそっとフレアの部屋を覗いて見ると、親子は寄り添い、そして幸せそうに眠っていた。2人はようやく安心して休める場所に着いたのだった。
声を掛けられて振り向くと、戸口にマルトが立っている。
「マルト、何か用か?」
「若様、フレア様がお目覚めになられました」
「本当か?」
「はい。嬢様……フレア様がお会いしたいと仰せでございます」
「分かった、すぐ行く」
アレスは立ち上がると、すぐにフレアの寝室に向かう。どういった顔をして会えばいいか分からなかったが、部屋の外で一度深呼吸すると扉を叩いた。
「どうぞ」
すぐに返事があり、アレスは扉を開けると部屋の中に入った。窓にカーテンが引かれて少し暗くしてある室内は、彼女が失踪する以前のままに保たれている。ただ、季節ごとにカーテンも床に敷かれた敷物も寝台の布団もいつ彼女が帰ってきてもいいようにマルトがこまめに変えていた。
アレスは寝台にゆっくりと近づいた。その傍らにある机には、彼女が肌身離さず持っていたものがきちんと並べて置かれている。
一つは彼がクーズ山の山頂で手に入れた聖なる石で造られた首飾り。手先が器用なバトスが加工してくれたものだ。もう一つある首飾りはメダルに紋章の様なものが刻まれている。これがおそらくフォルビア家の当主の証だろう。その他には翡翠で作られた耳飾りがあるが、どこかで落としたらしく片方しかない。それらの装飾品に囲まれて、幾ばくかのお金が入っている巾着が置いてある。見るからに高級な生地が使われ、落ち着いた色合いに銀糸で装飾が施されている。女性の物ならもう少し華やかな装飾が施されているはずだから、それはおそらく彼女の夫であるエドワルドの物だろう。
「アレス……」
「お帰り、フレア」
アレスは勤めて明るく声をかけた。フレアの枕元で丸くなっていた小竜が眠そうに頭を起こしたので、彼はその頭を優しく撫でてやる。
「助けてくれてありがとう」
体を起こす事が出来ない彼女は、アレスの方に顔を向けて礼を言う。
「礼はこいつに言ってくれ。彼が来てくれなかったら、我々は間に合わなかった」
「本当に?」
「ああ。昼飯を分けてやった時に、野良ではなさそうだったから、大好きな人はどこだと尋ねた。そうしたらあの洞窟で寝込んでいる子供のイメージを伝えて来たから、急いで皆で駆け付けた」
フレアも手探りでルルーの頭を撫でてやると、小竜はクルクルとのどを鳴らして彼女の手に頭を摺り寄せる。
「あの時はお腹が空いていたはずだから、たくさん食べたでしょう?」
「ああ。指まで食べられるかと思った。あの瓜にかぶりついた姿は見ものだったよ」
「甘瓜はこの子の大好物なの」
「そうか? 飛竜達も唖然としていた」
小竜の話題で久しぶりに会う姉弟の緊張がほぐれていく。
「この子はあの人が皇都で見つけてきてくれたの。コリンとは大の仲良しで、いつも一緒に遊んでいるわ」
「フレア……」
自分が知らない母親としての一面を垣間見て、アレスは少し戸惑う。
「アレス」
「うん?」
「お願いがあるの」
「何?」
フレアの改まった口調にアレスは居住まいを正した。
「エドを……あの人を助けて欲しいの」
「フレア……」
「あなたに頼むのは間違っているのかもしれない。あなたがタランテラを憎んでいることは分かっているけど、でも……でも、あなたに頼るしかない……」
「……」
「できる事ならコリンをここに置いて私が行きたい。でも今は動くどころか体を起こすことも出来ない」
フレアの頬を涙が伝い、彼女は両手で顔を覆った。
「あの人に会いたい……。エド……エド……」
「フレア、もういい。泣くな。腹の子に障る」
アレスはようやくそれだけ言うと、彼女の頬を伝う涙をぬぐった。
「……」
「大体の事は昨夜のうちにオリガから聞いた。ダニーも仲間も君の無実を晴らすために動き出している」
フレアが顔を覆った手を降ろすと、既に目は赤くなっている。
「……みんなが?」
「ああ。これから俺は父上に会いに行く」
「お父様に?」
フレアは驚いたように目を見張る。
「あまり手を煩わせたくないけれど、フレアが帰ってきたことを報告しないといけないし、現在のタランテラの情報をきけるかもしれない。とにかく君にかけられた濡れ衣は何とかしないと……」
「……迷惑かけてばかりだわ」
フレアはうつむいて目を伏せる。
「気に病まないことだよ。とにかく今は、元気な赤子を産むことを考えればいい」
「……」
「ダニーが珍しくやる気になっているから、どうしたのかと思ったけど、結局酒が無くなったから補充して来いだって。彼のやる気もその程度だから、深く悩まなくていいよ」
