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5. 新しい生活
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王宮での生活はやはり辛かった。
今までとは全く違うきらびやかな世界。綺麗な人々の、毒のような嘲笑。表と裏の、本音が隠された言い回し。今までとは何もかも違う新しい生活に、リアンたちは時に翻弄されながらも、騎士として一歩、一歩、確実に腕を磨いていった。
特にリアンは、今までよりも深く剣の鍛錬に打ち込んだ。それはオーウェンが心配するほど激しいものだったが、今のリアンにはそれしか縋るものがなかった。
ナタリーとの別れが、ふとした瞬間に彼の頭をよぎる。裏切られた、という思いに囚われ、そんな自分が女々しくて嫌になる。彼女に会えないことに安堵する一方で、会いたくてたまらない夜がある。矛盾した心を振り払うように、彼は剣をふるった。先輩騎士に褒められ、かつて父の上官だという人間に認められても、どうでもよかった。
(ナタリー……)
休みの日には必ず帰ると約束したが、リアンはとてもナタリーに会う勇気が出なかった。代わりに手紙と、いくばくかの金を一緒に添えて送ることにした。ナタリーの住む孤児院の手助けをしてほしいと、信頼できる知り合いに頼みもした。
手紙はきちんとナタリーのもとへ届いたようで、律儀に返事が送られてくる。孤児院の経営を援助したことへの感謝、それとリアンの体調を気遣う旨が書かれており、リアンは頬を緩ませながらすぐに返事を書いた。二人はそれを何度も何度も、欠かさず繰り返した。
そういうわけで、リアンがナタリーを忘れることは結局一日もなかった。
***
季節は流れ、長い冬から春の訪れを感じさせる暖かさが王都でも感じられるようになった。
「リアン、宰相のお見合いを断ったというのは本当ですか?」
ラシア国の第一王女、アリシアがそう尋ねると、半ば強引にお茶の席に勧めたリアンはあやうく紅茶を吹き出しそうになった。かろうじて飲み込んだが、大いにむせしまい、周囲の侍女の失笑を買っている。彼は非常に気まずい顔をしながらも、とりなすように咳払いした。
「あの、それをどこで」
「お父さまや侍女といったありとあらゆる方から聞きましたわ」
そんなに、とリアンは王宮の噂好きに半ば怖くなり、うんざりする思いだった。
「どうして、結婚なさらないの?」
「どうして、といわれましても私にはまだ早いからですよ」
アリシアはまるで宝石のようだと褒められる緑の瞳でじっとリアンを見つめた。
「では、騎士団長の娘はどうでしょうか?」
アリシアは口ではそう勧めながらも、内心ではリアンが断ってくれることを期待していた。自分にはまだ結婚が早い、という断り方ではなく、自分には王女を守る大事な役割があるから。──その裏に込められた自分への愛を王女はリアンに期待した。けれど――
「無駄ですよ。王女殿下。彼にはもう決まった相手がいるんですから」
答えたのはリアンではなく、同席していたジョナスだった。整った顔立ちではあるが、どこか酷薄そうな印象を与える彼はその有能さで国王に気に入られており、アリシアもまた美しい彼を相談役のように頼りにしていた。
「それはどういうことなの。ジョナス?」
切れ長の目を猫のように細め、ジョナスは微笑んだ。
「いえ、騎士団の中でも不思議だったんですよ。リアン殿は令嬢や侍女たちから熱烈に慕われているのに、少しも相手にしてくれない。あまりにもつれない態度なので、実は女に興味がないのではないか、とまで言われてましてね」
「そうなの?」
アリシア王女はリアンが今まで女性に見向きもしないのはそういう理由だったのかと衝撃を受けたように固まった。
「殿下、真に受けないでください」
苦虫を噛み潰したような顔でリアンがジョナスの言葉を否定する。
「では、真実ではないと?」
「当たり前です」
よかった、とアリシアは胸をなで下ろした。そして元凶であるジョナスを睨む。王女の咎める視線にも、彼は肩を竦めるだけだ。
「話は最後まで聞くものですよ」
「……そうね。ではその後どうなったのか教えていただける?」
「これでは埒が明かないと、彼の幼なじみであるオーウェン殿に話を聞くことにしたんです。そしたら、彼は同じ村の出身である少女が忘れられないのだと」
「まあ」
アリシアは本当なのかとリアンの方を見る。彼は居たたまれないような、怒ったような、複雑な顔をしていた。けれど今度はジョナスの言葉を否定しなかった。アリシアの胸がざわつく。
彼女にとって、リアンは今までの男性とは違う、特別な人だった。それは彼と出会った時からずっと変わらない。
