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第1章 逃げ出した花嫁

14話 小さな嘘の綻び⑹

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 その部屋はソランスターの屋敷にある自室よりも洗練されていた。

 曇り硝子のランプは、珍しい輸入品だろうか。ふかふかとした絨毯に足を取られそうになりながら部屋の中央まで進むと、レインリットはぐるりと見回して感嘆の溜息をついた。
 深い茶色のソファの隣に女中たちが荷物を置き、年配の家政婦がレインリットの方を向いて姿勢を正す。指示を待っているのだと気づいた彼女は、この部屋を使うにあたって必要なものを持ってきてもらうことにした。

「あの、シーツを二枚、貸していただきたいのですが」

「シーツを二枚、にございますか?」

 レインリットの申し出を訝しんだ年配の家政婦が、おうむ返しに聞き返す。いくら躾けられた家政婦でも、この申し出は予想していなかったようだ。

「私たちは旅をしていて、あの、清潔だとは言えないので、こんなに素敵な部屋を汚したくはないのです」

 ソランスターに居た時のように、入浴が頻繁にできるわけではない旅路だった。宿では香草を浸した水を使って身体を洗うか、固く絞った布で拭くしかなかったため、満足に綺麗に保てている自信がない。すると家政婦は納得のいったような顔になり、「お待ちください」と言い残して女中と共に部屋を辞した。

「お、お嬢様、私は今からでも使用人の部屋の方に」

 部屋に入ってから黙り込んでいたエファが、途方に暮れたように弱々しい声を出した。

「貴方が一緒じゃないなら、私も使用人の部屋に行くわ。明日もう一度伯爵様に考え直していただきましょう。流石に私も……この部屋を使うなんて無理だもの」

 どう見ても高価な鏡台に紗張りの椅子、部屋の隅に飾られた花瓶は見たこともない模様だ。存在感のあるソファはさることながら、内扉の向こうに続く寝室には、きっと豪華な寝台が備えつけられていることなど簡単に想像できる。ソランスター伯爵令嬢として正式に招かれたわけではないレインリットには、分不相応すぎて気疲れしてしまうくらいだった。
 二人して沈黙し、目を見合わせて呆然としていたところ、扉をノックする音が聞こえ、家政婦たちが戻ってきた。手押し台車の上には、真っ白で皺のないシーツと厚手の布、湯気の立つたらいと木桶がある。

「使用された後は置いたままで結構でございます」

「わがままを言って申し訳ありません」

「すべては旦那様の指示でございます。それでは、おやすみなさいませ。明日の朝に起こしに参ります」

「あ、ありがとうございました!」

 同じ使用人の立場から思うことがあったのか、すかさず礼を述べたエファに、家政婦と女中は完璧な所作で腰を折り退出していった。あまり関わらないようにしているのだろうか。会話らしい会話もなかったのが気がかりなレインリットに対し、エファは手押し台車に乗っている物にすっかり気を取られているようだ。小さな石鹸を手に取り、嬉しそうに振り向いた。

「お嬢様、石鹸が用意されております! オイルも! 良質なもののようですね、とてもよい香りがします。こんなにお湯がありますから御髪を洗いましょう」

「あら、櫛まで……明日、伯爵様になんてお礼を申し上げたらいいのかしら」

 エファが盥にオイルを垂らして香り付けし、簡単な湯浴みの用意をする間、レインリットは旅行鞄を開ける。結婚式から逃げ出した時に着ていたドレスが、唯一ソランスターの屋敷から持ってきたものだ。皺を伸ばすように椅子の背もたれにかけ、明日の準備を整える。

「そんなことは私がやることです。お嬢様はお座りになられてお待ちくださいませ」

 すかさずエファに咎められるが、旅の中でレインリットも自分のことは自分でするように心がけていた。エファばかりを頼るのではなく、二人でなんでもするのだ。最初は中々慣れずに戸惑ってばかりだった彼女も、見よう見まねで手伝い始め、今では自分一人で着替えもできる。
 レインリットは自分が成長したようで嬉しいのだが、侍女としてのエファの矜持がそれを許さないようだ。何かと世話を焼きたがるエファに苦笑した。

「今は、『従姉妹のメアリ』だもの。がやることは、私もやりたいわ」

「お嬢様は時々頑固にございます」

「そんなに怖い顔をしないで、エファ。それより、貴女はどっちのソファに寝たい? どちらも柔らかくてふかふかで、寝心地がよさそうよ」

 レインリットがシーツをばさりと広げ、てきぱきと寝床の準備をしていく。エファの頑固な主人が、まだ確認すらしていない寝台で寝るつもりがないということを理解すると、苦労性の侍女は大きな溜息をついた。


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