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1巻
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私が心の中でそんな言葉を叫んでいたら、火トカゲが一際大きな炎の塊を放った。
どうやら火トカゲは隣の赤髪の男の指示で動いているようだ。
再び青年がその炎を避けると、炎は先にあった床に命中し、もうもうと黒い煙が立ち上る。
「痛っ……!」
それが目に染みて、思わずぎゅっと目を閉じる。瞬きを繰り返すと生理的な涙が零れ落ち、ごしごしと手の甲で目を擦ると、不意に肌寒さを感じた。
部屋の温度が二、三度は確実に下がったような気がするのですが……?
見上げると、彼が奥歯を強く噛みしめ、相手を射殺さんばかりに睨みつけている。
「オイ、ガーディアン。これ以上ノロノロしていたら、俺がアイツを全力でブッ飛ばすぞ」
その迫力に押されたように火トカゲの炎の勢いが衰える。襲撃者も火トカゲに指示を出せず、硬直しているようだ。
すると部屋の天井近くに、鈍色に輝くバレーボールほどの球体が姿を現した。ついで真ん中についている大きなレンズが青から赤に変わり、明滅する。
『リュート・ラングレイ訓練生に召喚された召喚獣は未契約であり、現時点では戦闘系召喚獣ではないと判断されました。これ以上の攻撃は厳罰対象になりますが、攻撃を続けますか? ガイアス・レイブン訓練生』
あれが『ガーディアン』でしょうか?
襲撃者はいまいましげに舌打ちをした後、「面白くねぇ!」と言い捨てると真っ白な壁へ向かって歩き出す。あわやぶつかるというところで、襲撃者が左手の甲を壁にかざすと同時に真っ白な壁が開閉し、何事もなく外へ出て行ってしまった。
あれ? ……あれは自動ドア?
目をこらして見てみると、壁に見えていた場所にまっすぐな継ぎ目のような線が入っており、おそらくそれが扉と壁の境目なのだろう。そのわきには、青白く輝く小さな球体が設置されている。なんとも近未来的な光景だ。
落ち着きを取り戻して、辺りを見渡すと、グレンドルグ王国……いや、ルナティエラの世界どころか、前世の日本でもありえないほどの技術を持った世界なのだとハッキリ分かる。
未だ金色に点滅する床の文字列が目に入る。先程の『異世界』という考えは間違いではなさそうだと実感すると同時に、思わず額に手をあてた。
つまり私は、あの魔法陣みたいなものによって別世界へ飛ばされた――召喚されたということになる。
詳しい説明をしてもらったほうがいいだろうと、未だ私を横抱きにしている青年を見上げる。
「大丈夫か?」
すると私が問いかけるよりも早く口を開いた彼は、私を降ろすと心配そうに顔を覗き込んでくる。気づかわし気に問いかけられて、思い出したように襲いかかってきた乗り物酔いの気持ち悪さに口元を押さえると、彼は優しく背中を擦ってくれた。
その手の感触は、彼の声や外見のように私の気持ちを一瞬で和らげた。
視線を上げて顔を見ると、さらに不自然と思えるほどの安堵が胸に溢れる。
……そういえば、この不思議な感覚も……なんなのでしょう。
何もかも分からないことだらけで混乱する頭を抱えていると、能天気な声が部屋に入ってきた。
「大丈夫ですか? リュート・ラングレイ。本当に君はガイアス・レイブンに睨まれているのですねぇ」
「向こうが勝手に噛み付いてくるんだよ」
「君が悪目立ちをして敵が多いことが理由ではないですかねぇ。また目立つようなこともやらかしたようですし……」
クセのあるくすんだ金色の髪に、糸のように細い水色の目。部屋に入ってきた白衣の男性は細い目をさらに細めて私を見ていた。その目の奥には隠し切れない好奇心が滲んでいて、なんとも嫌な感じだ。
どなたかは存じ上げませんが、そのような不躾な視線は女性に嫌われますよ。
「ビルツ・アクセン。仮にも教師なんだから、もうちょい色々考えて行動したらどうだ。女性に向ける視線じゃねーだろ」
身を竦めていると、彼がスッと体をずらして視線から守ってくれた。青年――リュート様は、「大丈夫だ」というと、私を安心させるように手を包み込んで握ってくれた。触れた場所からじんわりと流れ込んでくる熱に驚いたが、とても安心できる。
そのままの状態でいると、白衣の男――アクセン先生が興味深そうに此方を眺めていることに気が付き、慌てて手を離した。
教師ということは、先程の騒ぎを聞きつけてここにやってきたということなのだろうか。アクセン先生を見上げると、彼はにこにこと手を振り、リュート様に視線を移した。
「人型の召喚獣は大変珍しいですからねぇ。意思疎通はできますか?」
「まだ状況説明もできてねーし、いきなりの襲撃で怖がらせちまっている。ちょっと時間をくれ。もしもの時は、『送還の儀』に入らないといけねーからな」
「送還……アレでできるでしょうかねぇ」
アクセン先生が指さす方向にあったのは床を破壊こそしなかったが、黒焦げで文字が半分以上消えてしまった魔法陣のようなものの残骸。さっき見た時は点滅していた光も今や消えている。それを見た瞬間、リュート様の顔が絶望に染まった。
「嘘だろ……」
「まあ、送還は無理でしょうねぇ、召喚陣を壊されてしまっていますから」
「あのヤロウ!」
「まあ、君にも彼女にも残念ですが、半年後の試験を彼女と共に参加せざるを得なくなったということですねぇ。まあ、これも運命というやつでしょうねぇ」
楽しげにそんなことを言われてしまい、私たちは思わず互いの顔を見合わせた。
えっと……とりあえず、この世界はなんですか? しかも、召喚獣ってどういうことですかっ⁉
悪役令嬢が召喚獣とか、意味が分かりません!
