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第一章
第4話
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束の間の眠りからスフィーナが目を覚ますと、気が付いたアンナがほっとしたように肩を下げた。
けれどすぐに、その瞳は翳った。
「お加減はいかがですか? グレイグ様が仰った通り、きっとこのようなカビ臭い部屋に移動させられたせいで具合を悪くしてしまったのでしょう。掃除が間に合わず、申し訳ありません」
そんなに気に病むこともないのに。
スフィーナはアンナに首を振って見せた。
「十分よ。短い時間でよくここまでしてくれたと思うわ。何より、この部屋のせいではないわ。だってもっと埃を吸っていたはずのアンナたちは元気じゃない。誰だって風邪は引くものなんだから、たまたまよ」
そうは言ったものの、スフィーナの笑みには力がなく、気づかわしげに眉を寄せたアンナは、丁寧に額のタオルを取り換えた。
「待っていてくださいね、今パン粥を作らせていますから。食べられるだけ食べて、早く元気になられますように」
アンナがそう言った直後に部屋の扉がコンコンとノックされた。
「きっとお食事ですよ、スフィーナ様」
ほっとしてアンナが振り返れば、そこにはすまなそうに眉を下げる侍女のリンの姿があった。
どうしたの、と声をかけようとしてアンナははっと息を呑んだ。
リンの後ろから、くるくるの赤毛がひょいっと覗いたのだ。
「お姉さま、風邪の具合はいかがです? お熱は高いんですの?」
ミリーはまるで汚い場所に入るのを嫌がるように、顔だけをドアから覗かせていた。
「ミリー様、スフィーナ様はただいまお休み中でございますので、お見舞いくださるのであればまた明日にでも」
アンナが慌てて立ち上がると、ミリーは汚い部屋にいるアンナまで汚れているかのように、わずかに身を引いた。
「あら、でもさっき話し声がしていたじゃない。お姉さま、起きていらっしゃるんでしょう? 私に元気なお顔を見せて安心させてくださいな」
そう言ってミリーはぱたぱたと足音をさせて無遠慮に部屋に上がり込み、病人の眠るベッドの足元からひょいっとスフィーナの顔を覗き込んだ。
枕元まで行かないのは、自分に風邪がうつるのが嫌だからだろう。
「あら、お顔も真っ赤ですのね。これは大変、たくさん食べて元気を出さないと。ねえ、あなた。やっぱりこんなパン粥なんてダメよ。お姉さまには私の食事を差し上げるわ。お肉もお野菜もバランスよく食べないと、いつまでもよくならないもの」
風邪でも朝でもステーキが食べられるのは、この家ではミリーだけだ。
弱っているスフィーナがそのような肉を噛む体力があるとも思えないし、消化に悪い生野菜をバリバリと食べられるわけもない。
「で、ですがミリー様、」
アンナの声はミリーの笑顔を乗せた声に遮られた。
「お姉さま、気になさらないで。パン粥って痩せやすくて体形維持にいいんですってね。私、一度食べてみたかったのよ。それでおいしかったらこれからは毎日パン粥にしてもらうわ。ね、だから遠慮なく私の食事を食べてくださいな」
そう言ってミリーは粥の盆を持ったままのリンを連れて行ってしまった。
アンナはしっかりと扉が閉まったのを確認してから、足早にスフィーナの元に戻った。
「スフィーナ様、申し訳ありません! きっとリンが新しくパン粥を作らせていると思いますので、もう少しお待ちください」
ミリーの背後で、何度もちらちらと気を引かれるようにスフィーナを振り返っていたリンも哀れだ。
「ふふ。ふふふふふっ」
アンナが慌てて枕元を覗き込めば、そこには堪えかねるように笑うスフィーナの顔があった。
「本当にミリーは私のものなら何でも欲しがるわね。それにしても、パン粥まで……。ふふふっ。きっと夜中にお腹が空いて眠れなくなるでしょうね。アンナ、夜食を用意しておいてあげた方がいいかも」
こんな時でも笑って済ませてしまえて、しかも気遣いまでみせるスフィーナを、アンナは心から尊敬した。
ミリーの身勝手に対して募らせていた腹立たしさも、スフィーナのお腹の底から楽しそうな笑みに毒気を抜かれる。
「そうですね、きっとそうお求めになると思いますので、厨房に準備しておくように伝えておきます」
それにしても、スフィーナだけ特別に違うものを作られているのが許せなかったのか、言葉通りパン粥に興味があっただけなのか。
