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31 羽黒様の風水うんちく
しおりを挟む羽黒が蛍を連れて降り立ったのは、いくつものカジュアルブランドや大型シューズショップが並んでいる3階。先ほど羽黒がメンズフロアを探してフロアガイドを見た時、メンズオンリーのショップは無かった。2階はレディースのショップ、3階にはレディース・メンズと表記されたショップが多く、ならばそこだなと上がってきたのである。
エスカレーターを降りてフロアの床を踏んだ蛍は、広い通路や高い天井、立ち並ぶショップのディスプレイに、やや興奮したように目をキラキラさせて声を弾ませた。
「こういうとこ来るの、中学生の時以来です!」
「そうなの?」
「はい!あ、でもここのモールは初めてです。父さんが亡くなる前までは、3人で大きいショッピングモールや郊外のアウトレットにドライブがてら買い物に行ったりして」
「へえ、楽しそうだね」
「はい、楽しかったです!父さん、車の運転好きだったんですよね」
羽黒の相槌に、蛍は懐かしむように答えた。
蛍は、亡くなった父親との思い出を語る時、明るく楽しそうに話すように努めている。勿論、寂しさや会いたい気持ちだって一緒に思い出してしまうのだが、それで顔を曇らせるのを父は喜ばないと思うから。蛍の記憶の中の父は、いつでもおおらかに笑っている人だった。仕事が立ち行かなくなって前途に暗雲が立ち込めていても、蛍や母の前では笑顔だった。きっと父自身、不安で苦しかっただろうに、そんなのはおくびにも出さず、「大丈夫大丈夫」と少し痩けた頬で笑っていた。
まあ、結果的には心不全で亡くなるわ借金は残るわで、全然大丈夫ではなかったのだが。
それでも父の事を思う時、まっさきに浮かぶのは、あのお日様のような笑顔なのだ。不安も疑念も、全てが消し飛んでしまうようなあの笑顔。
だから蛍は、父の事を明るく話す。そして、そんな蛍の明るさによって、羽黒も故人である父の話を気まずい気分にならずに聞いていられるし、普通に話せるのだった。
「車か...。じゃあほたる君、ドライブは好きって事なのかな?」
「好きです!」
「じゃあ今度は、僕の車に乗ってみる?」
「はい!乗ります!」
会話の流れで何気無く聞いてみたら何のてらいもなく即答されて、微妙に困惑する羽黒。常日頃から思っているのだが、蛍は危機感が無さ過ぎるのでは。これはいかん。
「こら。簡単に男の車に乗っちゃ駄目だろう」
少し呆れたように窘めた羽黒に、蛍はキョトンと首を傾げながら答えた。
「え、でも、羽黒さまの車なんですよね?羽黒さまは安心安全だって、店長が」
「安心安全...林店長が?」
「はい!羽黒さまは紳士だからって!」
何故か得意げに自分の胸をトンッと拳で叩く蛍に、羽黒は複雑な気持ちになった。一昨晩は、自分に対する信頼を植え付けてくれた林店長に感謝していた筈なのに、今はちょっとだけ憎い。男心はデリケート。信頼もされたいけれど、少しくらい意識して欲しいのだ。
だが、蛍が車に同乗する事に難なく同意したのだから、やはり良い仕事をしてくれたと感謝すべきなのだろう。これで次回からは、店から少し離れた場所にあるレストランにだって連れて行ける。
羽黒は次のデート(※同伴です)を想像して、すっかり気を良くする。因みに、自分の車には運転手が居る事を完全に失念していた。
と、その時。
「あ、そういえば!」
羽黒と並んで歩きながらウロウロと目を遊ばせていた蛍が、ハッとしたように羽黒の顔を見た。
「羽黒さまの行きたいお店ってどこですか?」
「え...」
蛍に聞かれて、羽黒もハッと気づく。とにかく急いで服を入手する事に気がいっていて、蛍に目的を告げてなかった事に。
(迂闊だった...)