第一章 悪役令嬢が召喚獣
その後、リュート様は「時間が欲しい」とアクセン先生に告げ、私を連れて白い金属で覆われた部屋から出た。どこか残念そうだったアクセン先生の視線を思い出して身震いする。
セルフィス殿下の婚約者であったため、今までも様々な視線を投げかけられてきたが、あんな奇妙な視線は初めてだった。まるで私を珍しいおもちゃか何かだと思っているような視線である。
そんな私の様子を見て、リュート様が申し訳なさそうに私の背中に触れた。
「悪いな。あの教師――アクセンは召喚獣馬鹿で有名なんだ。話しかけられても適当にあしらうから、嫌なら俺の背中に隠れていたらいい」
そんな提案をしてくれる彼は、本当に優しい人なのだろう。
王国内は針の筵だったので気遣いに溢れる対応は久しぶりだ。どう返答したらいいか分からず、内心焦っていると、彼はさほど気にした様子も見せずに話を続けた。
「とりあえず、話ができる場所へ移動しようと思うから、ついてきてほしい」
「わ、分かりました」
少々緊張しながらも頷いてみせると、彼は少し安堵したように表情を緩めた。
長い廊下を歩き、ゆっくりとした足取りで『話ができる場所』へ向かう。
先程の戦闘で体が火照っているのか、それとも普段からそうなのか、襟元を緩めてホッと息をついている姿や、顕わになった喉元がやけに色っぽい。チラリと見ただけで頬が熱くなってしまった。
へ、変ですね……照れるところだったでしょうか。
「本当に痛いところや怪我はないな?」
「お気遣いありがとうございます。なんともございません」
「そうか、ならいいんだが……緊張がほぐれて痛みを感じることもあるから、その時は遠慮なく言ってくれ」
高身長の彼に見下ろされる形で言われ、コクコク頷いていると頭を優しく撫でられてしまった。子供扱いだろうか……と考えていたのだが、その時になって違和感を覚えた。
私の背はグレンドルグ王国の中では高く、踵のある靴を履くとセルフィス殿下と並ぶほどだったけれど、リュート様と比べたら低い。視線をかなり上げないと彼の顔を見ることもできないのだから、私と彼の身長差は歴然としている。
少し視線を下げると、彼が腰から提げている剣が目に入った。先程の戦いで一度も抜かれることはなかったが、かなりの重量があるように見える。それを感じさせない動きで立ち回っていたのだから驚きしかない。
そんな風に周囲を窺いながら廊下を歩いていると、もう一つ気付いたことがあった。
先程のアクセン先生ほどではないにしろ、通りすがる人たちの視線がやけに此方へ向けられるのだ。最初は場違いな私の服装に目がいっているのかと思っていたのだが、私からすぐに視線は隣へと動いている。
男女問わず、すれ違う人が彼を見ているのだ。当人は全く気にしている様子もないので常日頃からこういう視線を投げかけられているのだろう。
姿勢が正しく長身であるだけではなく、青銀色の金属と黒い革で仕上げられた頑丈そうなブーツを履いた脚も長い。彼が目立つ理由のもう一つはその服装だろう。
行き交う人の多くは白に金糸の縁取り模様が入った服を着ているのに、彼は黒地に銀糸の模様が入った騎士服のようなものを纏っている。長衣のように、後ろが長く前はスリットが入っていて、ハイネックの上着は、先程の戦闘でも汚れている様子がない。
素敵なデザインでカッコイイし、黒がとても似合っている……と考えて、また彼ばかり見てしまっていることに気が付いた。
じっくり眺められて気分のいい人はいないだろうと、慌てて視線を逸らす。
それでもついつい視線が彼に向きそうになるのを必死に堪えていると、彼が私に視線を落とした。
「説明が遅れてすまない。今俺たちが向かっているのは、特別室と言われるところだ。そこなら誰にも邪魔されることなく話ができると思う。訳の分からない状況ばかりで申し訳ないが――そこまで、とりあえず我慢してほしい」
何を我慢するのだろうかと首をひねって、はたと気付く。
現状を考えれば、疑問だらけであり不安に思うような状況でしかないはずだ。
隣を歩く彼は案ずるような視線を私に投げかけている。そんな彼に「貴方のことが気になりすぎて状況を気にするどころではなかった」とは言えなかった。
黙り込んだ私に彼は首を傾げ、数回瞬きをしてから周囲を見渡して小さく「なるほど」と呟く。
「周りの視線は気にするな。アンタはその格好だし美人だから目立つんだ……元の世界でもそうだっただろ?」
はい? 皆さんの視線は、貴方に向いているというのに気付いていないのですか?
