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第二部
第六十八話――天使様
しおりを挟むぼやけた視界だ。
重い足取りだ。
これほど薄く吐く息は初めてだ。
息を吸うだけで無表情を保っていられないくらい体の奥がじんと痛む。
今、自分の足元が草地なのか砂地なのかさえも判別がつかないでいる。
壁面の小さな突起でも掴んでいないと、立っていることすらままならない。それでもどうしてか、この体は、魂は、あるところへ向かうのだ。
こんな時、人間は夢に似た映像体験をするらしく、それは走馬灯と言うのだそう。これまで生きて来た中でも、思い入れの強い瞬間が切り取られ並ぶとか。どんな者でも、それは綺麗なものなのだろうか。鮮やかにさんざめく素晴らしきものなのだろうか。それとも、奪われ、踏みにじられ、辛酸を舐めた日々に穢されてしまうこともあるのだろうか。今、僕の脳裏を過るこれらが走馬灯と呼ばれるものなら、僕の生涯は案外、捨てたものでは無かったらしい。
繰り返されるのは、あの天使との日々だ。何度も何度も、印象深い瞬間が、声が、顔が、触れ合いが、僕の死を飾り付けようと懸命なのだ。
でも、これが最後なら、せめて思い出じゃなく、幻じゃなく、夢じゃなく、その手で僕に、触れていて欲しい。
……そういえば、僕はまだ、この世界で彼女の名前を呼んでいなかったな。
* * *
日はまだ高いというのに、どうしてか風の冷たさが身を震わせる。
「アリスさんの命が惜しけりゃさ……君ら死んでくれないか?」
それを言うのは、ユウ・トウミだった。極めて平坦に、感情の吐露を許さない音で、彼はナイフのような言葉をこちらに差し向けた。
「ユウ、なんであんたが、アリスさんを殺さなきゃいけないのよ」
「殺さなきゃいけなくなるのは君ら次第だろ。……いや、やっぱり君らはまだ死ななくていい」
ユウはそう言うと足元に横たわるアリスの首を掴み、持ち上げる。
「今から質問をする。それに君らが答えられなきゃ、これをにぎりつぶす」
ユウの手のひらはアリスの首を易々と握っている。そのまま閉じればその首が粉砕されだろうことは容易に想像がつく。
「ほら、その棍棒も捨てなよ。ちゃんと遠くに投げるんだ」
それはクィルナの隣で嫌に静かな狂人に向けた言葉だった。クィルナはちらと男の方へ視線を向けた。やはり彼は笑っている。というより嗤っている。その口元が動きだすのさえ、気味が悪く思えた。
「僕のアルテミ・ウェポンが怖いのかい。わぁったよ、仕方の無い奴め」
直後、男は全身を振るい、その手に握り締めていた棍棒を遥か彼方へ放り投げた。それが落ちた先は森の奥深くで、二度と見つけられはしないと思えるほどだった。
「さあさあさあ、何でも聞くといいよ! 僕はなぞなぞも大好きなんだぜ!」
「お前はやっぱり、変わらないんだね。気色が悪い」
クィルナは血の気が引いた。吐き捨てるようなユウの言い草に、アリスの首を掴む手が力んだように思えたから。
「ユウの聞きたいことって、なに! そんな酷いことしなくたって答えるわ!」
そうだ。ユウが私と敵対する理由なんて無いじゃない。話し合えばきっと、勘違いしてるんだってわかるはず。
クィルナは一歩前に踏み出した。ユウ、話をしよう、と言いたげに。
「動くなって言ったはずだよクィルナ。アリスさんだけじゃ足りないの?」
そんな返答に、クィルナは返す言葉が見つからない。彼の選んだ道は徹底的な拒絶であった。何がそこまで、彼にその道を歩ませるのか、クィルナは分からない。知りようも無い。
ユウは溜息を一つ吐き、もういい、と言ってアリスを前に突き出した。
「僕の聞きたいことは一つだけだ。――カガラはどこにいる」
「カガラ……って誰?」
ユウの問い掛けに浮かんだのは新たな疑問。そんな名前を聞いた覚えは、まったく無い。
「私は、そんな名前の人知らない! ほら、答えたわ。アリスさんを解放して、ちゃんと話そう!」
もう一歩、前に出るクィルナ。やはり、諦めることはしたくない。まだ分かり合えるはずだ。そう思っていた。だが――。
「――ふざけるな。しらばっくれるのもいい加減にしろよ!」
その答えは怒号。平坦を保たれていた声色は、その表情は、一息にその色を変える。
「ちょっと、待ってよユウ! 私、あんたと喧嘩なんて……!」
「クィルナは黙ってろ! 僕は今、そこのトチ狂った愉悦バカに言ってるんだ! なんとか言ってみろよ……父さん!」
父さん。そう言って憤怒に染まる煮えたぎった瞳で見据えるのは、クィルナの背後でやはり嗤う男だ。
こいつが、ユウの父さん……? 歳もそんな変わらなそうな、こいつがユウの父親……?
