上 下
19 / 53

第19話   2つの世界

しおりを挟む
イルシェプと距離を取らなければは遮断をされる。
しかし、それはアナベルに苦痛でしかなかった。

聞こえても苦痛。聞こえなくても苦痛。
ワガママと言われても、それまで聴こえていた何気ない音も遮断をされるのである。

ドアを開ける音も、枝に止まる鳥の鳴き声も、マシャリがアナベルに掛ける声も全てが遮断された静寂しかない世界。唯一聞こえるのはイルシェプが話しかける声。

イルシェプは鍛錬を積んでいるようで、イルシェプの心の音である声は聞こえない。

突然見えなくなるのも、喋れなくなるのも辛いが、聞こえなくなるのは恐ろしくもあった。


しかし、ならばと魔法を解いて貰うと、先程までの静寂が嘘のように爆音の中にアナベルは置かれる。イルシェプが言うには半径5キロ圏内にいる人々の「心の声」が重なり合って聞こえてくるのだという。

音量は決して小さくはない。聞き取ろうにも数百人の言葉が重なれば騒音でしかなかった。


苦しみはアナベルにしか判らない。
カトゥル侯爵夫妻もアナベルとの会話が「筆談」となってその辛さの片鱗を感じた。

「音のない世界か、騒音の世界か。そんな選択しかできないんですか?!」

究極の2択とも言える。

しかも何も聞こえないのはイルシェプが近くにいる時だけなので行動にも制限がかかる。実際に聞こえている音なら対処の方法はあるが、そうのではないのが難点。

医師に診てもらったところで聴力には問題はない。
常に大音量の騒音で精神が破壊される事の方が問題。治療のしようがないのだ。

リカルドを失った悲しみに寄り添う事無く執務を急かすルーシュは「仮病」だと言ってアナベルを気遣う事も無く今まで通りに執務をさせるだろう。

病気で聞こえなくなったわけでもないので世界中の医師に見せても「異常はない」と言われるだろうとカトゥル侯爵家は重い空気がたちこめた。





「確実とは言えないが、強い魔力があって私と同じ遮断をする魔力のある者の近くなら、聞きたくもないは聞かずに生活出来るかも知れない。すまない。こればかりは私もはっきりとは言えないが、今、完全に音を塞げているのだから可能性がないわけではないだろう・・・程度なんだ」

「判ります。気を使って頂いて・・・ですが私は――」


アナベルはマジルカ王国には行きませんと言うつもりだった。
もれなくついてくるであろうルーシュ。
迷惑はかけられない。


「言っておくが、来るのはアナベル嬢とそうだな・・・従者が1人、2人が限界かな」
「そうなんですか?」
「私は転移という遠く離れた場所から場所に移動できる力があるが、持ってきたものは持ち帰らねばならないだろう?移動できる容量にも限界がある。そう言えば解るかな?」

――でも、その1人2人にルーシュが・・・――

口にしなかった言葉もイルシェプには筒抜け。
イルシェプは「人選はカトゥル侯爵にしてもらう」と言った。

アナベルはその言葉に、表情が緩んでしまう。
父が選ぶなら絶対にルーシュもエレナ夫人も選ばれる事は無い安心感から張り詰めた気持ちの糸も弛んだのだ。

ルーシュと離れていられる。それは暴力を当たり前だとも思っている思考を持っていると判った以上、近くにいたくないという防御反応でもあった。


「アナベル嬢の中で行くか行かないか。答えは出たね?」
「はい」
「まかり間違ってカトゥル侯爵が選んでも私がから安心していいよ」
「ぷっ!殿下、それは」


アナベルは「置いていく」と真顔で言うイルシェプが可笑しくて噴き出してしまった。イルシェプも「やっと笑えたね」とアナベルの頭を大きな手でポンポンと撫でた。

「頑張るのは良い事だが、頑張り過ぎは良くない。5年も1人でよく頑張ったね。それから、マジルカオオカミのリカルド。最期を看取ってくれてありがとう。君から聞き取る話でマジルカ王国でも保護した時には適した対応がとれるようになると思う。なんせ・・・ほとんど生態は判っていなくてね」

「だとすれば、侍女のマシャリとマシャリの夫のボーンからもお願いします。私以上に2人がリカルドに寄り添ってくれたんです」

「ホントに?!うっわぁ・・・実は人に懐くって事かぁ」

イルシェプはアナベル以外もリカルドの世話が出来た人間がいる事実に再度衝撃を受けた。

「いえ、他の使用人さんには余り・・・でもマシャリとボーンにはリカルドから寄って行ったんです」
「それは興味深い。是非その2人にも話を聞きたい。いやぁここに妃がいれば飛び上がって喜んだだろうに」


イルシェプには妃がいる。
マジルカ王国の王族はそれぞれが何かを研究していて、イルシェプはそれが農作物。農作物の中でも果実が専門。イルシェプの妃、大公妃は動物の行動認証が専門だった。

腹が減っているだろうに目の前の小動物を捕獲しないのは何故か。
人間のようにそれぞれを別人のように認識しているのか。
家族の誰かひとりにはどんなに世話をしても懐かないのは何故かなど。

もう40代も目前のイルシェプは少年のように目を輝かせて喜んだ。
そんなイルシェプを目の前にして、ルーシュと離れられる事で安堵を覚えたアナベルの心の中にはもう1つ。温かな希望の光が芽生えた。


「悪いようにはしない。音がないのは今は不安だろうけれど――」
「楽しんでみます」
「楽しむ?」

何も聞こえない世界を楽しむというアナベルにイルシェプは首を傾げたが、アナベルは胸に手を当て、目を閉じると感じる気がした。

何を感じるのか。

リカルドの存在だった。

名前の通り魔力も持つマジルカオオカミ。何にでも擬態をするのだ。
もしかすると心の中にリカルドが擬態をしたのかも知れない。

それが出来るかどうかはアナベルには判らないし、そんな気がするだけ、そう思い込もうとしているだけかも知れない。

獣が心に住み着くなんて気持ち悪いと感じる者もいるかも知れないが、魔力がリカルドによって齎されたのならそれはリカルドからの贈り物。

アナベルはいつもそばにリカルドがいるのなら、楽しもう!そう思った。

「はい。この力がリカルドからの贈り物かも知れないと思うと・・・一緒に庭を走った時のように楽しめるんじゃないかと思うんです」

「前向きな気持ちは良い事だ。制御できるようになるきっかけにもなる。なんでもやってみようという気持ちが何よりも大切だからね」


イルシェプは「ではご両親と話をするから」とアナベルに一旦部屋に戻るようにと告げた。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

妹ばかり見ている婚約者はもういりません

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:56,066pt お気に入り:6,797

婚約破棄していただき、誠にありがとうございます!

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:6,690pt お気に入り:1,989

悪女アフロディーテには秘密がある

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:28pt お気に入り:53

なんでも奪っていく妹とテセウスの船

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:191pt お気に入り:172

妹が私の婚約者も立場も欲しいらしいので、全てあげようと思います

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:9,670pt お気に入り:4,058

【完結】推しに命を奪われる運命だと!?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:191pt お気に入り:646

死ぬまでにやりたいこと~浮気夫とすれ違う愛~

恋愛 / 完結 24h.ポイント:2,229pt お気に入り:6,640

貴方は好きになさればよろしいのです。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,100pt お気に入り:2,833

処理中です...