思わず目を丸くして見上げれば、どうしたと言わんばかりの視線とぶつかり、これは無自覚だと確信してしまった。これほど顔がいい人なら、こういう視線に慣れすぎているのかもしれない。しかし問題はそれだけではない。
『美人』などと言われ慣れない言葉を耳にして、心底驚いてしまったのだ。
もしかしたら彼は目が悪いのかもしれない。それなら、自分に向けられた視線に気が付かないことも理解できると一人で納得していたら、訝しげな視線を向けられた。
視力があまりよくないから、時々眉間にしわを寄せているのですね? あ……でも、彼が眼鏡をかけたらすごく似合うのでは――いや、そうではない。まずは返事をしなければと軽く頭を左右に振り、リュート様に向かって微笑みを浮かべた。
「お世辞でも嬉しいですわ。わたくしは、そのような言葉とは無縁でしたもの」
「は? アンタの世界は変わっているというか……美醜に対しての認識が俺たちとは違うのかもしれないな」
まっすぐな言葉に、思わず変な声が漏れそうになる。
彼は本気で私が美人だと思っているということになるのでしょうか? お世辞を真に受けるのはよくありません。
そう自らに言い聞かせるが、嬉しくて頬が緩みそうだ。
褒められることがあまりなかった人生だったからか彼の褒め言葉は思いがけず、甘く胸に響いた。
そんなやりとりを交わした後、どうやら目的地に到着したようだ。彼は立ち止まると、カウンターにいる受付のお姉さんに話しかけた。
「召喚術師科五十九期生・特殊クラスのリュート・ラングレイだ。特別室を頼みたい。面会はすべて断ってくれないか」
「学生証の提示をお願いします」
「分かった」
学生証と言われてリュート様は左手を差し出している。前世の記憶では、学生証と言えばカード型だったが、彼が左手の中指にはまっている指輪を女性に向けているところを見ると、あの指輪が学生証なのだろう。
それから、学生証となる指輪のデータを認証する道具なのか、ジェルネイルのライトを彷彿とさせる小型の箱の中に手を入れる。
カウンターの女性が、手元にある小さなプレートを確認して小さく頷いた。
「リュート・ラングレイ訓練生と認証しました。時間はどれくらい必要でしょうか」
「あー、すぐにビルツ・アクセンから呼び出しが全員にかかると思うから、それまででいい」
「分かりました。では、B通路五番の部屋をお使いください」
リュート様は了承したというように頷き、私へ手を差し出した。
受付嬢の視線を受けながら彼の手を取り、奥へと進む。
エスコートなんていつぶりだろう。ドキドキしながら周りを見る。
ここに至るまでの廊下もそうだったが、建物の中は全体的に白っぽい造りでとても清潔だ。私がいたグレンドルグ王国とは雲泥の差である。
やがて、先導するリュート様が一つの扉の前に立ち止まった。それから左手の指輪を扉にかざすと、シュッと音を立てて扉が開く。思わず身を竦ませると、その姿をしっかり見られていたのか、彼が楽しげに目を細めている。
……す、すごく恥ずかしいです!
頬が熱くなっているのを咳払いで誤魔化すと、リュート様が室内へ入るように背を優しく押して促してきた。彼に誘われるまま、部屋の中へ入る。
学校の教室というより、病院の一室のような白い壁と床の無機質な部屋だ。
シンプルな机と椅子が中央にあり、部屋の隅には大きなスーパーの休憩所に設置されていたようなドリンクサーバーが置かれている。
席に座るように促され、彼は対面に座るのかと思いきや、サーバーの方へ歩いて行く。
「まあ、これでも飲んで落ち着いてくれ」
リュート様が差し出してくれた薄い金属製のコップの中には、いい香りの緑茶が入っていた。王国では飲めなかった懐かしい飲み物についつい嬉しくなってしまう。顔をほころばせ、お礼を言ってコップを受け取ると、彼はホッとしたように肩の力を抜いた。
こんな風に見たことのある設備を目にすると、やはりここは私の知らない日本のどこかなのではとも思えるが、その可能性は限りなく低いだろう。
襲撃者――ガイアスと呼ばれていた男性が連れていた火トカゲや、火トカゲの放った炎は、前世の日本ではありえない。
そのこともこれから聞けばいいだろう。彼が対面の席に座ったのを見届けてから、私は緑茶に口をつける。金属製のコップにもかかわらず、口当たりは滑らかで金属特有の匂いもしない。懐かしい緑茶独特の香りと甘み、苦味が口内に広がり、ほっと体の力が抜けた。
緑茶を楽しむ私の様子を窺っていた彼は、自分が手にしていた緑茶を飲み干すとコップを置き、いささか低い声で質問してきた。
「まず、その姿から考えて中世ヨーロッパ……は、髪色からしてないな。どこかの王侯貴族というところか?」
……うん? 今、中世ヨーロッパと言いましたか?
思わず言葉もなく目を丸くした私に、彼は、あっ! と声を上げた。
「悪い。まずは、俺の自己紹介が先だな」
コホンと咳払いをして居住まいを正し、彼が此方を向く。地球を思い出すような美しく輝くアースアイが、私を射抜く。
「俺は、リュート・ラングレイ。この国……フォルディア王国で【聖騎士】の称号を預かるラングレイ家の三男だ。今年で二十一歳になる」
フォルディア王国……地球やルナティエラの世界でも、聞いたことがない国名だ。
つまりは、ここは私の生きてきた二つの世界とはさらに違う世界ということで間違いはなさそうだけれど、そうなると先程彼が言った「中世ヨーロッパ」という言葉が異様に思えてくる。
『中世』が存在し、『ヨーロッパ』があるというなら、ここが地球という線もまだ捨てきれない。しかし、地球で『召喚』ということが起こり得るだろうか。確実に私の住んでいた時代ではないため、ここが未来の地球だとすれば科学の進歩が『召喚』という技術をもたらしたという話になるが、どこかのゲームでもあるまいし現実的ではない。
とはいえ、既に私の目の前で起こっている現象も非現実的だ。
情報が増え、余計に混乱した頭でリュート様の話の続きに耳を傾ける。
「ここはこのフォルディア王国の中心都市レイヴァリスにある聖都レイヴァリス学園だ。詳しいことは後で聞くことになる、と思う。今日は、俺たち召喚術師が初めての召喚獣を得るために『召喚の儀』を行っていたんだが、その最中に、妙に気になる何かを見つけたら、アンタを召喚してしまった」
つまり、あの時、私が置かれていた状況を正確に把握した上で連れてきたわけではないようだ。
やや異なる容姿だったとはいえ、あれほど鮮明な姿で此方へ手を伸ばしてきたので幻影だとは思えなかったが、そういう術なのだろう。
「説明する前にあんなことになってしまって、本当に申し訳なかった。あの男――ガイアスは後でシメとく。もちろん元の世界への帰還を望むなら、帰れるように手を尽くす。召喚陣があんな状態になっちまったら普通、同じ場所の同じ時間に戻すのは難しいが、戻す方法を知るヤツに心当たりがあるから大丈夫だ。説明もなく不安にさせてしまい申し訳ない」
頭を下げて謝罪する彼のつむじを見て、一瞬呆気に取られ止まった思考を引き戻し、私は椅子から立ち上がって口を開いた。
「どうか顔を上げてください。此方こそ自己紹介が遅れてしまい申し訳ございませんでした。わたくしは、グレンドルグ王国クロイツェル侯爵の長女で、ルナティエラと申します」
挨拶の言葉を流れるように紡ぎ、できるだけ優雅な所作でカーテシーをして見せる。
頭の中が混乱していようとも、これぐらいはちゃんとやらないと今までどんな教育をされていたのかと笑われてしまう。
するとリュート様は、何かに引っかかりを覚えたように顔を上げて首を傾げた。
「侯爵令嬢……グレンドルグのルナティエラ・クロイツェル?」
どこかで聞いた名前だと彼は呟き、形のいい顎に大きな手をあてて考え込んでいる。
もしかして、私が知らないだけで、ルナティエラの世界にはこれだけの技術を持った国が存在したということ?
