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同心勝田与四郎
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「逃げた! 言葉がわかってるみてえじゃねえか、やっぱり化け猫だ。追うぞ」
庄吉と六もゆみを追って走り出した。
だが、猫の全速力は到底人間が追い付けるものではない。
ゆみはあっと言う間に二人を引き離すと道を右に折れて松坂町に入り、立てかけてあった大八車を見つけると、その陰で元の姿に戻った。
庄吉と六が遅れて松坂町に来た時には、ゆみは煮売り屋や一膳飯屋を覗いて回り、この町の住人のふりをしていた。
「いねえな。ここに入ったのは見かけたんだが」
庄吉はきょろきょろしながら歩く。
「人間に化けたのかも。ばばあを探そう」
「ばばあか……見当たらねえな。もっと先へ行ったのかもしれん」
と、二人はゆみの後ろを通り過ぎて、またその先へ走って行った。
老婆に化ける猫、と話が間違って伝わっていたのが幸いした。
――ああ、びっくりした。
ゆみは胸を撫で下ろすと、松坂町の通りを引き返して角を左に曲がったのだが、そこで同様に向こうから曲がって来た人にぶつかってしまった。
「や、これはすまぬ」
相手は羽織袴姿の武士だった。
「いてて……いえ、こちらこそごめんなさい」
ゆみは鼻を押さえながら頭を下げた。
「大事ないか?」
武士は、相手が子供でしかも女子だとわかると、慌てたように提げていた提灯を上げてゆみの顔を見たのだが、
「あ……」
と、驚きの声を上げた。
それを聞いて顔を上げたゆみも、武士の顔を見て「えっ」と驚いた。
「お前まさかあの時の……」
その武士は、龍之介の友人でもあるのだが、ゆみを番屋で取り調べようとして逃がしてしまった奉行所の同心、勝田与四郎であった。
「うわあっ」
ゆみは仰天すると、背を翻して駆け出した。
「やはり化け猫娘か! 待てっ、今度は逃がさんぞ!」
同心勝田与四郎は慌てて後を追いかけた。
ゆみは逃げながら夜空を見上げた。月は黒雲に隠されていた。
――お月様がいない!
ゆみは天を恨みながら走り、相生町を抜けて堅川の河岸を左へ曲がった。
懸命に走ったが所詮は子供と大人、ゆみと与四郎の距離はぐんぐんと詰まる。
そしてついに与四郎の手がゆみの背に届きそうになった。
―ーおじさん……父上!
ゆみが心中で龍之介に助けを求めた時、何の奇跡かその願いが通じた。
「お、ゆみか?」
ちょうど、二ツ目の橋を渡って曲がって帰って来た龍之介に出くわしたのだった。
「あ、父上、助けてっ!」
ゆみは龍之介を見ると驚喜しながら胸に飛び込み、龍之介の背中に隠れた。
「父上? 化け猫は親子だったか。こうなりゃまとめて斬り捨ててやる」
与四郎は提灯を捨てると素早く抜刀して上段に構えた。それを見た龍之介は、
――同じ直心影流か?
と、抜刀はしないものの鯉口を切りつつ、後ろのゆみに訊いた。
「何があった?」
「あれだよ、あの人! 私を捕まえようとした父上のお友達の!」
「何っ? 与四郎か?」
龍之介は驚きの声を上げた。
「うん?」
それに反応した与四郎も一歩近づいて目を凝らすと、驚いて刀を下げた。
「龍じゃないか。どういうことだ?」
「与四郎……何から話せばいいか……とりあえず剣を納めてくれ」
龍之介は右手を下げる仕草をしたが、与四郎は刀を納めず、
「そうはいかん。そいつは化け猫だ。俺はこの目ではっきりとそいつが猫に変化したのを見たのだ……って、いや待て、お前たちはどういう関係だ?」
「こいつは俺の親戚で松永町の秋野屋の娘だ。ちょっと色々あって昨日から面倒見てる」
「ああ、そう言えば火事で燃え崩れた神田の商家の娘だとか言ってたな」
「そう、こいつは奇跡的に生き残ったんだが、その時にどう言うわけか猫に変化できるようになっちまったんだ」
「結局化け猫ではないか。江戸の治安に関わる、さあ渡せ」
「待てよ、確かに化け猫だ。だけど化け猫だからって捕まえる必要あるか? こいつは何も悪さしてねえぞ」
龍之介が正論を言うと与四郎は一瞬黙ったが、すぐにゆみに対して、
