「ロボットを手でプログラムして卓球をプレイさせることはできない。経験から学ばなければならない」
とりわけ重要なのが、ボールに一切の加工をしなかった点だ。これまでの卓球ロボットは回転や速度を抑える加工をしたボールで検証してきた。今回は国際卓球連盟の公式ルールに基づく公認球のみを使用した。これは「制御された理想環境」ではなく、「ありのままの混沌とした現実」を知覚・処理できることの証明にほかならない。Aceは毎秒450ラジアンに達するスピンに対し、75%超の返球率を安定して達成しており、これは過去の競技用卓球ロボットの報告値を大幅に上回る。
卓球の元プロ選手や解説者たちの多くが、Aceのショットを見て「他の誰にも打てないショットだった。可能だとは思っていなかった」と驚愕した。
フィジカルAIをめぐる競争は、卓球台の外でも急速に展開している。
4月19日には北京で開催された人型ロボットハーフマラソン大会で、中国スマートフォン大手オナー(荣耀)の開発した「ライトニング(稲妻)」と名付けられたロボットが50分26秒で完走し、人間の世界記録を7分近く更新した。人間の世界記録はウガンダのジェイコブ・キプリモが2026年3月に樹立した57分20秒だ。2025年の第1回大会の優勝タイムが2時間40分42秒だったことを考えると、人型ロボットの走力はわずか1年で驚異的な水準へ達した。
この急進には、中国のデータ収集戦略が背景にある。中国ではすでにヒューマノイドを出荷している企業が、家庭や工場を模した環境でロボットを人間が遠隔操作してデータ収集を行っており、実世界での大規模なデータ蓄積で優位性を確立しつつある。
ロボット工学の専門家でロボットエンジニアの安達祐輔氏は次のように分析する。
「卓球でもマラソンでも、私たちが見せられているのはデモンストレーションではなく、実用化のための極限テストです。卓球ならば0.02秒以下の知覚・判断・制御のループを、マラソンならば21キロにわたる動的バランス制御を検証できる。この種の実証データの蓄積こそが、次世代の産業ロボットの設計図になる」
従来の生産性概念は「同じことを高速に繰り返す効率」だった。しかしこれからの製造・物流現場で価値を持つのは、「予測不能な変化に即応するアジリティ」だ。
Natureに掲載された論文は、卓球で実証された手法が「製造ロボットやサービスロボットを含む、高速・リアルタイム制御と人間との相互作用を伴う他の領域」に応用可能であることを明示している。
具体的なシナリオを考えてみよう。ベルトコンベアを止めずに不規則な形状の荷物を掴み取る物流ロボット、足場の不安定な環境でバランスを保ちながら高齢者を支える介護ロボット、突発的な路面状況に人間のドライバーより速く対応する車載制御システム。いずれも、Aceが卓球台で培った「高速知覚→瞬時判断→精密制御」のループを基盤技術として応用できる。
技術戦略に詳しいコンサルタントはこう指摘する。
「単体の卓球ロボットが収益を生むかどうかという視点は本質を外しています。ソニーがここで確立しているのは、センサーから強化学習、高速アクチュエーターに至るコア技術のスタック全体です。これが将来の自動車、家電、物流機器すべての底上げに直結するプラットフォームになる。一見非効率に見える研究が、最も高い投資対効果をもたらす典型例です」(戦略コンサルタント・高野輝氏)