まさか……と、何度も瞬きを繰り返していると、彼は大きく目を見開いた。
「思い出した! 『君のためにバラの花束を』とか言う、タイトルの割に生々しい恋愛小説に出てくる悪役令嬢の名前と一緒じゃねーか」
「……それは、此方でも流行っているのですか?」
「いや、ここじゃねーけど……え? 『此方でも』?」
怪訝そうに見つめるリュート様に、失言だったかと考えたが、やはり確認はしておきたい。私はドキドキしながら口を開く。
「ここは……『地球』ではないでしょう?」
「はっ⁉」
ガタリと音を立ててリュート様が椅子から立ち上がる。驚きすぎて次の言葉が出てこないようだ。地球という言葉を聞いてもなんのことだか分からないという顔をせず、混乱する彼を見つめながら、私は予想が間違いではなかったことを確信した。
彼も私と同じ境遇なのだと――
この反応から見て、間違いはないはず。
問いかけの返答を辛抱強く待っていると、彼はかすれた声で呟く。
「そうか、そういうことか……アンタも、転生者なんだな」
私と同じ結論を導き出したらしい彼が、絞り出すように言った。
それに頷き、私は小さな声で続けた。
「はい、そうです。……先程『中世ヨーロッパ』とおっしゃっていた時から、もしかしたらと思っておりました」
私の言葉に苦笑して、リュート様は椅子に座り直した。
色々疑問に感じていたことが氷解し、緊張していた体から自然と力が抜けていく。
つまり、この世界は全くの異世界で、彼は同じく地球の日本から来た転生者であるということだ。目の前の彼が自分と同じ境遇であることで、心に抱えていた孤独のようなものが消え去ったような気がする。前世の記憶を思い出してからというもの、心休まる日などなかったのだ。
少なくともリュート様は、転生者である私の状況を正しく理解してくれるだろう。今の私にとって得がたい味方であると直感的に感じたのであった。
さて、私の方はそんな風に安堵しているのだけれど、彼の方はというと苦悶の表情で頭を抱えている。
何にそれほど苦しんでいるのだろう。もしや私の存在が邪魔なのでは……と不安になったが、その答えはすぐに分かった。
「やべぇ、同じ転生者を召喚とか、俺ってヤツは何やってんの……! しかも、思いっきり意思疎通のできる人間で、全然召喚獣じゃねーだろ!」
うがあああぁっ! と吼えながらリュート様が頭をかきむしっている。意図的な行いではないことは先程聞いたし、あの状況から救い出されたのだから私には感謝の気持ちしかない。それに、あの時彼の手を取ることを選んだのは私自身なのだから、彼だけが責められることではない。
そういった諸々のことをどう伝えようか……と、頭を抱えたまま苦悶する彼を見ながら考えていたが、ハッとする。
『召喚獣』というのだから、召喚主の命令に従い任務を果たす必要があるのかもしれない。それなのに、なんの役にも立たない私が来てしまって……多大な迷惑をかけているのでは?
申し訳なさに胸中で悲鳴を上げながら、慌てて頭を下げる。
「すみません! 私みたいな者が来てしまいまして……」
「は? いや! そうじゃなくて! アンタが来たことに対して責任が発生するのは俺であって……」
「いいえ! あの時、貴方の召喚術は私に選択権をくださったのです。言葉はございませんでしたが、手を差し出して、私に来るかどうかを問うてくださいました。私はその手を取って此方へ来たのですから……」
「いや、俺が気になったところにいきなり大量に魔力を流し込んだから、選択肢があったかどうかすら怪しい。アンタが拒否していても、無理矢理連れてきた可能性だってある。本当に申し訳ない!」
「や、やめてください! 頭を上げてください! 私は貴方の召喚で助かったのですから!」
ガバッと勢いよく頭を下げる彼に驚き、叫ぶように言う。どうか顔を上げてと懇願すると、彼はゆっくりと体を起こしポツリと呟いた。
「ん? 『助かった』……?」
それから私のドレス姿をまじまじと見つめて目を見開く。『君のためにバラの花束を』の最後を思い出したのかもしれない。私は頷き、彼に説明をする。
「はい、セルフィス殿下に婚約破棄をされたところでした。召喚で此方に来なければ、兵士たちに捕らえられ、最終的には国外追放か極刑になっていたはずです」
「ルナティエラ……アンタは話にあったような行いをしたのか?」
「物語にあったような真似はしておりません。ヒロイン……ミュリア様を見て前世の記憶を取り戻し、自分の身に破滅が迫っていると分かってからは、周囲や自分自身も怖くて誰にも近づけませんでした」
「冤罪かよ……」
苦虫を噛み潰したような顔をした彼の呟きを聞きながら、私はパーティーでの断罪を思い出し、改めて身震いした。
「極刑はもちろんだが、国外追放も『あの小説』では死を意味していた。酷いことを……」
「そういう事情ですから、本当に助かったのです」
「助かったかどうかは、まだ分からないだろ? 俺が悪いヤツだったらどーすんだよ」
「本当に悪い人は、そんなこと言いませんもの」
リュート様の言葉に首を振る。
どうやら火トカゲは隣の赤髪の男の指示で動いているようだ。
再び青年がその炎を避けると、炎は先にあった床に命中し、もうもうと黒い煙が立ち上る。
「痛っ……!」
それが目に染みて、思わずぎゅっと目を閉じる。瞬きを繰り返すと生理的な涙が零れ落ち、ごしごしと手の甲で目を擦ると、不意に肌寒さを感じた。
部屋の温度が二、三度は確実に下がったような気がするのですが……?
