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近くて遠い人
文化祭3
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だったらどうして、紅は私に劇の相手役を頼んできたのだろう? 桃華に悪いと思わなかったの? 忙しくたって婚約間近なら、二人で練習すれば良かったのに。
私を相手に真に迫った演技をしてきた紅。いくら嘘でも掠れた声で毎日好きだと言われたら、どうしたって心が動いてしまう!
私が告白を断ったから?
だから、相手をしても私が本気にならないと思ったの?
『幼なじみだけど、私はただの世話役だし』
紅にそう言ったのは私自身だ。
でもこの状況は辛すぎる。
私があの日の言葉を後悔していると、彼は知らない。
今日と明日は学園祭。
敷地内はどこに行っても賑やかだ。
食堂も一般に開放されているため、いつもより人が多い。ゆっくり一人になれる所といえば、昼間は誰もいない寮しかなかった。
自分の部屋に戻った私は、中央のソファに倒れ込む。紅と桃華の見合い話に、思ったよりもショックを受けた。「紅が喜んで話す」と言った蒼の言葉にも、動揺していた。
仰向けに寝転び、天井を見つめる。
決定的な失恋は私を打ちのめした。
何もする気が起きず、当分力が出そうにない。
劇の本番が今日でなくて良かった。
できればこのまま、ここで隠れて過ごしたい。そんなことを考えた私。
涙がこぼれないように、固く目を閉じた。
しばらく経った頃、部屋の扉を開ける音と共に私の耳にある声が飛び込んで来た。
「紫記、いるのか」
紅だ! よりによってどうして今?
一番会いたくない存在なのに……
近付く紅の足音。
大好きな彼の声が耳元で聞こえる。
「……寝ているのか?」
目を閉じているけれど、私はもちろん起きている。頭の中が整理できずにぐちゃぐちゃしているから、寝られるわけがない。だけどいいや、寝たふりをしよう。返事をしなかったら、諦めて立ち去ってくれるかも。
「紫……」
低い声で紅が私の名前を呼ぶ。
ここまでわざわざ探しに来たってことは、何か急ぎの用事かな? もしかして、劇の道具が壊れて今すぐ修理が必要だとか? 寝たふりするのはダメかもね、と考えていたその時。
紅の手が私の髪に触れてきた。
彼は何度か撫でた後、そのまま髪をかき上げる。動かず我慢していると、左耳の上の傷跡に柔らかい何かが触れた。
これって……
びっくりして固まっていたら、柔らかい何かはそのまま滑って頬で動きを止めた。
それは私がいつも夢に見ていたこと。
妄想だと思って焦っていたことだ。
ちょっと待った!
もしかして、夢だと思っていたのって。
今まで寝ている私にキスをしていたのって――
「紅!」
私は慌てて起き上がった。
「何だ、起きていたのか」
目の前に淡い茶色の瞳が見える。
ソファの前にいる紅は、至近距離から私の顔を覗き込んでいる。
「『何だ』じゃないでしょ。どういうつもり!」
桃華というものがありながら。
私に最後だとドレスを渡しておきながら。
「どういうつもりって……考えればすぐにわかることだろう?」
何それ。開き直るってどういうこと? 桃華とお見合いして上手くいったのに、私にも手を出すのっておかしいよね?
「わからない。だって、桃華……花澤さんとお見合いしたんでしょう?」
蒼の言葉が嘘だといいのに。
海外でお見合いしたっていうのも、喜んだっていうことも全て否定してくれたらいいのに。だけど、彼はこう続けた。
「ああ。蒼から聞いたんじゃなかったのか? まあ突然で、向こうも驚いていたみたいだけど」
お見合いのこと、やっぱり本当だったんだ。喜んだっていうのも?
「相手は紅だったの?」
「そう。向こうの祖父……花澤グループの会長が無理やりねじこんだみたいだ。取引先の紹介で、親父も仕方なく受けた」
「仕方なく? でも、蒼は紅が喜んだって……」
「そりゃあね。ああ言ってくれたら、俺も助かる」
そんな!
私は頭に浮かんだ言葉を、直接聞いてみた。
「桃、花澤さんが……好きだって?」
「何だ、やっぱり蒼から聞いていたのか。だったらわかるだろう? まあお前は困った立場かもしれないが」
肩を竦める紅は、全く悪いと思っていない。それどころか、私が彼のことを好きだと気づいているみたい。
それならどうしてキスしたの?
桃華と一緒になるつもりなのに、どうして。
私が可哀想だから?
そんなの、私の好きな紅じゃない。
相手がいるのに他にも手を出すのって、絶対にダメだ!
「花澤さんのことが好きなら、そっちに行けばいいじゃない! どうして私に構うの? ドレスも返すから。ちょうど持って来ていて良かった」
私はソファから勢いよく立ち上がると、紅に向かって大声で叫んだ。握り締めた手のひらに爪が食い込むのがよくわかる。
「は? 何でそんな話になる。だから違うだろう? 好きじゃないから断った。向こうもだ!」
同じように立ち上がった紅が、私の肘を掴んで怒鳴った。え……断った? 何を?