「娘、天ぷらは好きか?」
「天ぷら? 大好きだけど」
ゆみは龍之介の背から顔だけ覗かせながら答えた。
「そうか。十日ほど前のことだったか。柳橋のたもとにある天ぷら屋台で、白猫が客二人の天ぷらを盗み食いしたと知らせがあった。白猫は屋台の側で寝ていたのだが、客二人が串を持ったまま話し始めた隙に、器用に飛び上がって天ぷらを盗み食いしたらしい」
龍之介がゆみを振り返ると、ゆみは気まずそうに目を泳がせた。
「そんなこと普通の猫に出来るわけがない。貴様の仕業で間違いないだろう」
与四郎が剣の切っ先を向けると、龍之介は呆れ混じりに怒った。
「て、てめえ! だから泥棒は駄目だと言ったんだ。と言うか、昨日は天ぷら久しぶりとか言って嘘つきやがったな!」
「えっと……シロの時はうまく考えられないんだもん……それに、その一回だけだよ!」
与四郎はふっと笑ったが真面目な顔で、
「一度だけだろうが盗みは盗み。しかも化け猫娘の仕業なんて、江戸を守る我々としては放っておけんのだ。龍、邪魔をせずにそいつを引き渡せ」
「待て。その前に、秋野屋の件がただの火事じゃなくて押し込み放火だってのは聞いてるのか?」
「何だと?」
与四郎は驚いた。
「やはり知らなかったか。言わなかったのか?」
龍之介はゆみをちらりと見た。
「恐かったし逃げることばかり考えてたから言うの忘れてた。おばさんたちもわたしが化け物だ、としか言ってなかったし」
「だろうな」
龍之介は再び与四郎に向き合うと、
「こいつは二階に隠れてた時にはっきり聞いてたんだ。盗賊どもがいきなり押し入って来て家族や小僧らを皆殺しにし、金を奪った上に証拠隠滅の為に放火したらしい」
「本当か?」
与四郎が一歩前に進むと、ゆみが再び顔だけ出して、
「本当だよ。一人は親分って呼ばれてて、その親分はもう一人をロク、って呼んでた」
「ふうむ……」
与四郎はまだ刀を納めようとはしなかったが、ゆみを見る目を変えて何か考え始めた。
「だけどお前ら奉行所はただの火事として片付けちまった。こいつがそれは違うと訴えたくとも、おめえらはこいつを化け物扱いして狙ってるからそれもできねえ。だからこいつは一人で家族の仇を討とうとしてるんだ、健気じゃねえか……」
龍之介は芝居がかった言い方をして見せた。
「かわいそうだろう、見逃してやれよ。そして、まずは秋野屋の件をもう一度調べてくれ。何なら俺も協力する」
「うむ、誠ならば確かに憐れであるし、とんでもない事件だ」
「だろう」
「盗賊絡みならば、まずお前の兄に言うのが最も早いのではないか?」
「……言えるわけねえだろ」
龍之介はため息をついた。
彼の実家、本庄家は先手筒組であり、家督を継いでいる長兄は現在、火付盗賊改方の与力を務めている。
この火付盗賊改方と言うのは、凶悪な盗賊団などを武力で取り締まることに特化した特殊軍事組織であり、町奉行では対応できない武装盗賊団などを取り締まる際に出動していた。
従って、秋野屋の件はどちらかと言えば火付盗賊改が扱う事件であり、その与力を務めている龍之介の実兄に言うのが一番早いのだが、勘当されているので言えるわけがない。
「ああ、そうだったな」
与四郎もすぐに事情を思い出して苦笑したが、
「まあ、火盗改に手柄を取られるのも気に入らんので上には報告しておく。だが、それと化け猫は別だ」
「この石頭が……」
龍之介は舌打ちして友人を睨んだが、その時、夜空にわずかな光があるのに気付いた。
「ゆみ、月が見えて来たぞ!」
「あっ、わかった」
ゆみは龍之介の背中から離れると、猫に化けて夜道を走った。
「あっ、逃げるな化け猫!」
与四郎が追いかけようとしたが、その胸先に龍之介の剣の切っ先が伸びた。
「龍、貴様……」
「悪いが見逃してくれ」
「…………」
「友として頼む」
「龍、俺とお前は親友だ。だが俺は奉行所の同心としてあの化け猫は放っておくわけにはいかん。そして、それを邪魔して俺に剣を向けると言うのなら、お前も捕えねばならんぞ」
与四郎は苦渋の顔となった。
「仕方ねえ」
龍之介は真顔になって三歩飛び下がると、剣を上段に構えた。
「本気か? お前もお尋ね者になるぞ」