深刻に悩んでしまっている姉の気持ちをほぐそうと、アレスは勤めて明るく言った。
「……本当に?」
「ああ。だから思いつめなくていいよ。結局、みんな楽しんでいるから」
アレスの口調につられて少しフレアの表情も和らいでくる。
「じゃあ、俺は出かけてくる。ゆっくり休んで、養生してくれ」
まだ安静が必要な姉の体に配慮し、アレスは話を切り上げて彼女の寝室を後にした。
フレアの相手がタランテラの皇子と聞いて二の足を踏んでいたアレスだったが、姉が夫を慕う様を目の当たりにし、腹をくくって一肌脱ぐ決意をした。とにかく今は時間が惜しい。彼は速やかに旅の支度を整えると、相棒の飛竜にまたがって旅立った。
コリンシアは真夜中にふと目を覚ました。辺りを見回してもフレアの婆やだという優しげな老婆も、お医者様だというきれいな竜騎士のお姉さんの姿も見えず、心細くなってくる。
「母様……」
昼間はちょっとだけオリガがルルーを連れて彼女に会いに来てくれた。老婆もきれいなお姉さんも優しくしてくれるが、彼女に会えたのは本当に嬉しかった。しかし、余計にフレアに会いたくなってしまったのだ。
「母様……」
コリンシアはそっと寝台を抜け出すと、裸足のまま床に降りた。ずっと寝込んでいて足腰が萎えている上に未だ熱があって立っていることが出来ない。それでも彼女は這うようにして戸口を目指し、壁に捕まりながら廊下に出た。
「……」
夜中と言うこともあって廊下に明かりはほとんどない。明り取りの窓から月の光が差しこんでわずかに辺りを照らしていた。
「母様……どこ……」
見知らぬ家にいるのでどこに行けば人がいるのかさっぱりわからない。動くこともままならず、途方に暮れたコリンシアは廊下に座り込んでしくしく泣き出した。そこへ明かりが近づいてくる。
「!」
現れたのは体の大きな老人だった。会ったことが無い相手に思わず怖くなってコリンシアは後ずさりする。
「……熱が……」
声をかけてきたのはバトスだった。彼はこんなところにいたらまた熱が上がるよと言いたかったらしいが、コリンシアには残念ながら伝わらなかった。それでも彼が着ていた上着をかけてくれたので、姫君は相手が怖い人ではないことを理解した。
「母様に……会いたい」
勇気を振り絞ってコリンシアはバトスにそう言ってみた。彼は困った様に首をかしげ、床に座り込んだままのコリンシアをそっと抱き上げた。
「母様に会いたいの……」
知らない人に囲まれている寂しさがこみあげてきて、コリンシアはまた泣き出した。バトスは困った様にその場に立ち尽くしていたが、小さな姫君の熱がまた上がったように感じてくる。本当は有無を言わさずに寝台へ連れて行くのがいいのだが、母親を慕って泣くこの子をこのままにしておくのは忍びなかった。
「寝て……」
フレア様のところへ連れて行ってあげるが、もしかしたら寝ているかもしれないよとバトスは言ったつもりだったが、当然コリンシアには伝わらない。しくしく泣き続けているコリンシアを抱いたまま、バトスはフレアの部屋に向かい、扉を軽く叩いてみる。
「はい?」
出てきたのはマルトだった。バトスがコリンシアを抱いていることにひどく驚いた顔をする。
「廊下……」
ぽつりと言ったバトスの言葉にマルトは全てを理解した。困った様子であったが、黙って戸口の脇にどける。
「母様……」
寝台に横になっているフレアの姿をコリンシアが見つけて声をかける。その声にフレアもピクリと反応して体を起こそうとする。
「コリン……コリンなの?」
「母様!」
バトスの腕の中でコリンシアは身を乗り出そうとする。慌てて彼はしっかりと抱きなおすと、フレアの寝台に近づいてそっとコリンシアをその横に寝かせる。
「コリン……」
「母様……」
横になったまま2人はしっかりと抱き合った。フレアは何度もコリンシアの額にキスをすると再びしっかりと腕に抱き締め、コリンシアはフレアの胸にすがりついて泣き出した。
その様子を見ていたマルトとバトスは親子の再会を邪魔しないようにそっと部屋を退出する。そして2人はある提案をするためにペドロの元へ向かった。
話し合いが無事に終わり、マルトがそっとフレアの部屋を覗いて見ると、親子は寄り添い、そして幸せそうに眠っていた。2人はようやく安心して休める場所に着いたのだった。
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