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21 行方不明 3

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 グレイシアの北。国境の街モリージュ。
 ここには、グレイシア北方軍の主力部隊が駐屯する大きな街である。
 街の北には森林地帯を流れる川があり、その両岸が広い休戦地帯となっている。

 この数ヶ月で、北の隣国ノスフリントとの国境地帯の治安は悪化しているが、今のところ正規軍ではなく、徒党を組んだならず者の仕業ということで、大きな国際問題にはなっていない。
 先日のグレイシア小隊への襲撃でも、ノスフリント側も自国の警備隊を出し、野党討伐のために力を貸してくれるという格好になっていた。
 森林には多数の野盗が潜んでいると考えられた。川を挟んだ両国の部隊の出動で、何人かは捕らえられたが、まだ仲間が徘徊しているようだ。
 二十人の小隊とはいえ、数人の負傷者を出し、その隊長の生死が不明になっているのだ。
 人々にはまだ、数年前の戦闘の記憶が焼きついていて、狩やたきぎ集めのために、城壁の外に出る者はいない。
 春の足音はまだまだ遠い。

 ミザリーはモリージュについたその日に、ルナールの直接の上官である、シスレー大隊長をおとなうことができた。
 ユルディスの以前の伝手つてを頼ったものだ。
 彼はかつての北方軍司令官、ランサール将軍の下で仕えていて、シスレーの部下にも知己ちきがいると言う。彼の交流の広さに、ミザリーはいつも驚かされている。
「知人の方にはすぐに会えるの?」
「知らせは出してあります」
「その方は、正規の兵隊さんなのでしょう?」
「ええ、今は下士官だということです。シスレー隊長に会う便宜を図ってくれるでしょう」
「そうなのね。ありがとう!」
「こういうことは早く確かめたほうがいいのです」
 感謝するミザリーに、ユルディスは平坦に答えるのみだった。
 しかし、ミザリーがシスレーと接見が許されたのは、わずかな時間だった。相当に忙しいのだろう。
 モリージュの北側にある司令官屯所内とんしょないの執務室は、かつてランサール将軍が使っていた部屋だ。執務机の後ろには将軍の肖像画が掲げられている。