与四郎も剣を構え直した。
「おいおい、俺の渾名ははぐれ龍だぜ。今更気にしねえ」
龍之介は皮肉そうに笑った。
庄吉と六もゆみを追って走り出した。
だが、猫の全速力は到底人間が追い付けるものではない。
ゆみはあっと言う間に二人を引き離すと道を右に折れて松坂町に入り、立てかけてあった大八車を見つけると、その陰で元の姿に戻った。
庄吉と六が遅れて松坂町に来た時には、ゆみは煮売り屋や一膳飯屋を覗いて回り、この町の住人のふりをしていた。
「いねえな。ここに入ったのは見かけたんだが」
庄吉はきょろきょろしながら歩く。
「人間に化けたのかも。ばばあを探そう」
「ばばあか……見当たらねえな。もっと先へ行ったのかもしれん」
と、二人はゆみの後ろを通り過ぎて、またその先へ走って行った。
老婆に化ける猫、と話が間違って伝わっていたのが幸いした。
――ああ、びっくりした。
ゆみは胸を撫で下ろすと、松坂町の通りを引き返して角を左に曲がったのだが、そこで同様に向こうから曲がって来た人にぶつかってしまった。
「や、これはすまぬ」
相手は羽織袴姿の武士だった。
「いてて……いえ、こちらこそごめんなさい」
ゆみは鼻を押さえながら頭を下げた。
「大事ないか?」
武士は、相手が子供でしかも女子だとわかると、慌てたように提げていた提灯を上げてゆみの顔を見たのだが、
「あ……」
と、驚きの声を上げた。
それを聞いて顔を上げたゆみも、武士の顔を見て「えっ」と驚いた。
「お前まさかあの時の……」
その武士は、龍之介の友人でもあるのだが、ゆみを番屋で取り調べようとして逃がしてしまった奉行所の同心、勝田与四郎であった。
「うわあっ」
ゆみは仰天すると、背を翻して駆け出した。
「やはり化け猫娘か! 待てっ、今度は逃がさんぞ!」
同心勝田与四郎は慌てて後を追いかけた。
ゆみは逃げながら夜空を見上げた。月は黒雲に隠されていた。
――お月様がいない!
ゆみは天を恨みながら走り、相生町を抜けて堅川の河岸を左へ曲がった。
懸命に走ったが所詮は子供と大人、ゆみと与四郎の距離はぐんぐんと詰まる。
そしてついに与四郎の手がゆみの背に届きそうになった。
―ーおじさん……父上!
ゆみが心中で龍之介に助けを求めた時、何の奇跡かその願いが通じた。
「お、ゆみか?」
ちょうど、二ツ目の橋を渡って曲がって帰って来た龍之介に出くわしたのだった。
「あ、父上、助けてっ!」
ゆみは龍之介を見ると驚喜しながら胸に飛び込み、龍之介の背中に隠れた。
「父上? 化け猫は親子だったか。こうなりゃまとめて斬り捨ててやる」
与四郎は提灯を捨てると素早く抜刀して上段に構えた。それを見た龍之介は、
――同じ直心影流か?
と、抜刀はしないものの鯉口を切りつつ、後ろのゆみに訊いた。
「何があった?」
「あれだよ、あの人! 私を捕まえようとした父上のお友達の!」
「何っ? 与四郎か?」
龍之介は驚きの声を上げた。
「うん?」
それに反応した与四郎も一歩近づいて目を凝らすと、驚いて刀を下げた。
「龍じゃないか。どういうことだ?」
「与四郎……何から話せばいいか……とりあえず剣を納めてくれ」
龍之介は右手を下げる仕草をしたが、与四郎は刀を納めず、
「そうはいかん。そいつは化け猫だ。俺はこの目ではっきりとそいつが猫に変化したのを見たのだ……って、いや待て、お前たちはどういう関係だ?」
「こいつは俺の親戚で松永町の秋野屋の娘だ。ちょっと色々あって昨日から面倒見てる」
「ああ、そう言えば火事で燃え崩れた神田の商家の娘だとか言ってたな」
「そう、こいつは奇跡的に生き残ったんだが、その時にどう言うわけか猫に変化できるようになっちまったんだ」
「結局化け猫ではないか。江戸の治安に関わる、さあ渡せ」
「待てよ、確かに化け猫だ。だけど化け猫だからって捕まえる必要あるか? こいつは何も悪さしてねえぞ」
龍之介が正論を言うと与四郎は一瞬黙ったが、すぐにゆみに対して、
「娘、天ぷらは好きか?」
「天ぷら? 大好きだけど」
ゆみは龍之介の背から顔だけ覗かせながら答えた。
