あやめ祭り~再び逢うことが叶うなら~

柿崎まつる

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第二章

31.べっ甲(2)

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「あら? そこにいるのは恵嬪と丁内侍じゃないの? 噂どおり仲の良いこと」

 闖入者の声に振り返れば、艶やかな衣を着たワン貴妃。三人目の正室だ。歳は賢宝シアンバオの二つ上。溪蓀シースンと同じような没落貴族だが、妃には珍しい勝気で派手好きな性格で後宮では幅を利かせている。

――噂? なんのこと?

 疑問に思いながらも、溪蓀シースンは外向きの笑顔を作った。

「おはようございます、ワン貴妃様。散策ですか? 良いお天気ですね」
「丁度良かったわ。今日はこれを差し上げたくて、捜していたの」
「え? はい?」
「是非お二人で使ってみて」

 突然渡された漆塗りの箱を開けると、べっ甲の置物らしきものが現れた。溪蓀シースンの手首ほどもある細長い形状で少し湾曲し、先端はつるりと丸まっている。その先端がまた奇妙な形だった。くさびらの傘のように下に広がりを見せ、中央には縦に一本線が入っていた。

――残念だけど、ワン貴妃様のセンスがいいとはお世辞にも言えないわね。これは、文鎮かしら? それにしては、安定感がないわね。どうやって、ディン内侍と使えと言うのかしら? わたしには見当もつかないわ。とにかく、変な贈り物ね。
 
 言葉もなく、まじまじと箱の中身を凝視する溪蓀シースン。次第にワン貴妃や配下の女官たちの忍び笑いが大きくなっていく。不穏な空気を感じたのか、護衛官は箱の中身を一目見るや、強引にも取り上げた。その憤りを増した顔にビックリした溪蓀シースンだ。

ディン内侍!?」
「こんなもの、黄恵嬪ホワンけいひん様のお目に触れてはなりません!」

 途端、ワン貴妃たちから弾けるような笑い声が聞こえた。

「こんなものだなんて、ひどいわぁ」
ワン貴妃様はお人が悪いですぅ。純真無垢な側室様には刺激が強うございますよぉ」
ディン内侍、どうなさったのです? それが何か……」

 彼は厳しい表情を浮かべるだけで、溪蓀シースンの問いには答えない。ワン貴妃は扇子で口許を隠して高らかな声を上げた。

「笑わせてくれるわねぇ、本当に何も知らない天然なのねぇ。歳は一番上なのに。それは女官と宦官が戯れに使うのよん。わたくしの女官が格下の女官から没収したらしいから、お二人に差し上げるわよぉ。普通は木製で良いところ瑪瑙、べっ甲は一番高いのよぉ」

 そこまで言われてもピンとこない溪蓀シースンの隣で、ディン内侍は屈辱に唇を震わせている。冷静沈着な護衛官を怒らせるならよほどの内容なのか。貴妃の後ろに控える女官がそれに気が付き、さすがに主をたしなめた。

ワン貴妃様ぁ、それ以上はぁ……」
「あら、怖いわねぇ。そんなに怒らないでよぉ、ディン内侍。ところで、ホワン恵嬪。もとは貴族の令嬢なのに、田舎者の宮女に仕えて恥ずかしくないのぉ。陛下の寵はあきらめて、次は寵姫の番犬を気取る気? あら? カミツキガメだったかしらん?」

 厄介な贈り物が何かは未だに分からなかったが、その物言いには溪蓀シースンも苛立ちを感じた。自分より高位の相手ゆえ感情を荒げる訳にもいかないが、かといってにこにこと笑っている場合ではない。
 そのとき、女官を始めとし、幾人かの宮女を従えた一団が現れた。先頭には小柄な少女がきりっとした面立ちで立っていた。体調はもういいのだろうか。

「チェン……」
ワン貴妃様!」
「な、なによぉ……」

 まるで小型犬が威嚇するようなさまだが、勢いよく名前を呼ばれたワン貴妃は既に弱腰だった。

「今の言葉、取り消してください! あまりにもお二人に失礼です! ディン内侍は陛下のことを第一に考えて、陛下もこの方を大切に思っています! 恵嬪様はわたしの大事な親友です!」
 
 そして、千花チエンファは護衛官から箱を受け取ると、さも忌々しげに蓋を閉めた。そのまま、ワン貴妃につき返す。

「こんなもの、お返しします! ご自分でお使いください!」
「なによぉ、この田舎娘ぇ。いつまでも自分の天下だと思わないでよぉ」

 ワン貴妃はきぃーと歯噛みすると、不貞腐れたようにその場を離れていった。なんだか分からないが、不愉快な王《ワン》貴妃は追い払われたのだ。

「ありがとう、千花チエンファ。体調はもう大丈夫なの?」
「大切な人が悪く言われているのに、いつまでも寝ているわけにはいきません。お二人が悪く言われるのは、わたしのせいです。溪蓀シースン様にあんなものを見せて、汚らわしい! ワン貴妃様は文句があるなら、わたしに直接言えばいいんです!」

 それは無理な話だろう。千花チエンファは今や、賢宝シアンバオの唯一無二の寵姫だ。不用意にケンカを売り皇帝に告げ口されたら、どんな目に遭わされるか。もっとも、忙しい賢宝シアンバオに言いつけるような千花チエンファではないが。

――それにしても。

 ぷうぷう頬を膨らませている少女を伺う。千花チエンファは、少しずつ強くなっている。守るはずが守られて、何やら面映ゆくなる溪蓀シースンだった。
 そのとき、ふと視線を感じて首を巡らすと、東屋から若い娘の顔が見えた。着飾った装いのなかで埋もれるように、幼く地味めの顏が覗いていた。

――あれは、シェ皇后様?

 歳が賢宝シアンバオと近いこと、多産の家系であることを買われ皇后に就いたが、もとは金物屋の看板娘だった。派手で勝気なワン貴妃ほど目立たず、もめごとを嫌う大人しい性格だったはず。

――あの瞳、まるで鬼のようだわ。
 
 皇后は、千花チエンファを射殺しそうな顔で見ていたのだ。
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