見上げると、彼が奥歯を強く噛みしめ、相手を射殺さんばかりに睨みつけている。
「オイ、ガーディアン。これ以上ノロノロしていたら、俺がアイツを全力でブッ飛ばすぞ」
その迫力に押されたように火トカゲの炎の勢いが衰える。襲撃者も火トカゲに指示を出せず、硬直しているようだ。
すると部屋の天井近くに、鈍色に輝くバレーボールほどの球体が姿を現した。ついで真ん中についている大きなレンズが青から赤に変わり、明滅する。
『リュート・ラングレイ訓練生に召喚された召喚獣は未契約であり、現時点では戦闘系召喚獣ではないと判断されました。これ以上の攻撃は厳罰対象になりますが、攻撃を続けますか? ガイアス・レイブン訓練生』
あれが『ガーディアン』でしょうか?
襲撃者はいまいましげに舌打ちをした後、「面白くねぇ!」と言い捨てると真っ白な壁へ向かって歩き出す。あわやぶつかるというところで、襲撃者が左手の甲を壁にかざすと同時に真っ白な壁が開閉し、何事もなく外へ出て行ってしまった。
あれ? ……あれは自動ドア?
目をこらして見てみると、壁に見えていた場所にまっすぐな継ぎ目のような線が入っており、おそらくそれが扉と壁の境目なのだろう。そのわきには、青白く輝く小さな球体が設置されている。なんとも近未来的な光景だ。
落ち着きを取り戻して、辺りを見渡すと、グレンドルグ王国……いや、ルナティエラの世界どころか、前世の日本でもありえないほどの技術を持った世界なのだとハッキリ分かる。
未だ金色に点滅する床の文字列が目に入る。先程の『異世界』という考えは間違いではなさそうだと実感すると同時に、思わず額に手をあてた。
つまり私は、あの魔法陣みたいなものによって別世界へ飛ばされた――召喚されたということになる。
詳しい説明をしてもらったほうがいいだろうと、未だ私を横抱きにしている青年を見上げる。
「大丈夫か?」
すると私が問いかけるよりも早く口を開いた彼は、私を降ろすと心配そうに顔を覗き込んでくる。気づかわし気に問いかけられて、思い出したように襲いかかってきた乗り物酔いの気持ち悪さに口元を押さえると、彼は優しく背中を擦ってくれた。
その手の感触は、彼の声や外見のように私の気持ちを一瞬で和らげた。
視線を上げて顔を見ると、さらに不自然と思えるほどの安堵が胸に溢れる。
……そういえば、この不思議な感覚も……なんなのでしょう。
何もかも分からないことだらけで混乱する頭を抱えていると、能天気な声が部屋に入ってきた。
「大丈夫ですか? リュート・ラングレイ。本当に君はガイアス・レイブンに睨まれているのですねぇ」
「向こうが勝手に噛み付いてくるんだよ」
「君が悪目立ちをして敵が多いことが理由ではないですかねぇ。また目立つようなこともやらかしたようですし……」
クセのあるくすんだ金色の髪に、糸のように細い水色の目。部屋に入ってきた白衣の男性は細い目をさらに細めて私を見ていた。その目の奥には隠し切れない好奇心が滲んでいて、なんとも嫌な感じだ。
どなたかは存じ上げませんが、そのような不躾な視線は女性に嫌われますよ。
「ビルツ・アクセン。仮にも教師なんだから、もうちょい色々考えて行動したらどうだ。女性に向ける視線じゃねーだろ」
身を竦めていると、彼がスッと体をずらして視線から守ってくれた。青年――リュート様は、「大丈夫だ」というと、私を安心させるように手を包み込んで握ってくれた。触れた場所からじんわりと流れ込んでくる熱に驚いたが、とても安心できる。
そのままの状態でいると、白衣の男――アクセン先生が興味深そうに此方を眺めていることに気が付き、慌てて手を離した。
教師ということは、先程の騒ぎを聞きつけてここにやってきたということなのだろうか。アクセン先生を見上げると、彼はにこにこと手を振り、リュート様に視線を移した。
「人型の召喚獣は大変珍しいですからねぇ。意思疎通はできますか?」
「まだ状況説明もできてねーし、いきなりの襲撃で怖がらせちまっている。ちょっと時間をくれ。もしもの時は、『送還の儀』に入らないといけねーからな」
「送還……アレでできるでしょうかねぇ」
アクセン先生が指さす方向にあったのは床を破壊こそしなかったが、黒焦げで文字が半分以上消えてしまった魔法陣のようなものの残骸。さっき見た時は点滅していた光も今や消えている。それを見た瞬間、リュート様の顔が絶望に染まった。
「嘘だろ……」
「まあ、送還は無理でしょうねぇ、召喚陣を壊されてしまっていますから」
「あのヤロウ!」
「まあ、君にも彼女にも残念ですが、半年後の試験を彼女と共に参加せざるを得なくなったということですねぇ。まあ、これも運命というやつでしょうねぇ」
楽しげにそんなことを言われてしまい、私たちは思わず互いの顔を見合わせた。
えっと……とりあえず、この世界はなんですか? しかも、召喚獣ってどういうことですかっ⁉
悪役令嬢が召喚獣とか、意味が分かりません!