「断ったって、何?」
「だから見合いの話自体をだ。蒼から聞いたんじゃなかったのか?」
どういう意味だろう?
私は首を傾げた後、横に振って否定した。
「何だ、聞いてなかったのならそう言ってくれ。見合いに呼ばれたのは事実だ。花澤と会ったのも。だが俺が断った後で彼女も言ってくれたんだ」
「何を?」
「『私は別の人が好きです。だからお見合いしたくありません』って」
「……え?」
どういうこと?
今の桃華が好きなのは、紅じゃないの?
「だから俺は喜んだし、彼女が好きだというのはお前のことだと思った。その時一緒にいた蒼も黄も、きっぱりした彼女の態度に好感を持ったようだった」
だから最近よく一緒にいたのね? みんなヒロインに惹かれたからではなくて。ああ、別に惹かれてもいいのか……紅以外は。
私は力を抜くと、詰めていた息をはいた。
「で、お前は? 俺に怒るのはどうして?」
「う……」
桃華と紅が上手くいったと思ったから。
それなのに、紅が私にキスをしたのかと勘違いして。
――ああ、違う。
本当は自分に自信がないからだ。
紅が優しく愛らしい桃華に惹かれるのは、当たり前だと思っていた。そのくせ、桃華のものになってほしくなかった。できればずっと、私の側にいてほしい!
攻略対象の紫記が、同じ攻略対象である紅輝にこんな感情を持つなんて。それにヒロインであるはずの桃華が、ルート分岐のだいぶ前に攻略対象に告白したり断ったりするのはどう考えてもおかしい。
この世界はやっぱり変だ。
もしかして最初から、ゲームのシナリオなんて存在しなかったのかもしれない。それなのにバカな私は、櫻井兄弟がヒロインとくっつきさえすれば幸せになれると、単純に信じ込んでいた。
もうとっくに、私は紅が好きだったのに――
唇を噛んで下を向く。
どこをどう反省すればいいのかわからない。目を伏せて、一生懸命言葉を探す。今の気持ちをどう表せばいいんだろう。どう言えば、あなたは私を見てくれるの?
私の顎に手をかけた紅が、上を向かせた。茶色の瞳が優しく見下ろすから、魅入られたように動けない。私は迫る綺麗な顔を、黙って見つめた。
唇に触れる優しい唇。
避けようとは思わなかった。
好きな人からキスされて、心臓があり得ないくらいドキドキしている。どうしていいのかわからずに、私はそっと目を閉じた。
私を相手に真に迫った演技をしてきた紅。いくら嘘でも掠れた声で毎日好きだと言われたら、どうしたって心が動いてしまう!
私が告白を断ったから?
だから、相手をしても私が本気にならないと思ったの?
『幼なじみだけど、私はただの世話役だし』
紅にそう言ったのは私自身だ。
でもこの状況は辛すぎる。
私があの日の言葉を後悔していると、彼は知らない。
今日と明日は学園祭。
敷地内はどこに行っても賑やかだ。
食堂も一般に開放されているため、いつもより人が多い。ゆっくり一人になれる所といえば、昼間は誰もいない寮しかなかった。
自分の部屋に戻った私は、中央のソファに倒れ込む。紅と桃華の見合い話に、思ったよりもショックを受けた。「紅が喜んで話す」と言った蒼の言葉にも、動揺していた。
仰向けに寝転び、天井を見つめる。
決定的な失恋は私を打ちのめした。
何もする気が起きず、当分力が出そうにない。
劇の本番が今日でなくて良かった。
できればこのまま、ここで隠れて過ごしたい。そんなことを考えた私。
涙がこぼれないように、固く目を閉じた。
しばらく経った頃、部屋の扉を開ける音と共に私の耳にある声が飛び込んで来た。
「紫記、いるのか」
紅だ! よりによってどうして今?
一番会いたくない存在なのに……
近付く紅の足音。
大好きな彼の声が耳元で聞こえる。
「……寝ているのか?」
目を閉じているけれど、私はもちろん起きている。頭の中が整理できずにぐちゃぐちゃしているから、寝られるわけがない。だけどいいや、寝たふりをしよう。返事をしなかったら、諦めて立ち去ってくれるかも。
「紫……」
低い声で紅が私の名前を呼ぶ。
ここまでわざわざ探しに来たってことは、何か急ぎの用事かな? もしかして、劇の道具が壊れて今すぐ修理が必要だとか? 寝たふりするのはダメかもね、と考えていたその時。
紅の手が私の髪に触れてきた。
彼は何度か撫でた後、そのまま髪をかき上げる。動かず我慢していると、左耳の上の傷跡に柔らかい何かが触れた。
これって……
びっくりして固まっていたら、柔らかい何かはそのまま滑って頬で動きを止めた。
それは私がいつも夢に見ていたこと。
妄想だと思って焦っていたことだ。
ちょっと待った!