「そうか。十日ほど前のことだったか。柳橋のたもとにある天ぷら屋台で、白猫が客二人の天ぷらを盗み食いしたと知らせがあった。白猫は屋台の側で寝ていたのだが、客二人が串を持ったまま話し始めた隙に、器用に飛び上がって天ぷらを盗み食いしたらしい」
龍之介がゆみを振り返ると、ゆみは気まずそうに目を泳がせた。
「そんなこと普通の猫に出来るわけがない。貴様の仕業で間違いないだろう」
与四郎が剣の切っ先を向けると、龍之介は呆れ混じりに怒った。
「て、てめえ! だから泥棒は駄目だと言ったんだ。と言うか、昨日は天ぷら久しぶりとか言って嘘つきやがったな!」
「えっと……シロの時はうまく考えられないんだもん……それに、その一回だけだよ!」
与四郎はふっと笑ったが真面目な顔で、
「一度だけだろうが盗みは盗み。しかも化け猫娘の仕業なんて、江戸を守る我々としては放っておけんのだ。龍、邪魔をせずにそいつを引き渡せ」
「待て。その前に、秋野屋の件がただの火事じゃなくて押し込み放火だってのは聞いてるのか?」
「何だと?」
与四郎は驚いた。
「やはり知らなかったか。言わなかったのか?」
龍之介はゆみをちらりと見た。
「恐かったし逃げることばかり考えてたから言うの忘れてた。おばさんたちもわたしが化け物だ、としか言ってなかったし」
「だろうな」
龍之介は再び与四郎に向き合うと、
「こいつは二階に隠れてた時にはっきり聞いてたんだ。盗賊どもがいきなり押し入って来て家族や小僧らを皆殺しにし、金を奪った上に証拠隠滅の為に放火したらしい」
「本当か?」
与四郎が一歩前に進むと、ゆみが再び顔だけ出して、
「本当だよ。一人は親分って呼ばれてて、その親分はもう一人をロク、って呼んでた」
「ふうむ……」
与四郎はまだ刀を納めようとはしなかったが、ゆみを見る目を変えて何か考え始めた。
「だけどお前ら奉行所はただの火事として片付けちまった。こいつがそれは違うと訴えたくとも、おめえらはこいつを化け物扱いして狙ってるからそれもできねえ。だからこいつは一人で家族の仇を討とうとしてるんだ、健気じゃねえか……」
龍之介は芝居がかった言い方をして見せた。
「かわいそうだろう、見逃してやれよ。そして、まずは秋野屋の件をもう一度調べてくれ。何なら俺も協力する」
「うむ、誠ならば確かに憐れであるし、とんでもない事件だ」
「だろう」
「盗賊絡みならば、まずお前の兄に言うのが最も早いのではないか?」
「……言えるわけねえだろ」
龍之介はため息をついた。
彼の実家、本庄家は先手筒組であり、家督を継いでいる長兄は現在、火付盗賊改方の与力を務めている。
この火付盗賊改方と言うのは、凶悪な盗賊団などを武力で取り締まることに特化した特殊軍事組織であり、町奉行では対応できない武装盗賊団などを取り締まる際に出動していた。
従って、秋野屋の件はどちらかと言えば火付盗賊改が扱う事件であり、その与力を務めている龍之介の実兄に言うのが一番早いのだが、勘当されているので言えるわけがない。
「ああ、そうだったな」
与四郎もすぐに事情を思い出して苦笑したが、
「まあ、火盗改に手柄を取られるのも気に入らんので上には報告しておく。だが、それと化け猫は別だ」
「この石頭が……」
龍之介は舌打ちして友人を睨んだが、その時、夜空にわずかな光があるのに気付いた。
「ゆみ、月が見えて来たぞ!」
「あっ、わかった」
ゆみは龍之介の背中から離れると、猫に化けて夜道を走った。
「あっ、逃げるな化け猫!」
与四郎が追いかけようとしたが、その胸先に龍之介の剣の切っ先が伸びた。
「龍、貴様……」
「悪いが見逃してくれ」
「…………」
「友として頼む」
「龍、俺とお前は親友だ。だが俺は奉行所の同心としてあの化け猫は放っておくわけにはいかん。そして、それを邪魔して俺に剣を向けると言うのなら、お前も捕えねばならんぞ」
与四郎は苦渋の顔となった。
「仕方ねえ」
龍之介は真顔になって三歩飛び下がると、剣を上段に構えた。
「本気か? お前もお尋ね者になるぞ」
与四郎も剣を構え直した。
「おいおい、俺の渾名ははぐれ龍だぜ。今更気にしねえ」
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