第一章 悪役令嬢が召喚獣
その後、リュート様は「時間が欲しい」とアクセン先生に告げ、私を連れて白い金属で覆われた部屋から出た。どこか残念そうだったアクセン先生の視線を思い出して身震いする。
セルフィス殿下の婚約者であったため、今までも様々な視線を投げかけられてきたが、あんな奇妙な視線は初めてだった。まるで私を珍しいおもちゃか何かだと思っているような視線である。
そんな私の様子を見て、リュート様が申し訳なさそうに私の背中に触れた。
「悪いな。あの教師――アクセンは召喚獣馬鹿で有名なんだ。話しかけられても適当にあしらうから、嫌なら俺の背中に隠れていたらいい」
そんな提案をしてくれる彼は、本当に優しい人なのだろう。
王国内は針の筵だったので気遣いに溢れる対応は久しぶりだ。どう返答したらいいか分からず、内心焦っていると、彼はさほど気にした様子も見せずに話を続けた。
「とりあえず、話ができる場所へ移動しようと思うから、ついてきてほしい」
「わ、分かりました」
少々緊張しながらも頷いてみせると、彼は少し安堵したように表情を緩めた。
長い廊下を歩き、ゆっくりとした足取りで『話ができる場所』へ向かう。
先程の戦闘で体が火照っているのか、それとも普段からそうなのか、襟元を緩めてホッと息をついている姿や、顕わになった喉元がやけに色っぽい。チラリと見ただけで頬が熱くなってしまった。
へ、変ですね……照れるところだったでしょうか。
「本当に痛いところや怪我はないな?」
「お気遣いありがとうございます。なんともございません」
「そうか、ならいいんだが……緊張がほぐれて痛みを感じることもあるから、その時は遠慮なく言ってくれ」
高身長の彼に見下ろされる形で言われ、コクコク頷いていると頭を優しく撫でられてしまった。子供扱いだろうか……と考えていたのだが、その時になって違和感を覚えた。
私の背はグレンドルグ王国の中では高く、踵のある靴を履くとセルフィス殿下と並ぶほどだったけれど、リュート様と比べたら低い。視線をかなり上げないと彼の顔を見ることもできないのだから、私と彼の身長差は歴然としている。
少し視線を下げると、彼が腰から提げている剣が目に入った。先程の戦いで一度も抜かれることはなかったが、かなりの重量があるように見える。それを感じさせない動きで立ち回っていたのだから驚きしかない。
そんな風に周囲を窺いながら廊下を歩いていると、もう一つ気付いたことがあった。
先程のアクセン先生ほどではないにしろ、通りすがる人たちの視線がやけに此方へ向けられるのだ。最初は場違いな私の服装に目がいっているのかと思っていたのだが、私からすぐに視線は隣へと動いている。
男女問わず、すれ違う人が彼を見ているのだ。当人は全く気にしている様子もないので常日頃からこういう視線を投げかけられているのだろう。
姿勢が正しく長身であるだけではなく、青銀色の金属と黒い革で仕上げられた頑丈そうなブーツを履いた脚も長い。彼が目立つ理由のもう一つはその服装だろう。
行き交う人の多くは白に金糸の縁取り模様が入った服を着ているのに、彼は黒地に銀糸の模様が入った騎士服のようなものを纏っている。長衣のように、後ろが長く前はスリットが入っていて、ハイネックの上着は、先程の戦闘でも汚れている様子がない。
素敵なデザインでカッコイイし、黒がとても似合っている……と考えて、また彼ばかり見てしまっていることに気が付いた。
じっくり眺められて気分のいい人はいないだろうと、慌てて視線を逸らす。
それでもついつい視線が彼に向きそうになるのを必死に堪えていると、彼が私に視線を落とした。
「説明が遅れてすまない。今俺たちが向かっているのは、特別室と言われるところだ。そこなら誰にも邪魔されることなく話ができると思う。訳の分からない状況ばかりで申し訳ないが――そこまで、とりあえず我慢してほしい」
何を我慢するのだろうかと首をひねって、はたと気付く。
現状を考えれば、疑問だらけであり不安に思うような状況でしかないはずだ。
隣を歩く彼は案ずるような視線を私に投げかけている。そんな彼に「貴方のことが気になりすぎて状況を気にするどころではなかった」とは言えなかった。
黙り込んだ私に彼は首を傾げ、数回瞬きをしてから周囲を見渡して小さく「なるほど」と呟く。
「周りの視線は気にするな。アンタはその格好だし美人だから目立つんだ……元の世界でもそうだっただろ?」
はい? 皆さんの視線は、貴方に向いているというのに気付いていないのですか?