もしかして、夢だと思っていたのって。
今まで寝ている私にキスをしていたのって――
「紅!」
私は慌てて起き上がった。
「何だ、起きていたのか」
目の前に淡い茶色の瞳が見える。
ソファの前にいる紅は、至近距離から私の顔を覗き込んでいる。
「『何だ』じゃないでしょ。どういうつもり!」
桃華というものがありながら。
私に最後だとドレスを渡しておきながら。
「どういうつもりって……考えればすぐにわかることだろう?」
何それ。開き直るってどういうこと? 桃華とお見合いして上手くいったのに、私にも手を出すのっておかしいよね?
「わからない。だって、桃華……花澤さんとお見合いしたんでしょう?」
蒼の言葉が嘘だといいのに。
海外でお見合いしたっていうのも、喜んだっていうことも全て否定してくれたらいいのに。だけど、彼はこう続けた。
「ああ。蒼から聞いたんじゃなかったのか? まあ突然で、向こうも驚いていたみたいだけど」
お見合いのこと、やっぱり本当だったんだ。喜んだっていうのも?
「相手は紅だったの?」
「そう。向こうの祖父……花澤グループの会長が無理やりねじこんだみたいだ。取引先の紹介で、親父も仕方なく受けた」
「仕方なく? でも、蒼は紅が喜んだって……」
「そりゃあね。ああ言ってくれたら、俺も助かる」
そんな!
私は頭に浮かんだ言葉を、直接聞いてみた。
「桃、花澤さんが……好きだって?」
「何だ、やっぱり蒼から聞いていたのか。だったらわかるだろう? まあお前は困った立場かもしれないが」
肩を竦める紅は、全く悪いと思っていない。それどころか、私が彼のことを好きだと気づいているみたい。
それならどうしてキスしたの?
桃華と一緒になるつもりなのに、どうして。
私が可哀想だから?
そんなの、私の好きな紅じゃない。
相手がいるのに他にも手を出すのって、絶対にダメだ!
「花澤さんのことが好きなら、そっちに行けばいいじゃない! どうして私に構うの? ドレスも返すから。ちょうど持って来ていて良かった」
私はソファから勢いよく立ち上がると、紅に向かって大声で叫んだ。握り締めた手のひらに爪が食い込むのがよくわかる。
「は? 何でそんな話になる。だから違うだろう? 好きじゃないから断った。向こうもだ!」
同じように立ち上がった紅が、私の肘を掴んで怒鳴った。え……断った? 何を?
「断ったって、何?」
「だから見合いの話自体をだ。蒼から聞いたんじゃなかったのか?」
どういう意味だろう?
私は首を傾げた後、横に振って否定した。
「何だ、聞いてなかったのならそう言ってくれ。見合いに呼ばれたのは事実だ。花澤と会ったのも。だが俺が断った後で彼女も言ってくれたんだ」
「何を?」
「『私は別の人が好きです。だからお見合いしたくありません』って」
「……え?」
どういうこと?
今の桃華が好きなのは、紅じゃないの?
「だから俺は喜んだし、彼女が好きだというのはお前のことだと思った。その時一緒にいた蒼も黄も、きっぱりした彼女の態度に好感を持ったようだった」
だから最近よく一緒にいたのね? みんなヒロインに惹かれたからではなくて。ああ、別に惹かれてもいいのか……紅以外は。
私は力を抜くと、詰めていた息をはいた。
「で、お前は? 俺に怒るのはどうして?」
「う……」
桃華と紅が上手くいったと思ったから。
それなのに、紅が私にキスをしたのかと勘違いして。
――ああ、違う。
本当は自分に自信がないからだ。
紅が優しく愛らしい桃華に惹かれるのは、当たり前だと思っていた。そのくせ、桃華のものになってほしくなかった。できればずっと、私の側にいてほしい!
攻略対象の紫記が、同じ攻略対象である紅輝にこんな感情を持つなんて。それにヒロインであるはずの桃華が、ルート分岐のだいぶ前に攻略対象に告白したり断ったりするのはどう考えてもおかしい。
この世界はやっぱり変だ。
もしかして最初から、ゲームのシナリオなんて存在しなかったのかもしれない。それなのにバカな私は、櫻井兄弟がヒロインとくっつきさえすれば幸せになれると、単純に信じ込んでいた。
もうとっくに、私は紅が好きだったのに――
唇を噛んで下を向く。
どこをどう反省すればいいのかわからない。目を伏せて、一生懸命言葉を探す。今の気持ちをどう表せばいいんだろう。どう言えば、あなたは私を見てくれるの?
私の顎に手をかけた紅が、上を向かせた。茶色の瞳が優しく見下ろすから、魅入られたように動けない。私は迫る綺麗な顔を、黙って見つめた。
唇に触れる優しい唇。
避けようとは思わなかった。
好きな人からキスされて、心臓があり得ないくらいドキドキしている。どうしていいのかわからずに、私はそっと目を閉じた。
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