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第二章 夫妻の贈り物

9、夫の憂鬱 後編

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 駆けて行ったカミーユが彼女の顔を覗き込むようにして挨拶をし、彼女も可愛らしい営業スマイルを返している。

「いらっしゃいませ!」
「ねえ、俺のこと覚えてる?!」
「ハイ。先週来てくださいましたよね」
「やった! 聞いたか?! 俺、覚えてもらってるぜ!」

 僕達の方を振り返って叫ぶカミーユにつられて彼女がこちらを見た。

「テオ様!」

 僕と目が合った途端、ぱっと笑顔が咲いて名が呼ばれた。そのまま小走りで僕の方へ駆けてきたので、僕も急いで彼女へ歩み寄る。

 僕の前でピタッと止まった彼女は、嬉しそうな顔で僕を見上げてきた。

 ・・・本音を言えば、そのまま抱きついて来て欲しかったけれど、これはこれで非常に可愛い。

「いらっしゃいませ、テオ様! 今日のオススメは『燻製肉と春野菜の煮込み』です。そら豆が美味しいんですよ」
「試食したの?」
「はい! ルノーさんが開店前に作ってくれたのを皆で頂きました。それでとっても美味しかったのでお客さんにオススメしたら、注文してくれた方が多くて嬉しかったです」

 ・・・それは君がその顔で『オススメ』したからじゃないかな。と言いたいのをぐっと抑えて代わりに頬にひょいっと口付けた。

 彼女が頬を押さえて目を丸くしたところで、カミーユが憤怒の表情で叫んだ。

「テオドール! お前、何するんだ、羨ましいぞ。おっと、違った。彼女が可愛いからって浮気は止めろ! お前には愛妻がいるんだから、俺に譲れ!」

 僕は黙って彼女を抱き寄せ、ぎゅっと腕の中に閉じ込めてから、これみよがしに髪へ唇を寄せた。

「何してんだ?! 奥方へ言いつけるぞ?!」
「いいよ」

 カミーユが伸ばしてきた手を払い除けて、誰にも触れられないように、さらに彼女をがっちり抱き込む。僕のその強硬な態度にカミーユが怯んだ。

「テオドール、お前、まさかもう妻に飽きたのか?!」

 カミーユの的外れな台詞に、腕の中の彼女がびくっと身を震わせた。慌てて大丈夫、そんなことはないからと頭を撫でて落ち着かせる。

 彼女を不安がらせたカミーユをキッと睨んでから、ゆっくり口を開く。

「カミーユ。君、さっき僕の妻に会いたいって言っていたよね?」
「ああ。えっ・・・?」
「紹介するよ、彼女が僕の大事な妻のシルフィアだ」
「・・・は?」
「テオドールが簡単に他の女性に手を出すはずはないと思っていましたが、やはりそうでしたか。初めまして、シルフィア殿。彼の友人のイスマエルと申します」

 事態を把握できずに口を開けたまま固まっているカミーユを放って、優しい笑みを浮かべて挨拶をしてきたイスマエルに、腕の中のシルフィアが目を瞬いた。

「シルフィア、彼等は僕の友人のイスマエルとカミーユだよ。イスマエルは帝国貴族の四男で未来の医者なんだ。カミーユは海の向こうの国の王子なんだけど、女の子が好きだから君は近付かないように」

 紹介しながらぎゅうっと抱きしめれば、彼女がテオ様のお友達ならきちんとご挨拶をさせてください、と僕の腕から抜け出そうとジタバタし始めたので渋々解放する。

「は、初めまして。テオドール様のつ、つつつ妻のシルフィアと申します」

 きちんと挨拶しなければと緊張し過ぎて逆に吃ってしまい、礼は頑張るとばかりにエプロンドレスを摘んで優雅に膝を折った妻に僕の頬が緩む。

「テオドール、ズルいぞ! なんでお前ばっかりこんなに可愛い妻をもらってんだ」

 泣き出しそうな顔で悔しがる彼に僕はサラリと返す。

「カミーユ、僕達は彼女に対して場所も年齢差も同じ条件下にいたんだ。それで僕が先にシルフィアを見初めた、それだけだよ」
「俺がっ! 先に出会っていれば・・・」
「今、逆の立場だったかもね」

 自分で言って、ぞっとした。シルフィアがカミーユの腕の中に収まって僕を見ている光景なんて、想像しただけで気がおかしくなりそうだ。

「内面でシルフィア殿を愛したテオドールと違って、カミーユは見た目重視ですから先に出会っていても結果は同じでしたよ」

 サラリと酷なことを言ってカミーユを打ちのめしたイスマエルは、店の扉を開けながら振り返った。

「さあ、早く食べないと講義に間に合いませんよ。僕はシルフィア殿オススメの煮込みにします。本当に美味しそうな顔でしたからね」
「ありがとうございます! 席にご案内しますね」

