結局、低姿勢こそが最強のビジネススキルである

「大切な人とケンカし、それ以来ずっと疎遠に……」そんな経験をした人に読んでほしい話

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決裂したことさえ忘れていた

深い関係にある誰かとこじれた時、多くの場合「相手から謝ってくれないかな」や「誰か仲介をしてくれないかな」と考えがちである。特に相手が恩義ある人だった場合、恩を受けた自分からそうした謝罪をするか、ないしは第三者に仲介を頼むものだ。

だが、私は逆のことをしてしまったことがある。

相手は博報堂ケトル・嶋浩一郎氏である。同氏の方が私よりも立場が上にもかかわらず、嶋氏から逆に仲介者を立ててもらい、関係を修復してもらったのだ。

最初にキレて縁を切るようなことをしたのは私だった。今回は嶋氏との復縁について書いてみる。

いや、私も実は同氏と離れていた時期があったことはすっかり忘れていた。本連載について編集者と打ち合わせをしていたところ、過去のエピソードが次々と出てきて、その中に今回のテーマがあったのだ。

忘れたというのも、その時期からもう14年ほど経っているし、以後、嶋氏とはたくさん仕事を一緒にしたうえに、今は来年の私のセミリタイアに向け、「ファイナルカウントダウンイベント」に一緒に出演してくれている。

だからこそ「えっ、そんな時期って本当にあったんだっけ?」と思うのだが、本当にあったのだ。

「お前ヒマだろ?」「ヒマっすよ」から始まった仲

思えばフリーになって2つ目の仕事をくれたのが嶋氏だった。

同氏が編集を担当する朝日新聞社のタブロイド紙のライターになったのだ。当時は博報堂をやめたばかりで、無職のような状態だったため、同じ部署の先輩だった嶋氏から「お前ヒマだろ?」と言われ、「ヒマっすよ」と何も考えることなくライターになった。この時同氏は朝日新聞に出向していた。

その後、博報堂に戻った嶋氏は雑誌『広告』の編集長になり、私も同誌の編集メンバーになった。

第一号ではアフガニスタンに行くよう言われ、20日間パキスタンとアフガニスタンに行き、第2特集を完成させた。次の号は「東京」特集だったが、私は「島嶼部」を担当し、小笠原村や大島の観光情報を取材した。そして、第3号は「宇宙」だったが、ここでは宇宙開発の歴史などを担当し、NASAに連絡を取って写真を使わせてもらったりした。

さらには「101匹宇宙人大集合」という企画も作った。映画やドラマ、漫画やアニメに登場した宇宙人を101体集め、それらをすべて解説するとともに、宇宙人はいかに作品に登場し、そして変遷していったかを専門家の原稿とともに振り返った。とにかく許可取りと、画像とキャプションに齟齬がないかの確認が大変だった。

「赤穂浪士にかけて47体でもいいじゃないですか!」と言うも「いや、やっぱり101匹ワンちゃんにかけたいじゃん」と嶋氏から言われ、私はもう一人のライターと手分けし、101体の宇宙人を必死に集めたのだった。

他にも「新幹線」特集など様々なものを作ったのだが、その「東京観光」特集で私がキレてしまった。元々雑誌『広告』のギャラはそこまで高くなかったのだが、私の場合、以下3つのうち、2つの要件があれば積極的に仕事をすることにしている。

【1】カネ払いがいい
【2】成長できる
【3】仕事相手が好き

『広告』の仕事は【2】と【3】があったため、若干のグチはありつつも、楽しく仕事をしていた。実際、とんでもない激務だったものの、嶋氏も通常の博報堂の業務はありつつ、雑誌編集長をやっていただけに自分よりも激務だったかもしれない。そんな人が睡眠時間を削って仕事をしているのだから、下っ端の自分も当然必死にやらねば、と考えていた。

とはいっても、この頃、私には若干の驕りが見られていたと思う。ライターになって1年半が経過しており、すでに『日経エンタテインメント』では毎月のレギュラーのページがあるほか、3ヶ月に2回は何らかの特集に携わっていた。さらには、『テレビブロス』ではフリーランスとして毎号のように4~6ページの特集を作っていた。そして、こちらは【1】【2】【3】全部が揃っていた。

その当時、私の年齢は29歳で、嶋氏は34歳である。

売れ始めた若いフリーライターがやりがちなのだが、新しい仕事を得るとこれまでやっていた仕事への感謝の念が減るものである。また、愚痴を言いがちになってしまう。

そんなタイミングでの「東京観光」特集であった。嶋氏は外国人にも読んでもらえるよう、日英表記にすると言い出した。確かにそれはオシャレではあるが、作業量や予算を考えるとそれは相当苦しい話だった。嶋氏は文化系のくせに「根性出せば何とかなる」的な体育会系的論理を持つところがあった。

もう嶋さんとは仕事できない!

