自分にとって意味のある行為は、している最中には意外と気づきにくいものです。
朝、庭に出る。
台所に立つ。
道具を整える。
犬の散歩に行く。
誰かの話を聞く。
本人にとっては、ただの「いつものこと」。
でも、そのいつものことが、その人を支えていることがあります。
作業療法士として働く中で、似た場面を何度も見てきました。
家庭菜園を毎日の生きがいのようにしていた人がいます。
朝になると庭に出る。
土に触れる。
芽を見る。
水をやる。
季節の変化を感じる。
それは、ただ野菜を育てているだけではありませんでした。
今日も庭に出られた。
自分にもまだできる。
誰かに野菜を分けられる。
自分には役割がある。
そういう感覚を、毎日少しずつ受け取っていたのでしょう。
ところが、転んでけがをしたことをきっかけに、家庭菜園をやめてしまう。
危ないから。
無理をしない方がいいから。
家族に心配をかけるから。
理由はどれも正しい。
正しいのだけれど、そこで失われたのは「家庭菜園」という趣味だけではありません。
外に出る理由。
体を動かす機会。
季節に触れる時間。
人に分ける役割。
自分にもできるという感覚。
「私はこういうことをしている人だ」という自分らしさ。
それらが、一緒に失われていくことがあります。
でも、本人はそれを言葉にできません。
ただ、なんとなく元気がない。
外に出るのが面倒になる。
一日が平たくなる。
何かが足りない感じだけが残る。
この「何かが足りない」の正体が、見えにくいのです。
これは高齢者だけの話ではありません。
忙しくなって、走るのをやめる。
家のことで手いっぱいになって、料理を楽しむ時間をやめる。
疲れて、人とゆっくり話すことをやめる。
余裕がなくて、文章を書くことをやめる。
どれも、一見すると「今は仕方ない」ことです。
でも、その中に、自分を支えていた行為が混ざっていることがあります。
人は環境に合わせて変わります。
それは生きるために必要な力です。
ただ、あまりに受け身に変わり続けると、自分らしさを支えていた行為まで、あっさり手放してしまう。
そして、そのあとで残るのは、名前のないモヤモヤです。
だから、しんどいときに見るべきなのは、
「何をやめたか」
だけではありません。
その行為をやめたことで、何を失ったのか。
できる感覚なのか。
自分らしさなのか。
役割なのか。
人とのつながりなのか。
生活のリズムなのか。
そこに気づけると、モヤモヤは少し輪郭を持ちはじめます。