 イスマエルの言葉に喜んだシルフィアがいそいそと彼を先導して店内に入っていく。僕も抜け殻になったカミーユを引きずって続いた。


「ほんっとうに羨ましい。俺もシルフィアちゃんなら結婚したい!」
「絶対ダメ」
「カミーユは今の性格を改めないと彼女のような女性には巡り会えませんよ」
「酷いこと言うな、イスマエル。でも、なんで大事な妻をこんなとこで働かせてるわけ? 超資産家で有名だけど実はハーフェルト公爵家、そんなに財政ヤバいの? ハッ、もしやテオドールが勘当されたとか?!」

 好き放題言ってくるカミーユを一睨みして黙らせる。

「ここの料理人がシルフィアの友人で、昼の人が怪我して週に二日だけ人手が足りないと聞いた彼女がやると言ったんだ。社会勉強したいと言われたら反対できなくてさ。でも、こんな早々に君のような虫がつくなんてね」

 俺は虫じゃない、とボヤいたカミーユが続けて聞き慣れない言葉を口にした。

「結婚指輪をしといてくれればよかったのに」
「そういえば二人共指輪をしていませんね」
「結婚指輪って何?」
「知らないのか?! その名の通り結婚した二人が付けるお揃いの指輪だよ。それがあれば大抵の人が既婚だと気がついてくれるぞ」
「テオドールの国には、そのような習慣はありませんか?」

 身近な夫婦を数組、思い浮かべてから首を振る。

「・・・それを付けていれば、虫除けになるってこと?」
「まあ、既婚と分かれば向こうから来ない限り、俺は手を出さないね」
「カミーユはもう、シルフィアの視界に入るな! イスマエル、結婚指輪はマーキングみたいなもの?」
「まあ、そのようなものです」

 なるほどと納得した僕は、最大限の威力を発揮する指輪を作ろうと決めた。
 
「お待たせしました!」

 その時、シルフィアがもう一人の給仕の女性と共に料理を運んできた。

 最近よく見せてくれるようになった自然な笑顔で僕の前に皿を置いて行く。その後ろ姿をぼんやりと目で追っていると彼女が他の客から声を掛けられ雑談し始めた。

 昼の一番忙しい時間は過ぎて店内はゆったりした雰囲気が漂っている。

 彼女はここで働き、世間には自分に悪意を持たない人が多くいると分かったことで、随分と笑顔が出るようになった。

 それは良いことで僕も安堵していたはずなのに、この強烈な焦燥感はなんなのか。

 僕はずっと彼女が僕だけに笑顔を向けてくれると思っていたらしい。それが大きな間違いだと気づいた時には、彼女は周囲にあの可愛らしい笑顔を振りまき始めていた。

 とにかく、自分の心の安寧のために結婚指輪とやらは用意するとして、妻には今直ぐにそれと分かる印が必要だ。

「水をもらってくる」

 僕はそう言い置いてカウンターへ向かった。途中で、雑談を終え下げた食器を運んでいるシルフィアの手から盆を取り代わりに運ぶ。

「テオ様?!」

 驚いて追いついてきた彼女の腰に腕を回してそのまま攫うように二階へ通じる階段の陰に連れ込んだ。


「さ、冷めないうちに食べようっと。」

 席に戻ってスプーンを手に取った僕へ友人達がなんとも言えない視線を向けてきた。

「何か言いたいことでも?」
「「・・・何も」」

■■

「これはまたしっかり付けられたもんだね」
「・・・私に何か付いているのですか?」

 テオ様達が店を出た後、一緒に給仕をしているこの店のオーナーでもあるチェレステさんが私の首を見て苦笑した。

「彼はシルフィアちゃんのことが好きで好きでたまらないんだろうけど、ちょっと目立ち過ぎるね」

 そう言ったチェレステさんは私の首に自分が巻いていたスカーフをくるりと結んだ。

「えっ、チェレステさんのスカーフをどうして私に?!」
「なに、それは貸すだけさ。明日返しておくれ。シルフィアちゃんもスカーフくらい持っているだろ? 明日は自分のをを巻いてきな」
「シルフィア様、家に帰ってから鏡でご自分の首を見たらいいですよ。俺もまさか主がそこまでやるとは思わなかったので、あの方の焦りっぷりに内心大爆笑してます」

 ここで働いている間は俺が付いてるから、シルフィア様によからぬ男なんて寄せ付けないのにねー。と、楽しそうなフリッツさんと口だけで笑うチェレステさんに私は首を傾げた。

 帰宅後、鏡を見て固まる私と、首に巻かれたスカーフに愕然とするテオ様がいた。
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