「それではシスレー大隊長様。夫、ルナールは、武装した野盗たちと戦闘状態になり、傷を負ったまま崖下に転落したと?」
 ミザリーは勧められた椅子を断り、立ったままシスレーに向き合っている。ミザリーの後ろにはユルディスが控え、扉の両側には士官が立っていた。
「左様。奥方殿、ルナール殿のことは大変遺憾に思っている。二十人の小隊で通常の警邏けいらをしていたところ、突然襲われたのだ。おそらく待ち伏せだろう。重軽傷者は六人、行方不明者は……」
「我が夫」
「ルナール殿は、負傷者をかばいながら勇敢に戦われた。しかし、深い雪に足を取られたところを、背後から切り付けられ、崖下へ転落した。下は国境を流れるスールー川だ」
「スールー川……」
「少し下流に崖下に出られる場所があるので、直ちに捜索を行ったが、ルナール殿を見つけることはできなかった。衣服や所持品などの手がかりもなかった。川は凍っており、氷の下では流れがとても早い、おそらくはそのまま、ずっと下流まで……」
「……」
 ミザリーの目に、見たこともないはずの凍った川が浮かんだ。
 雪まみれの岩肌の底、透明度の高い青い水に、ルナールの銀髪と白い顔がゆらゆらと飲み込まれていく。
「奥方殿!」
 はっと顔を上げると、そこには心配そうなシスレーの顔があった。背中はユルディスが支えてくれている。
「大丈夫ですか? 顔色が急に白くなった。その椅子に掛けられよ」
「……すみません。お見苦しいところを……大丈夫よ、ユルディス」
 ミザリーは今度は勧められた椅子に腰を下ろした。
「無理もない。心よりお悔やみ申し上げる」
「隊長様、あの……」
「なんだね?」
「……夫が落ちたという、崖の場所を見に行けますか?」
「いや、それは危険なので許可できない。その代わりに、彼と最後まで共に行動していた兵士を呼んである」
 入ってきは兵士は、そばかすだらけの若い兵士だった。右足のももに包帯を巻き、杖をついている。
「ヘンリー、この方はルナール・エルトレーの奥方である」
「はっ! お初にお目にかかります。ヘンリーと申します」
 ヘンリーは大きく腰を下げようとし、杖を転がしてしまった。ミザリーが素早く拾い上げ、恐縮する兵士に渡してやる。
「あなたが、ルナール様の最後を見届けた方なのですか?」
「は……見届けたというか……その」
「私に遠慮は無用です。どうか言葉を飾らずに、見られたままをお話しください」
 ミザリーはきっぱりと言い放った。
 ヘンリーはしばらく、上官とミザリーを見比べていたが、やがて訥々とつとつと話し出した。
「我々は二十人の隊で森林を哨戒しょうかいしておりました。ならず者が、猟師を襲ったという報告もありましたので……湿った雪は深くて何度も足を取られ、軍靴はすっかり重くなっていました。二時間ほど経ったところで引き返そうと命令が下され、正直ほっとしていたところに」
 ヘンリーはそこで言葉を切る。
「最初は……何が起きたのかわかりませんでした。声も出さずに一斉に木の上から男たちが飛びかかってきたのです。一瞬で何人か倒れました。我々はルナール隊長のもと、なんとか隊列を整え応戦しました。不意打ちで苦戦しましたが、敵は退却を始めました。しかし、それも罠だったようで、私は罠に足をつらぬかれ倒れました。背後には敵が迫っていました」
「……」
「もうだめだと思った時、助けてくれたのがルナール隊長だったのです。彼は私を助けて応戦し、敵を倒しました。ですが隊長も背中を切られ、深い藪に倒れ込んだところ、そのまま崖下に……」
 若い兵士はその先を言えずに唇を噛んだ。しばらく誰も口を聞くものはいなかった。
「……」
「……み、水音が聞こえたところまでは覚えております。その後私も気を失って、気がついたら病室で……」
「ありがとうございます。ヘンリー様、よく話してくださいました」
 ミザリーは涙を浮かべて若い兵士の手を取った。
「ルナール様は、最後まで勇敢に戦われたのですね」
「おっ、俺……私が足を引っ張らなければ……奥方様、申し訳ございません!」
 ヘンリーは涙を浮かべた。
「ヘンリー様、自分をお責めにならないでください」
「しっ、しかし!」
「ヘンリー。奥方はお前を責めにいらしたのではない。事の顛末てんまつを聞きにこられたのだ。気持ちはわかるが、それ以上の謝罪は失礼になるぞ」
「は……は!」
「辛いことを言わせてしまい、申し訳ありません。どうかヘンリー様も、傷を早く治されますように」
 ミザリーの目にも涙がにじんだ。
「……ありがとうございます」
 ヘンリーは最後にミザリーを見つめた。涙の膜が張った瞳は、深い琥珀色に染まっている。
「下がりなさい」
 シスレーに促され、最後にミザリーに向かって深々と礼をすると、ヘンリーは出て行った。
「ありがとうございます、シスレー様。辛いことですが、両親にも伝えます」
 ミザリーは心から礼を言った。
「痛み入る。ただもうしばらく捜索は続けるつもりだ。警戒を兼ねてもいる。森の中にはまだ、ならず者が潜んでいるので。また、停戦中とはいえ、ノスフリントも河口の港を欲していることには変わらない。ランサール将軍が引退し、南下の機会をうかがっていると言う情報もある」
「また戦が始まるのですか?」
「そうならないように、我々はこの停戦期間中にできることを行う。戦争直後の冷却期間は過ぎた。これからは外交交渉で戦争を避ける方向で話が進む。その中には野盗対策も含まれるだろう」
「……」
「だから少なくともこの冬は、モリージュ市民ですら、国境地帯には入れないことになっている。」
「事態はいつ頃収束する予測でしょうか?」
「はっきりとはいえないが、おそらく夏ごろまでには。こちらには王弟陛下もいらっしゃる。奥方殿には申し訳ないが、私からはこれ以上申し上げることはない」
「……そうですか」
 ミザリーはゆっくり立ち上がった。これ以上は無理だろう。
「まだ顔色が悪い、馬車で宿まで送らせよう」
「いいえ、大丈夫です。シスレー様、ご公務繁多の中、お時間をいただきありがとうございます」
「そうか。また何かあれば、すぐに都にお知らせする。捜索も続けると約束しよう。エルトール子爵閣下には、そうお伝えいただきたい」
「ありがとうございます。義父に代わってお礼を申し上げます」
「それから、君」
 シスレーが声をかけたのは、意外にもユルディスだった。
「君だろう? ランサール将軍の懐刀ふところがたなだったという男は」
「……そんなあだ名は記憶にありません」
 なんの興味もなさそうにユルディスが答えた。
「確かに草原地方の顔立ちだ。閣下の命を助けたと聞いたぞ」
「運が良かっただけです」
「そうか。君がそう言うんならそうなのだろう。正規の兵士ではないようだし。だがかなり使えるな、その体捌たいさばきは」
「失礼致します」
 ミザリーは、重い気分で執務室を出た。
 足早に廊下とホールを通り抜け、明るい屋外へ出た途端、急激な感情が込み上げる。
「ミザリー様!」
「ついてこないで」
 ミザリーはまだ雪の残る通りを走った。
 走って、走って、街の境界である壁にたどり着くと、一気に階段を駆け上がる。
 眼下には国境の森が広がっていた。
 傾きかけた日に照らされ、梢が光っている。この森の奥にルナールを飲み込んだ川が流れているはずだ。ただ、ここからでは見えない。
「う……うっ……わぁああ~!」
 冷たい石の上に身を投げ出してミザリーは泣いた。
 愛され、望まれた結婚ではなかった。エルトール子爵家は破産寸前で、ミザリーの持参金と、グリンフィルドの経営手腕が欲しかった。
 それを百も承知で承諾したのはミザリーだ。
 どうせいつか誰かに嫁がねばならないなら、幼い頃から恋し、憧れだったルナールの役に立ちたいと思ったからだ。

 好きだった。
 あの綺麗な人をずっと見ていたかった。
 でも美しい髪も瞳も、もう見ることはできない。ちょっと皮肉な声も、もう聞けない。
 私は──ルナール様のことが好きだった。

 色の薄い夕陽が、涙でぐしゃぐしゃに歪んだ。
「……好きだった……好きだったの」
 ルナールはミザリーを愛しはしなかったが、きちんと評価してくれた。彼女を尊重し、信用して家のことを任せてくれたのだ。
 熱はなくとも穏やかに抱かれた。
 夜会の舞踏では感心して誉めてくれた。

 私は自分が役に立つことで、あの方の心に入り込みたかった……。
 打算があったのは私も同じだ。

「もっと素直になればよかった! 好きですときちんと伝えておけばよかった! この高慢なグリンフィルドの娘! あんたは大馬鹿よ!」
 声を上げてミザリーは泣き続けた。
 壁の影でユルディスが見つめていることに気がつくこともなく。



     *****



ツィッターに北の町のイメージがあります。
ユルディスの心の声もあります。
ミザリーが泣くのは結婚以来初めて。
よかったら励ましのお言葉を送ってあげてください。
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