東京ヤクルトスワローズ 髙津流マネジメント2025

髙津監督6年間の軌跡――
リーグ2連覇、日本一を振り返る

――2025年のペナントレースも全日程が終了し、同時に髙津臣吾監督の6年間の監督生活もひとまずの終止符を打つこととなりました。改めて、長い間お疲れさまでした。

髙津 退任報道があってから、多くの記者さんに「あのときはこうでしたね、ああでしたね」って言われることが多くなりました。そう言われると、すごい昔のような感じがして、「ああ、確かにあの頃はこんな気持ちだったな」と思うこともあるし、その一方ではコロナ禍で始まった監督生活も、日本一になったのもついこないだのような感じもするし、場面、場面で感じ方が違うのが不思議な感じがしますね。

――2019年、小川淳司監督の最終年は最下位で終わり、チームの再建を託された上での一軍監督就任となりました。就任時には、どのような再建計画を持っていたのですか?

髙津 監督就任が決まった19年の10月だったかな、天気が悪かったので戸田の室内練習場で、初めてみんなにあいさつをする機会があったんです。「今度、監督になりました、よろしくお願いします」みたいな感じで。そのときは(山田)哲人もいた、ムネ(村上宗隆)もいた、中村(悠平)とか、石川(雅規)も小川(泰弘)も、みんなそろっていました。あのときの選手の表情というのは、今でも忘れられないですね。再建というより何から手を付けて良いのかわからないくらい、チームは沈んでいた。

――どうしてですか?

髙津 目が死んでいた。とにかく暗かった。「この人たち、野球楽しくないんだろうな」と感じるぐらいに暗かった。チーム成績が表情に表れるからなのか、どうしてそんな表情だったのかはわからないけど、せっかく大好きな野球をやっているのに、すごく表情が暗かった。「彼らはどんな気持ちで野球をやってきたんだろう? もしかして野球がきらいになってるんじゃないか?」って思うと同時に、真っ先に「これは大変だな」と思いましたね。まずは「楽しい」とか、「やりがいがある」とか、「負けても明日は頑張ろう」という思いで野球をやらせなきゃいけない、そこを変えなきゃいけない。体はもちろん、心まで疲れていた。そんなことを感じたので、すごく印象に残っています。

――例えば、いわゆる戦術だとか戦略だとか、あるいは技術面であればいろいろ策を講じることはできそうですが、今おっしゃった「暗い気持ちを明るくする」とか、「マインドを変化させる」というのは、とても難しい気がしますが、いかがですか?

髙津 難しいですね。プロ野球チームですから、やっぱり勝てないと、どうしても暗いムードになるのは当然のこと。だけど、勝てなくても元気でいる方法は必ずあると思うんです。いちばんは勝つこと。それが元気の源になるのは間違いない。朝、目覚めたときに「今日も1日頑張ろう」と思うのか、「ああ、今日も試合があるのか」と思うのとでは、1日の過ごし方が絶対違うと思います。負けているときに「前向きになれ」っていうのは難しいかもしれないけど、それでもやっていかなきゃいけないのがプロ野球なので、「せっかく好きな野球を仕事にしているのなら、トップレベルのプロでやっているのなら、やっぱり明るく元気にいこう」というのは、常に意識していましたね。

ご感想はこちら

プロフィール

髙津臣吾
髙津臣吾

1968年広島県生まれ。東京ヤクルトスワローズ監督。広島工業高校卒業後、亜細亜大学に進学。90年ドラフト3位でスワローズに入団。93年ストッパーに転向し、20セーブを挙げチームの日本一に貢献。その後、4度の最優秀救援投手に輝く。2004年シカゴ・ホワイトソックスへ移籍、クローザーを務める。開幕から24試合連続無失点を続け、「ミスターゼロ」のニックネームでファンを熱狂させた。日本プロ野球、メジャーリーグ、韓国プロ野球、台湾プロ野球を経験した初の日本人選手。14年スワローズ一軍投手コーチに就任。15年セ・リーグ優勝。17年に2軍監督に就任、2020年より現職。

著書

明るく楽しく、強いチームをつくるために僕が考えてきたこと

髙津臣吾 /
2021年、20年ぶりの日本一へとチームを導いた東京ヤクルトスワローズ髙津臣吾監...
出版をご希望の方へ