と思う羽黒。この様子だと蛍は、ただ羽黒の買い物に着いてきたとばかり思っているに違いない。その証拠に、蛍はまたソワソワと辺りを見ながらこう言ったのだ。
「実は俺も見たいものがあって。羽黒さまの行くお店に置いてなかったら、別のお店を見てても良いですか?」
ビンゴだ、と思いつつ、羽黒は笑顔を維持しながら蛍に聞き返した。
「見たいものって、何だい?」
「財布です」
「さ、財布?」
「今使ってるの、これなんですけど...」
蛍は珍しく真面目な顔をしながら、白ダウンの右ポケットから件の財布を抜き出した。黒い2つ折りのジップウォレット、素材はどう見ても安っぽい合皮。デカデカとオレンジ色のクマらしきキャラクター。
今日が初めての店外である羽黒は当然ながらそのクマとも初対面であり、その思い切りの良い大きさと色に嫌でも視線を奪われてしまう。釘付けだ。
そんな羽黒に気づいているのかいないのか、蛍は少し唇を尖らせながら語る。
「これ、中学の入学祝いに買って貰ったものなんです。今でもすっごく気に入ってるし、まだ使えるとは思うんですけど...俺ももう大人だし、ちょっと子供っぽいかなって」
「...ああ、うん。なるほどね...?」
オレンジ色のクマを凝視しながら相槌を打つ羽黒。
このドデカオレンジベアーのウォレットを選んでしまう男子中学生の蛍は、きっととてつもなく純粋で愛らしかったに違いない。
「だから、今度はシンプルで大人な財布を買うんです!お小遣いで買える範囲で!」
鼻息荒く宣言する蛍に、羽黒は自らの間違いを悟った。
(違った。中学生だったからじゃなく、現在進行形で最高に愛らしかった)
可愛い蛍の可愛い目的。是非とも叶えてやりたいが、蛍の服を買うつもりなのに蛍に居てもらわねば、サイズやデザインを選べない。
困った羽黒は、ふとある事を思いついた。
「ほたる君。財布ってね、自分で買うよりも、裕福な人に贈って貰う方が良いらしいよ」
「...えっ?どういう事ですか?」
驚いたように目を丸くして問いかけて来る蛍に、羽黒は言った。
「金運の良い人から財布と一緒に金運を貰うって事らしいよ。風水ではそういう説があるんだって。あとね、2つ折りより長財布が良いって説も」
「ええっ?!だ、だから俺、貧乏だったんですか?!」
「かもしれないね」
いや、事情を聞いた分には蛍の家の困窮に蛍の財布は全く関係無い。しかし羽黒はそこには言及せず、眉を寄せてただ頷いてみせた。羽黒の肯定にショックを受ける蛍。心做しか顔から血の気が引いている。 日頃の鋼メンタルが嘘のよう。
「そうだったんだ...道理で...」
「財布って大事なんだよ。金運の良くない人が自分で買っても、それまでと同じ状況が維持されるだけだろうし」
...などと尤もらしく答えはしたものの、羽黒は風水など信じてはいない。信じていたのは、以前少しだけ付き合ったセフレだ。羽黒の知識は彼女からの聞き齧りに過ぎず、しかも今の今まで忘れていたのを都合良く思い出しただけである。
が、羽黒の言葉を疑わない蛍は、まんまと鵜呑みにしてくれたようだった。
「そんな...どうしたら...」
きっちり途方に暮れて、肩を落とす蛍。羽黒はそんな蛍の肩を抱きながら、慰めるように言った。
「だからね、財布は今度僕が贈ってあげよう」
「!!羽黒さまが?!良いんですか?」
羽黒を見上げた蛍の顔がパッと明るくなる。
確かに羽黒ならば、文句の付けようの無いセレブ。店での金の使い方がそれを証明している。金運なんか溢れるくらい持っていて、人に分けたって痛くも痒くもないだろう。
そんな羽黒に財布を贈って貰えれば、金運バッチリ、将来安泰。蛍は心底ホッとして、羽黒に礼を述べた。
「ありがとうございます!」
「うん、お安い御用。だからね、」
羽黒はにっこり笑い、目の前にあるショップを指差してこう言った。
「今日のところは、ほたる君の普段着の服を買おうか」
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