思わず目を丸くして見上げれば、どうしたと言わんばかりの視線とぶつかり、これは無自覚だと確信してしまった。これほど顔がいい人なら、こういう視線に慣れすぎているのかもしれない。しかし問題はそれだけではない。
『美人』などと言われ慣れない言葉を耳にして、心底驚いてしまったのだ。
もしかしたら彼は目が悪いのかもしれない。それなら、自分に向けられた視線に気が付かないことも理解できると一人で納得していたら、訝しげな視線を向けられた。
視力があまりよくないから、時々眉間にしわを寄せているのですね? あ……でも、彼が眼鏡をかけたらすごく似合うのでは――いや、そうではない。まずは返事をしなければと軽く頭を左右に振り、リュート様に向かって微笑みを浮かべた。
「お世辞でも嬉しいですわ。わたくしは、そのような言葉とは無縁でしたもの」
「は? アンタの世界は変わっているというか……美醜に対しての認識が俺たちとは違うのかもしれないな」
まっすぐな言葉に、思わず変な声が漏れそうになる。
彼は本気で私が美人だと思っているということになるのでしょうか? お世辞を真に受けるのはよくありません。
そう自らに言い聞かせるが、嬉しくて頬が緩みそうだ。
褒められることがあまりなかった人生だったからか彼の褒め言葉は思いがけず、甘く胸に響いた。
そんなやりとりを交わした後、どうやら目的地に到着したようだ。彼は立ち止まると、カウンターにいる受付のお姉さんに話しかけた。
「召喚術師科五十九期生・特殊クラスのリュート・ラングレイだ。特別室を頼みたい。面会はすべて断ってくれないか」
「学生証の提示をお願いします」
「分かった」
学生証と言われてリュート様は左手を差し出している。前世の記憶では、学生証と言えばカード型だったが、彼が左手の中指にはまっている指輪を女性に向けているところを見ると、あの指輪が学生証なのだろう。
それから、学生証となる指輪のデータを認証する道具なのか、ジェルネイルのライトを彷彿とさせる小型の箱の中に手を入れる。
カウンターの女性が、手元にある小さなプレートを確認して小さく頷いた。
「リュート・ラングレイ訓練生と認証しました。時間はどれくらい必要でしょうか」
「あー、すぐにビルツ・アクセンから呼び出しが全員にかかると思うから、それまででいい」
「分かりました。では、B通路五番の部屋をお使いください」
リュート様は了承したというように頷き、私へ手を差し出した。
受付嬢の視線を受けながら彼の手を取り、奥へと進む。
エスコートなんていつぶりだろう。ドキドキしながら周りを見る。
ここに至るまでの廊下もそうだったが、建物の中は全体的に白っぽい造りでとても清潔だ。私がいたグレンドルグ王国とは雲泥の差である。
やがて、先導するリュート様が一つの扉の前に立ち止まった。それから左手の指輪を扉にかざすと、シュッと音を立てて扉が開く。思わず身を竦ませると、その姿をしっかり見られていたのか、彼が楽しげに目を細めている。
……す、すごく恥ずかしいです!
頬が熱くなっているのを咳払いで誤魔化すと、リュート様が室内へ入るように背を優しく押して促してきた。彼に誘われるまま、部屋の中へ入る。
学校の教室というより、病院の一室のような白い壁と床の無機質な部屋だ。
シンプルな机と椅子が中央にあり、部屋の隅には大きなスーパーの休憩所に設置されていたようなドリンクサーバーが置かれている。
席に座るように促され、彼は対面に座るのかと思いきや、サーバーの方へ歩いて行く。
「まあ、これでも飲んで落ち着いてくれ」
リュート様が差し出してくれた薄い金属製のコップの中には、いい香りの緑茶が入っていた。王国では飲めなかった懐かしい飲み物についつい嬉しくなってしまう。顔をほころばせ、お礼を言ってコップを受け取ると、彼はホッとしたように肩の力を抜いた。
こんな風に見たことのある設備を目にすると、やはりここは私の知らない日本のどこかなのではとも思えるが、その可能性は限りなく低いだろう。
襲撃者――ガイアスと呼ばれていた男性が連れていた火トカゲや、火トカゲの放った炎は、前世の日本ではありえない。
そのこともこれから聞けばいいだろう。彼が対面の席に座ったのを見届けてから、私は緑茶に口をつける。金属製のコップにもかかわらず、口当たりは滑らかで金属特有の匂いもしない。懐かしい緑茶独特の香りと甘み、苦味が口内に広がり、ほっと体の力が抜けた。
緑茶を楽しむ私の様子を窺っていた彼は、自分が手にしていた緑茶を飲み干すとコップを置き、いささか低い声で質問してきた。
「まず、その姿から考えて中世ヨーロッパ……は、髪色からしてないな。どこかの王侯貴族というところか?」
……うん? 今、中世ヨーロッパと言いましたか?
思わず言葉もなく目を丸くした私に、彼は、あっ! と声を上げた。
「悪い。まずは、俺の自己紹介が先だな」
コホンと咳払いをして居住まいを正し、彼が此方を向く。地球を思い出すような美しく輝くアースアイが、私を射抜く。
「俺は、リュート・ラングレイ。この国……フォルディア王国で【聖騎士】の称号を預かるラングレイ家の三男だ。今年で二十一歳になる」
フォルディア王国……地球やルナティエラの世界でも、聞いたことがない国名だ。
つまりは、ここは私の生きてきた二つの世界とはさらに違う世界ということで間違いはなさそうだけれど、そうなると先程彼が言った「中世ヨーロッパ」という言葉が異様に思えてくる。
『中世』が存在し、『ヨーロッパ』があるというなら、ここが地球という線もまだ捨てきれない。しかし、地球で『召喚』ということが起こり得るだろうか。確実に私の住んでいた時代ではないため、ここが未来の地球だとすれば科学の進歩が『召喚』という技術をもたらしたという話になるが、どこかのゲームでもあるまいし現実的ではない。
とはいえ、既に私の目の前で起こっている現象も非現実的だ。
情報が増え、余計に混乱した頭でリュート様の話の続きに耳を傾ける。
「ここはこのフォルディア王国の中心都市レイヴァリスにある聖都レイヴァリス学園だ。詳しいことは後で聞くことになる、と思う。今日は、俺たち召喚術師が初めての召喚獣を得るために『召喚の儀』を行っていたんだが、その最中に、妙に気になる何かを見つけたら、アンタを召喚してしまった」
つまり、あの時、私が置かれていた状況を正確に把握した上で連れてきたわけではないようだ。
やや異なる容姿だったとはいえ、あれほど鮮明な姿で此方へ手を伸ばしてきたので幻影だとは思えなかったが、そういう術なのだろう。
「説明する前にあんなことになってしまって、本当に申し訳なかった。あの男――ガイアスは後でシメとく。もちろん元の世界への帰還を望むなら、帰れるように手を尽くす。召喚陣があんな状態になっちまったら普通、同じ場所の同じ時間に戻すのは難しいが、戻す方法を知るヤツに心当たりがあるから大丈夫だ。説明もなく不安にさせてしまい申し訳ない」
頭を下げて謝罪する彼のつむじを見て、一瞬呆気に取られ止まった思考を引き戻し、私は椅子から立ち上がって口を開いた。
「どうか顔を上げてください。此方こそ自己紹介が遅れてしまい申し訳ございませんでした。わたくしは、グレンドルグ王国クロイツェル侯爵の長女で、ルナティエラと申します」
挨拶の言葉を流れるように紡ぎ、できるだけ優雅な所作でカーテシーをして見せる。
頭の中が混乱していようとも、これぐらいはちゃんとやらないと今までどんな教育をされていたのかと笑われてしまう。
するとリュート様は、何かに引っかかりを覚えたように顔を上げて首を傾げた。
「侯爵令嬢……グレンドルグのルナティエラ・クロイツェル?」
どこかで聞いた名前だと彼は呟き、形のいい顎に大きな手をあてて考え込んでいる。
もしかして、私が知らないだけで、ルナティエラの世界にはこれだけの技術を持った国が存在したということ?