実際、当時若かったフリーの編集・ライター軍団は、「いやぁ~それにしても忙しい!」などと言いながらも嶋氏のオーダーにはキチンと応えていた。ところが、今回はさすがにキャパが多過ぎた。私には取材ページもかなり多く与えられつつ、集められた原稿すべてを英訳するという任も与えられた。

これがやり始めてみると、本当に大変なのだ。翻訳の時間が必要だから、企画そのものは普段よりも前倒しで進めなくてはいけない。さらに、日本語で修正が入った場合は、その部分の英語も直さなくてはいけない。あと、そもそも与えられた予算ではまともな翻訳家など雇えるわけがない。

そのことを伝えると「なんとかやってくれ」と言われた。これまでこの『広告』のチームは根性で乗り切ってきたところがあるので、今回もできるかと思ったのかもしれないが、さすがにこれは私も苦しくて仕方がなかった。

同時期に平行して日経エンタ!もテレビブロスもあるのだから、寝る時間はほぼなかった。翻訳は、私も一応アメリカに5年住んでいた経験があるため、自分ができるところは自分でやった。そして無給で父親にやってもらった。彼は海外駐在員生活が長く、英語は堪能で、TOEICも満点だった。ただし、全員が素人である。

それでも手が足りないため、今で言う「クラウドソーシング」的なサイトで翻訳者を募集したのだが、そこで見つけた人がまだあまり翻訳に慣れていない、「翻訳家を目指しています」というレベルだったため、大量にさばくことはできなかった。

こうした段階で入稿を控えていたのだが、私はここでキレてしまい、同僚の編集者4人に一斉メールを書き、窮状を訴えた。

「こんな、英文表記なんてこの人員と予算では無理ですよ! 広告だったら莫大な予算があるからなんでもできるかもしれないけど、雑誌なんてないじゃないですか! それにオレは翻訳家でもなんでもないですし、なんで全部オレがやらなくちゃいけないんですか! これって、1リットルのペットボトルに小便を溜めていって、もう900mlぐらい入っているのに、さらに一回分の尿を入れるような行為です! そもそも無理なんです!」

こうキレたところ、他の4人も「さすがに今回は詰め込み過ぎだよね」「嶋さんも要求が高過ぎだよね」「中川さんに押し付け過ぎだよね」などと同調した。

結局、この中の編集者の一人のお母様が翻訳家だったこともあり、彼女に頼み、翻訳は終わったのだが、この仕事で私は「もう嶋さんとはできない」とばかりに、今回の仕事の文句をメールで嶋氏に書き、「もうこの仕事はしません」と宣言した。4人は嶋さんに「今回は中川さんはかわいそうでしたよ」と言ってくれた。

これが2003年の春の話だったと思う。以後、私も忙しかったし、雑誌『広告』も順調に毎号様々な特集を出し続けていた。嶋さんの活躍は時々聞いていたし、あの時私と共同戦線を張ってくれた4人も順調に様々な仕事をしながら、『広告』の仕事も続けていた。

ここで、フリーになってからの年収を書いてみる。

2001年:60万円
2002年:400万円
2003年:800万円
2004年:850万円

『広告』の仕事をせず、テレビブロスでドカーンと大量ページを担当したり、某IT企業から会社案内制作業務を受けたりなどしたところ、2003年と2004年は明らかに年収が増えていた。だから、金銭的には嶋氏と離れたことによるダメージはない。

だが、どこかで「彼と過ごした約2年間を終わらせるのか?」という気持ちはあった。そうは思いつつも、2004年に入っても猛烈に忙しかったほか、どこか恥ずかしさがあり、「一度お会いいただけませんか?」とは言えなかった。

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プロフィール

中川淳一郎
中川淳一郎

1973年東京都生まれ。ネットニュース編集者。博報堂で企業のPR業務に携わり、2001年に退社。ライター、雑誌編集などを経て現在に至る。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』『縁の切り方 絆と孤独を考える』『電通と博報堂は何をしているのか』『ネットは基本、クソメディア』など多数。

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