ちゃんとやっているのに、どこか満たされない日があります。
手を抜いているわけではない。
ちゃんと仕事もしている。
家のことも回している。
人との約束も守っている。
頼まれたことにも、できる範囲で応えている。
やりがいがないわけでもない。
役に立てたと思える日もある。
それでも、ふとした瞬間に思うことがあります。
「あれ、自分は何に向かって頑張っているんだろう」
頑張っていないわけではない。
でも、頑張ったわりに、自分の中に力が戻ってくる感じが薄い。
働いている。
暮らしている。
役割も果たしている。
なのに、自分の輪郭が少しずつぼやけていく。
毎日の行為から、自分に力を戻してくれる意味が、少しずつ痩せている。
今回は、その見えにくい重さを考えてみたいと思います。
頑張った一日のあとに、少しだけ充実を感じる日があります。
疲れてはいる。
でも、悪くない疲れです。
「あれは自分なりにうまくできた」
「少し難しかったけど、やりきれた」
「こういうことをしている自分は、嫌いじゃない」
そう思える日。
そういう疲れは、ただ消耗した感じとは少し違います。
体は重くても、自分の中に何かが残っている。
大事なのは、行為の量だけではありません。
人は、自分にとって大切な行為を通して、
「自分にもできる」
「これをしている自分は、自分らしい」
という感覚を得ています。
たとえば、料理が得意な人がいます。
手際よく材料を切る。
味を見ながら整える。
冷蔵庫にあるもので、ぱっと一品作る。
「自分はこういうことができる」
「誰かの生活を整えている」
「料理をしている自分は、けっこう自分らしい」
そんな感覚が、そこにある。
人は、自分を能力だけで説明するより、行為で説明する方がしっくりくることがあります。
「手先が器用です」より、「ものを作っているときが自分らしい」
「人と話せます」より、「誰かの話を聞いているときが自分らしい」
それは、行為や役割が、自分らしさを支えているからです。
そして、そこには小さな挑戦と達成があります。
少し難しいけれど、できた。
前よりうまくできた。
誰かに届いた。
自分なりに工夫できた。
この感覚があると、人は内側から支えられます。
逆に、同じ行為でも、そこから「できている感覚」や「自分らしさ」が抜けてしまうと、急に重くなる。
仕事はしている。
家のこともしている。
役割も果たしている。
でも、ただこなしているだけになる。
やっているのに、自分が戻ってこない。
ここに、見えにくいしんどさがあります。