まさか……と、何度も瞬きを繰り返していると、彼は大きく目を見開いた。
「思い出した! 『君のためにバラの花束を』とか言う、タイトルの割に生々しい恋愛小説に出てくる悪役令嬢の名前と一緒じゃねーか」
「……それは、此方でも流行っているのですか?」
「いや、ここじゃねーけど……え? 『此方でも』?」
怪訝そうに見つめるリュート様に、失言だったかと考えたが、やはり確認はしておきたい。私はドキドキしながら口を開く。
「ここは……『地球』ではないでしょう?」
「はっ⁉」
ガタリと音を立ててリュート様が椅子から立ち上がる。驚きすぎて次の言葉が出てこないようだ。地球という言葉を聞いてもなんのことだか分からないという顔をせず、混乱する彼を見つめながら、私は予想が間違いではなかったことを確信した。
彼も私と同じ境遇なのだと――
この反応から見て、間違いはないはず。
問いかけの返答を辛抱強く待っていると、彼はかすれた声で呟く。
「そうか、そういうことか……アンタも、転生者なんだな」
私と同じ結論を導き出したらしい彼が、絞り出すように言った。
それに頷き、私は小さな声で続けた。
「はい、そうです。……先程『中世ヨーロッパ』とおっしゃっていた時から、もしかしたらと思っておりました」
私の言葉に苦笑して、リュート様は椅子に座り直した。
色々疑問に感じていたことが氷解し、緊張していた体から自然と力が抜けていく。
つまり、この世界は全くの異世界で、彼は同じく地球の日本から来た転生者であるということだ。目の前の彼が自分と同じ境遇であることで、心に抱えていた孤独のようなものが消え去ったような気がする。前世の記憶を思い出してからというもの、心休まる日などなかったのだ。
少なくともリュート様は、転生者である私の状況を正しく理解してくれるだろう。今の私にとって得がたい味方であると直感的に感じたのであった。
さて、私の方はそんな風に安堵しているのだけれど、彼の方はというと苦悶の表情で頭を抱えている。
何にそれほど苦しんでいるのだろう。もしや私の存在が邪魔なのでは……と不安になったが、その答えはすぐに分かった。
「やべぇ、同じ転生者を召喚とか、俺ってヤツは何やってんの……! しかも、思いっきり意思疎通のできる人間で、全然召喚獣じゃねーだろ!」
うがあああぁっ! と吼えながらリュート様が頭をかきむしっている。意図的な行いではないことは先程聞いたし、あの状況から救い出されたのだから私には感謝の気持ちしかない。それに、あの時彼の手を取ることを選んだのは私自身なのだから、彼だけが責められることではない。
そういった諸々のことをどう伝えようか……と、頭を抱えたまま苦悶する彼を見ながら考えていたが、ハッとする。
『召喚獣』というのだから、召喚主の命令に従い任務を果たす必要があるのかもしれない。それなのに、なんの役にも立たない私が来てしまって……多大な迷惑をかけているのでは?
申し訳なさに胸中で悲鳴を上げながら、慌てて頭を下げる。
「すみません! 私みたいな者が来てしまいまして……」
「は? いや! そうじゃなくて! アンタが来たことに対して責任が発生するのは俺であって……」
「いいえ! あの時、貴方の召喚術は私に選択権をくださったのです。言葉はございませんでしたが、手を差し出して、私に来るかどうかを問うてくださいました。私はその手を取って此方へ来たのですから……」
「いや、俺が気になったところにいきなり大量に魔力を流し込んだから、選択肢があったかどうかすら怪しい。アンタが拒否していても、無理矢理連れてきた可能性だってある。本当に申し訳ない!」
「や、やめてください! 頭を上げてください! 私は貴方の召喚で助かったのですから!」
ガバッと勢いよく頭を下げる彼に驚き、叫ぶように言う。どうか顔を上げてと懇願すると、彼はゆっくりと体を起こしポツリと呟いた。
「ん? 『助かった』……?」
それから私のドレス姿をまじまじと見つめて目を見開く。『君のためにバラの花束を』の最後を思い出したのかもしれない。私は頷き、彼に説明をする。
「はい、セルフィス殿下に婚約破棄をされたところでした。召喚で此方に来なければ、兵士たちに捕らえられ、最終的には国外追放か極刑になっていたはずです」
「ルナティエラ……アンタは話にあったような行いをしたのか?」
「物語にあったような真似はしておりません。ヒロイン……ミュリア様を見て前世の記憶を取り戻し、自分の身に破滅が迫っていると分かってからは、周囲や自分自身も怖くて誰にも近づけませんでした」
「冤罪かよ……」
苦虫を噛み潰したような顔をした彼の呟きを聞きながら、私はパーティーでの断罪を思い出し、改めて身震いした。
「極刑はもちろんだが、国外追放も『あの小説』では死を意味していた。酷いことを……」
「そういう事情ですから、本当に助かったのです」
「助かったかどうかは、まだ分からないだろ? 俺が悪いヤツだったらどーすんだよ」
「本当に悪い人は、そんなこと言いませんもの」
リュート様の言葉に首を振る。
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