どちらにしろ、毎晩肉を食べているミリーがパン粥だけで満足できるわけはない。
アンナはミリーが食べなかった夕食をそのまま夜食として出してやりたかったが、ミリーは一度冷めた食事には手をつけない。温めなおしたものなどおいしくないというのだ。
一度夕食のメニューは見られているから、全く別の物を作らなければならないだろう。
「ミリーが手を付けなかった食事は、勿体ないからみんなで食べてしまってね」
「はい、ありがたくおいしいお肉をいただいておきます」
アンナがにっと笑って見せれば、スフィーナはまた楽しそうに笑って、それから眉を下げた。
「本当にみんなには迷惑ばかりかけて申し訳ないわ。もっと私が長女としてしっかりしていなければならないのに」
どんなにしっかりしていても、あのミリーをどうにかできるかは別だとアンナは思った。
何よりスフィーナは十分しっかりしている。
あんな扱いばかり受けていても、こうして笑みを絶やさず、使用人たちにまで気遣いを見せ、そして何より日々を楽しんでいる。
スフィーナの心の豊かさゆえだとアンナは思う。
「スフィーナ様に迷惑をかけられたことなど一度もありません。今はそんなことよりも、しっかりと体を休めてください」
スフィーナの目はとろりと今にも閉じそうになっていた。
上気した頬も熱そうだ。
アンナが首元まで布団をかけると、スフィーナはそっと瞳を閉じた。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
結局スフィーナは新たに作られた粥を口にすることのないまま、深い眠りへと落ちていった。
夜中にふと気が付くと、ゆらゆらと体が揺られているような気がした。
「今日はここで寝なさい。あんな部屋にいては治るものも治らない」
低くて、だけど優しい声がスフィーナの耳朶に響いた。
父だ。
スフィーナは瞼が重くて開けられないまま、ダスティンの声を聞いていた。
「おや……これはサナの。そうか。物置小屋にあったんだな。これが見つかったのなら、そろそろ始めてもいいかもしれない」
何かに気付いたダスティンの呟き声が、低められた。
「もうすぐだ。もう少しの辛抱だよ、スフィーナ」
頭を優しく撫でる手を感じ、スフィーナは再び深い眠りへと落ちていった。
けれどすぐに、その瞳は翳った。
「お加減はいかがですか? グレイグ様が仰った通り、きっとこのようなカビ臭い部屋に移動させられたせいで具合を悪くしてしまったのでしょう。掃除が間に合わず、申し訳ありません」
そんなに気に病むこともないのに。
スフィーナはアンナに首を振って見せた。
「十分よ。短い時間でよくここまでしてくれたと思うわ。何より、この部屋のせいではないわ。だってもっと埃を吸っていたはずのアンナたちは元気じゃない。誰だって風邪は引くものなんだから、たまたまよ」
そうは言ったものの、スフィーナの笑みには力がなく、気づかわしげに眉を寄せたアンナは、丁寧に額のタオルを取り換えた。
「待っていてくださいね、今パン粥を作らせていますから。食べられるだけ食べて、早く元気になられますように」
アンナがそう言った直後に部屋の扉がコンコンとノックされた。
「きっとお食事ですよ、スフィーナ様」
ほっとしてアンナが振り返れば、そこにはすまなそうに眉を下げる侍女のリンの姿があった。
どうしたの、と声をかけようとしてアンナははっと息を呑んだ。
リンの後ろから、くるくるの赤毛がひょいっと覗いたのだ。
「お姉さま、風邪の具合はいかがです? お熱は高いんですの?」
ミリーはまるで汚い場所に入るのを嫌がるように、顔だけをドアから覗かせていた。
「ミリー様、スフィーナ様はただいまお休み中でございますので、お見舞いくださるのであればまた明日にでも」
アンナが慌てて立ち上がると、ミリーは汚い部屋にいるアンナまで汚れているかのように、わずかに身を引いた。
「あら、でもさっき話し声がしていたじゃない。お姉さま、起きていらっしゃるんでしょう? 私に元気なお顔を見せて安心させてくださいな」
そう言ってミリーはぱたぱたと足音をさせて無遠慮に部屋に上がり込み、病人の眠るベッドの足元からひょいっとスフィーナの顔を覗き込んだ。
枕元まで行かないのは、自分に風邪がうつるのが嫌だからだろう。
