「もし、人間に耳がなかったら、きっと音楽の素晴らしさや、森にいる小鳥のさえずりも楽しめないね」
私の通っていた小学校の当時の担任であった女性は、私を含む三十余名の小学生に、教壇の上からそう話した。まだ朝の9時頃だったと思う。
初夏の風が教室のカーテンに触り、そのまま小学生たちの頬をくすぐる。
なだらかな日差しがそそぐホームルームの時間の中で、彼女はそう切り出した。
人間の持っている五感を、肯定的に捉える感性。
そんなことを考えたこともない小学生たちに、不意打ちとも言えるタイミングでその感性を与えた彼女の顔からは、若干の陶酔にも似た恍惚の色さえもうかがえた。
しかし、私にとってその彼女の立ち姿よりも印象深かったのは、私の隣に座る高田さんという女子の独り言だった。
悦に浸る担任が広げた空間の網を縫うように、心細い声量ながらもしっかりとした言い切り口調で、彼女はこう言った。
「聞こえるもの、全部、私が選べたらいいのに」
時は進んで、私は中学生になった。2年生になってほどなく、同級生の父親が、心の調子をくずしてしまったという噂話を耳にした。
どうやら、労働環境やノルマの厳しい営業マン生活で精神がひっ迫し、張りつめた神経が研ぎ澄まされた状態から戻ってこられない体質になってしまったという。
例えば本を読む際に、紙の色が気になって文字に集中できない。本を手に持てば、感触が気になっていら立ってしまう。視線をページに落とせば、自分の鼻が邪魔と感じて文字に目を落とせない。
そんな具合で、世の中のすべてのものからのストレスを一身に受けてしまう体質になってしまったと聞いた。
冒頭で話した高田さんは、きっと小学生で既に、この事象の存在、つまり人間が五感から得る情報は必ずしも必要なものだけではなく、不要な情報もあることに気づいていたのだろう。
子どもといえど感心する聡明さだ。私は大人になるまで考えもしなかった。
確かに、自分のメンタルが擦り減っていると、感じるすべてのことにストレスを覚える。
例えば、会社や学校で自分が何かミスを犯したとしよう。それ自体は大したことではないかもしれないが、もし自責の念が強いと、普段何とも思わない電車の警笛にも耳がビクビクと怯えるようになる。
赤信号を視覚で捉えれば、待ち時間が少し長いだけでいら立つ。飲食店で頼んだカレーが想像以上に辛かっただけでも、大損した気分になって世界に絶望する時もあるだろう。
そのストレスのすべては、決して自分に向けられたものではないのに。
このように、自分が認識している以上にメンタルは五感すべてで日々のストレスを受け取ってしまっているのだ。何度も言うが、否応なく、そして無慈悲にだ。
この話を社会人になった今考えると、人間はそのストレスたちを無視したり、気づかなかったり、気づかないふりをしたりして通り過ぎているだけなのかもしれないと思う。
ストレス、もしくはストレスの源は世界中に、むしろ空気中にすら散在していて、それを人間が無意識かつ適当に取捨選択しているだけなのだ。
それではここで、無限に降りかかるストレスたちへの対抗手段を教えたいと思う。