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第二章

47.月下の英明宮(2)

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 そのとき、睡眠導入剤を処方されたはずの彼女の口が、少しだけ開いた。 

「……浩海ハオハイさん」

 四年振りに聞く恋人の声は、熱でひどくかすれている。ハッとなった浩海ハオハイは、前のめりになった。

「僕はここにいるよ」

 白魚の手をにぎれば、彼女のまぶたがゆっくりと持ちあがった。真っすぐな瞳は浩海ハオハイを認めるや、みるみるうちに涙がこぼれる。浩海ハオハイは、目頭が熱くなった。

「……ずっと、待っていたのよ」
溪蓀シースン

 彼女に会いたくて会いたくて、それだけを一心に突き進んできた四年間だった。それが、彼女の言葉一つであっけなく報われてしまう。

「ごめんね。君にふさわしい男になるのに、四年もかかってしまった」
「ひどいわ。……わたし、もう二十二よ」
「歳をかさねた分、美しさに深みが増したよ」

 溪蓀シースンはくすっと笑った。

「変なことを言う人ね。許してあげるから、……もう離れないで」

 愛しさがつのり、彼女の手を包みこんだ。爪の形まで美しい指は、熱のせいで温かい。このまま、彼女をさらっていけたらいいのに。しかし、浩海ハオハイはその気持ちをふり払った。

「僕、いつまでもここにはいられないんだ。明日の朝には順貞門をくぐらないと、ほんものの宦官にされてしまうよ」

 彼女は目をおおきくして、彼の着物をまじまじと見た。

浩海ハオハイさんが宦官だったら、いつも一緒にいられるわ」
「僕はいやだよ。君を抱けないじゃないか」
「だっ……抱く? いやらしいこと、言わないで」

 横をむいて口をとがらせる彼女に、浩海ハオハイは苦笑した。せっかく娶っても『宦官の妻』では、彼女に恥をかかせてしまう。彼は万全の態勢で迎え、彼女の知らない歓びを教えたかった。

「君ははやく身体をなおして、僕が迎えにいくのを待っていて」
「いやよ。せっかく逢えたのに。……朝なんて、ずっとこなければいいんだわ」
「僕もそう思うよ」

 記憶にある彼女よりも今の彼女が素直なのは、熱で意識がもうろうとしているせいだろうか。予想以上に熱烈な言葉を受け、浩海ハオハイは嬉しくて涙が落ちそうだった。

「あなたが好き……」

 彼女はしゃべりつかれたのか、ふっと意識を遠のかせる。一時的に目を開いただけで、全快までにはまだ時間が掛かるだろう。なにせ、死んでもおかしくない毒を口にしたのだから。

「僕の方がもっと君のこと好きだよ」

 浩海ハオハイは言いながら、彼女の手を布団のなかに仕舞った。
 千花チェンファが命懸けの懇願をしたおかげで、溪蓀シースンに逢うことが叶った。後見人でも家族でもない男が、妃にまみえることは出来ない。また、男性は他の宮の妃と顔を合わせることがないように、内宮の入り口にある面会所でしか会うことができず、今回のことが如何に特別な措置であったことが分かる。千花チェンファには感謝のしようもなかった。
 自分に近しい者二人が、実は互いに思いやる仲だと知って、さぞ仰天しただろう。次に会うときは、きっと彼女は自分をからかうに違いない。
 笑ってその日を迎えられるよう、浩海ハオハイは先に憂いを払わねばならなかった。

 今回の黒幕に、目星はついていた。シェ皇后の後見役だが、千花チェンファへの皇帝の寵愛が高まるにつれ、兄の勇景海ヨンジンハイに近づいてきた。ヤオ家の当主。

――溪蓀シースンを傷つけた報いは必ず受けてもらう。

 やがて外が白み始め、蝋燭の炎が落ちる。浩海ハオハイは最後に彼女の髪をかき上げて、口づけした。
 鳥のさえずりが聞こえ、日の光に照らされる恋人の美しさに息を呑むころ、外からディン内侍の高い声が聞こえてきた。