理解の及ばない現実に、漏れ出す言葉は一つだった。
「――はああああ!?」
クィルナの間抜けた声がその丘に響き渡る。反響し、薄れるそれに段々と混ざるのは論うような笑い声。
「くくくく……くぁーはっはははは! 言っちゃうんだ! それ言っちゃうんだなあ! こっぱずかしくって言わなかったのになあ!」
「お前は知っているはずだろう! カガラの居場所を! ……いいや、それだけじゃない。フーガの行方だって、お前はぜったいに知っている!」
声を荒らげ、ユウは男を問い詰める。場の空気は重みを増し、肺の中まで張り詰めるような緊迫感をクィルナは感じていた。なのに背後の男は未だ軽い調子で言うのだ。
「ははっ! 知りゃあしないさそんなもの! お前はまだ片思いなんてしてんのかい! いじらしいねえ! かあいいねえ! アルタ――」
その時だった。
嫌な音が、ほんの少し、聞こえた。
「――うそ」
それの出所が分からない、なんてことは無くて、分からない方がおかしいってくらいに明白で、だから私は、遅れて耳を塞いだ。
ユウの手は、強く握られていた。
アリスさんの体が、すとんと落ちた。
アリスさんの首が、転がっていた。
ユウの口がゆっくりと動いている。本当は捲し立てるみたいに早いのに、遅く感じていた。私の後ろでは、耳を塞いでいても分かる程、気の狂った人が騒いでいるらしかった。その地響きがお尻に感じる。そうか。私は今、尻餅を付いたんだ。
周りの状況が緩慢に、しかし確実に変化しようとしている。なのに、不思議と私は落ち着いていた。とくん、とくん、と打つ鼓動を感じていた。
ユウがとても、見たことないくらい怒った表情で、こっちに走って来る。振り上げた拳は、確かに男へ向けられている。
私の後ろで、男はやはりユウに立ち向かうこともせず、笑っている。私の後ろにずっといる。
時間が進んでいる。まったく止まらないでいる。
それでも私は、ただ見つめていた。アリスさんの頭が、ころころと、丘を転がって行くのを。
重なる。
村が焼けた日だ。
ディニの頬が崩れた時だ。
変わらない私だ。
何も救えない私だ。
崩壊を見ているだけの私だ。
残った炎がディニの頬で息づいている。
ふわふわと、消えたく無さそうに仄か照る。
「……」
……アリスさんの頬が、崩れている?
ユウが走る。背後で転がるアリスさんの頭部。その頬は、黄色い炎に包まれていた。光だ。滾る光が、頬から広がり、その頭部を包み込んでしまった。
光は空をほよほよと揺蕩って、輝いて、向かうのだ。今、手を突いて起き上がろうとする、首の無い体へ。
信じられないことだ。光に散らばる頭部。起き上がる首の無い体。それの極めつけは――。
「――翼」
そんな声が漏れた瞬間、その体は瞬く間に消えた。
「ちゃんと見ていて」
男の声。彼が私の腕を掴むおかげで、耳を塞げない。
「テテギャああああ!」
ユウの叫びが聞こえた。
草の根を踏み千切る音。
拳を信じられないほどに握り締める音。
それが空気を切り裂く音。
そして――。
「がはっ――」
途切れるようにして漏れた呻き声だった。ひゅんと吹っ飛び、丘の向こうへ転がるユウ。だけど私は、それを見ていなかった。
だって、目の前にいるのだ。
「あ……」
広げられた白き翼。
自らを照らす光輪。
その姿はまさしく――。
「――天使様」
思わず零れた感慨だった。
小さな頃、どれだけ憧れたかわからない。
どれだけ夢に見たかわからない。
ただ信じていた夢物語が、そこにいた。
背後の男が言う。
「エンジェル・ラダーだっけ。君が言っていたね。天使様が見てるって。実際どうさ、その姿は」
「すごく、きれい……」
直前にだって襲い来る天使を目にしたはずだった。なのに、どうして、これほどまで変わるのだろう。彼らとこの天使様では、一体なにが違ってしまったのだろう。
見惚れていた。天使様が振り返る。その瞳に瞼を重たく乗せて、憂い気な表情で彼女は言った。
「クィルナ……黙っていてごめんなさい」
その声を聴いて、ようやく思い出す。彼女は、殺されたはずのアリスさんだったことを。
「アリス、さん……」
何かを責めたつもりじゃなかった。なのに苦しそうな面持ちで顔を伏せるアリスさんに胸が痛んだ。それをなんとか弁明する暇も無いまま、彼女はまた、丘の向こうから歩いてくるユウの方を向く。そして言った。
「テンラ、ディランは本館と西館にはいません! 礼拝堂へ、クィルナを連れて行って!」
その直後、私の体はテンラと呼ばれた後ろの男にひょいと抱えられ、その場からどんどんと遠ざけられていった。
「ま、まって、アリスさ……!」
呼び掛けに応じることも無く、ユウの方へ歩くアリスさん。
「あいつらを追え! 天使共!」
そして叫ぶユウの声は、やっぱり憎しみの色を帯びていた。
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