「あら、お顔も真っ赤ですのね。これは大変、たくさん食べて元気を出さないと。ねえ、あなた。やっぱりこんなパン粥なんてダメよ。お姉さまには私の食事を差し上げるわ。お肉もお野菜もバランスよく食べないと、いつまでもよくならないもの」
風邪でも朝でもステーキが食べられるのは、この家ではミリーだけだ。
弱っているスフィーナがそのような肉を噛む体力があるとも思えないし、消化に悪い生野菜をバリバリと食べられるわけもない。
「で、ですがミリー様、」
アンナの声はミリーの笑顔を乗せた声に遮られた。
「お姉さま、気になさらないで。パン粥って痩せやすくて体形維持にいいんですってね。私、一度食べてみたかったのよ。それでおいしかったらこれからは毎日パン粥にしてもらうわ。ね、だから遠慮なく私の食事を食べてくださいな」
そう言ってミリーは粥の盆を持ったままのリンを連れて行ってしまった。
アンナはしっかりと扉が閉まったのを確認してから、足早にスフィーナの元に戻った。
「スフィーナ様、申し訳ありません! きっとリンが新しくパン粥を作らせていると思いますので、もう少しお待ちください」
ミリーの背後で、何度もちらちらと気を引かれるようにスフィーナを振り返っていたリンも哀れだ。
「ふふ。ふふふふふっ」
アンナが慌てて枕元を覗き込めば、そこには堪えかねるように笑うスフィーナの顔があった。
「本当にミリーは私のものなら何でも欲しがるわね。それにしても、パン粥まで……。ふふふっ。きっと夜中にお腹が空いて眠れなくなるでしょうね。アンナ、夜食を用意しておいてあげた方がいいかも」
こんな時でも笑って済ませてしまえて、しかも気遣いまでみせるスフィーナを、アンナは心から尊敬した。
ミリーの身勝手に対して募らせていた腹立たしさも、スフィーナのお腹の底から楽しそうな笑みに毒気を抜かれる。
「そうですね、きっとそうお求めになると思いますので、厨房に準備しておくように伝えておきます」
それにしても、スフィーナだけ特別に違うものを作られているのが許せなかったのか、言葉通りパン粥に興味があっただけなのか。
どちらにしろ、毎晩肉を食べているミリーがパン粥だけで満足できるわけはない。
アンナはミリーが食べなかった夕食をそのまま夜食として出してやりたかったが、ミリーは一度冷めた食事には手をつけない。温めなおしたものなどおいしくないというのだ。
一度夕食のメニューは見られているから、全く別の物を作らなければならないだろう。
「ミリーが手を付けなかった食事は、勿体ないからみんなで食べてしまってね」
「はい、ありがたくおいしいお肉をいただいておきます」
アンナがにっと笑って見せれば、スフィーナはまた楽しそうに笑って、それから眉を下げた。
「本当にみんなには迷惑ばかりかけて申し訳ないわ。もっと私が長女としてしっかりしていなければならないのに」
どんなにしっかりしていても、あのミリーをどうにかできるかは別だとアンナは思った。
何よりスフィーナは十分しっかりしている。
あんな扱いばかり受けていても、こうして笑みを絶やさず、使用人たちにまで気遣いを見せ、そして何より日々を楽しんでいる。
スフィーナの心の豊かさゆえだとアンナは思う。
「スフィーナ様に迷惑をかけられたことなど一度もありません。今はそんなことよりも、しっかりと体を休めてください」
スフィーナの目はとろりと今にも閉じそうになっていた。
上気した頬も熱そうだ。
アンナが首元まで布団をかけると、スフィーナはそっと瞳を閉じた。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
結局スフィーナは新たに作られた粥を口にすることのないまま、深い眠りへと落ちていった。
夜中にふと気が付くと、ゆらゆらと体が揺られているような気がした。
「今日はここで寝なさい。あんな部屋にいては治るものも治らない」
低くて、だけど優しい声がスフィーナの耳朶に響いた。
父だ。
スフィーナは瞼が重くて開けられないまま、ダスティンの声を聞いていた。
「おや……これはサナの。そうか。物置小屋にあったんだな。これが見つかったのなら、そろそろ始めてもいいかもしれない」
何かに気付いたダスティンの呟き声が、低められた。
「もうすぐだ。もう少しの辛抱だよ、スフィーナ」
頭を優しく撫でる手を感じ、スフィーナは再び深い眠りへと落ちていった。
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