ヨン官吏殿、時間です」

※※※※※

「……鶯菜インツァイさん! 溪蓀シースン様が目をあけました!」

 目が覚めて、まず千花チェンファの泣き顔が見えた。溪蓀シースンは反射的に体を起こそうとしたものの、鉛のように重かった。女官があわてて近寄ってくる。

「ああ、そのままでいてください。ほんとうに命があってようございました」
「わたし、毒をのんで……」
「そうですよ、たいへんな無茶をなさいました」

 見れば、宮女や医女たちも女官の言葉にうなずいている。その様子に、彼女は自分が起こした騒動の大きさに気がついたのだ。

「ごめんなさい。みんなに迷惑をかけたわね。ほんとうに、馬鹿なことをしたわ」
「まったく肝が潰れる思いでした。お仕えするあるじが服毒自殺なんて、冗談にもなりませんよ」
 
 女官の、言葉の割に憔悴しょうすいした顔に、溪蓀シースンは居たたまれない気持ちになった。僅かに口に入った黄色い粉が猛毒で、もう少し量が多ければ確実に死んでいたと言われ、ぞっとする。それから、医女や宮女たちにも何度も謝意を示した。自分を英明宮に運んでくれた、ディン内侍にもお礼を言いたい。
 
 医女の診察を受け、まだ数日は休んでいるように言われる。たしかに身体は気怠く、熱っぽさがぬけない。医女たちは仕事に戻り、二人の宮女は溪蓀シースンの食べられそうなものを運んでくると言って出て行った。女官は、皇太后の許へ早速報告にあがるという。外廷にいる賢宝シアンバオにも報告を入れるそうだ。溪蓀シースンが動けるようになったら、ほうぼうへお礼参りに出かけなければならない。

 昼日中まで眠りに着いていたとみえ、暖かな日差しが寝台のうえに差していた。寝室には千花チェンファ一人が残され、彼女のお付きの者は別室で待機していることだろう。
 彼女は、小さな身体を丸めて泣いていた。まるで幼子のようだった。

「千花《チェンファ》、びっくりさせてごめんなさい。もう大丈夫だから、あんまり泣かないで」
「ごめんなさい。涙をおさめたいのに、おさまらなくなって……。溪蓀シースン様がこのまま儚くなってしまわれたら、わたしは藍珠ランジュにどんな顔を向けていいのやら、わかりません」

 藍珠ランジュはともかく、お兄様が誰のことを指すのかよく考えなかった。ただ、溪蓀シースンはさめざめと涙を流す千花チェンファの手を握り、自分の気持ちをそっとささやいたのだ。

「夢のなかで、あの人に会えたわ」
「夢のなか、ですか?」
「そうよ。だってどう考えても現実に起こるはずがないもの。もし、現実だったら私は運を使い果たして、明日には本当に死んでしまうわ」

 千花チェンファが怪訝な表情を浮かべたが、天蓋をみあげる溪蓀シースンは気がつかない。夢見ごこちにこの世の幸福を語り始めた。

「待っていろって言ったのよ、いつか必ず会えるから。夢のなかで、内侍の服を着ていたわ。わたし、あの人が相手なら宦官の妻でもいいわ。李家のおうちから養子をもらって、その子が寂しい思いをしないように孤児をたくさん引き取るの。きっと、家の中はにぎやかね。あの人が毎晩帰ってきたら、あなたは何をしていたとか、陛下はお元気そうだったとか、そういう話をしてみんなで食卓を囲むのよ」
「……溪蓀シースン様」
「人さまには迷惑をかけたし、女官が聞いたら卒倒するかもしれないけれど、たとえ夢のなかでも、あの人と話ができて良かったわ」
「……でも、溪蓀シースン様が毒をのまれたのが、わたしのせいであることは変わりません」

 何故かさらに落ちこむ千花チェンファに、彼女はゆるく首を振った。

「そうじゃないわ。確かに、貴妃様はあなたを傷つけようとしていたけれど、真犯人の標的はもともとわたしなのよ」 
「え?」
「だから、千花チェンファは気に病まないで」

 千花チェンファは、まじまじと溪蓀シースンを見返した。
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