幼くもその実力を周囲に知らしめた彼をアリシアは興味本位で呼びつけ、彼を自分の騎士にすることを決めた。まだ若すぎるのではないかと諫める者もいたが、アリシアを溺愛する国王は娘の要求を叶えてやった。そして――
「リアン、あなたをわたくしの騎士として任じます」
凛とした声とともに剣がリアンの肩に置かれる。あの、大勢の者たちが観ている中で交わされた誓い。王女殿下を守ると言ってくれたリアンの瞳。恭しく剣を受け取り、立ち上がった彼がさっと振り返ると、人々の惜しみない拍手が若々しい青年を歓迎した。
あの輝かしい瞬間を、アリシアは決して忘れない。それはリアンにとっても同じだろうと信じていた。
(ああ、リアン。あなたはいつ見てもなんて素敵なんでしょう……)
夜空を思わせる髪は肩まであり、後ろで一つに結んである。髪色と同じ目は常に前を見据え、鼻筋は通って、唇は薄く、凛々しい顔立ちは気品があった。今までアリシアが出会った男性の中で一番、特別に見えた。
少年から青年へと変わっていく彼を誰よりもそばで見てきた。特別だという思いは日に日に大きくなってゆく。
アリシアはこの青年の心を自分に向けさせたいと思った。
それができると、アリシアは何の不安もなく、今の今まで思っていた。それだけにジョナスの話は衝撃的であり、どうか嘘であってほしいと願うようにリアンを見つめた。
「本当なのですか、リアン」
「……そうですね、嘘かどうかと聞かれましたら、本当ですと申し上げるしかありません」
そっと目を伏せるリアンの表情は柔らかく、まるでその相手を愛しているようで……アリシアの心が絶望で染まってゆく瞬間だった。
(嫌。そんなの嫌!)
リアンは自分のものでなければならない。自分を愛してくれなければならない。アリシアはそうはっきりと悟った。
今までとは全く違うきらびやかな世界。綺麗な人々の、毒のような嘲笑。表と裏の、本音が隠された言い回し。今までとは何もかも違う新しい生活に、リアンたちは時に翻弄されながらも、騎士として一歩、一歩、確実に腕を磨いていった。
特にリアンは、今までよりも深く剣の鍛錬に打ち込んだ。それはオーウェンが心配するほど激しいものだったが、今のリアンにはそれしか縋るものがなかった。
ナタリーとの別れが、ふとした瞬間に彼の頭をよぎる。裏切られた、という思いに囚われ、そんな自分が女々しくて嫌になる。彼女に会えないことに安堵する一方で、会いたくてたまらない夜がある。矛盾した心を振り払うように、彼は剣をふるった。先輩騎士に褒められ、かつて父の上官だという人間に認められても、どうでもよかった。
(ナタリー……)
休みの日には必ず帰ると約束したが、リアンはとてもナタリーに会う勇気が出なかった。代わりに手紙と、いくばくかの金を一緒に添えて送ることにした。ナタリーの住む孤児院の手助けをしてほしいと、信頼できる知り合いに頼みもした。
手紙はきちんとナタリーのもとへ届いたようで、律儀に返事が送られてくる。孤児院の経営を援助したことへの感謝、それとリアンの体調を気遣う旨が書かれており、リアンは頬を緩ませながらすぐに返事を書いた。二人はそれを何度も何度も、欠かさず繰り返した。
そういうわけで、リアンがナタリーを忘れることは結局一日もなかった。
***
季節は流れ、長い冬から春の訪れを感じさせる暖かさが王都でも感じられるようになった。
「リアン、宰相のお見合いを断ったというのは本当ですか?」
ラシア国の第一王女、アリシアがそう尋ねると、半ば強引にお茶の席に勧めたリアンはあやうく紅茶を吹き出しそうになった。かろうじて飲み込んだが、大いにむせしまい、周囲の侍女の失笑を買っている。彼は非常に気まずい顔をしながらも、とりなすように咳払いした。
「あの、それをどこで」
「お父さまや侍女といったありとあらゆる方から聞きましたわ」
そんなに、とリアンは王宮の噂好きに半ば怖くなり、うんざりする思いだった。
「どうして、結婚なさらないの?」
「どうして、といわれましても私にはまだ早いからですよ」
アリシアはまるで宝石のようだと褒められる緑の瞳でじっとリアンを見つめた。
「では、騎士団長の娘はどうでしょうか?」
アリシアは口ではそう勧めながらも、内心ではリアンが断ってくれることを期待していた。自分にはまだ結婚が早い、という断り方ではなく、自分には王女を守る大事な役割があるから。──その裏に込められた自分への愛を王女はリアンに期待した。けれど――
「無駄ですよ。王女殿下。彼にはもう決まった相手がいるんですから」
答えたのはリアンではなく、同席していたジョナスだった。整った顔立ちではあるが、どこか酷薄そうな印象を与える彼はその有能さで国王に気に入られており、アリシアもまた美しい彼を相談役のように頼りにしていた。
「それはどういうことなの。ジョナス?」
切れ長の目を猫のように細め、ジョナスは微笑んだ。
「いえ、騎士団の中でも不思議だったんですよ。リアン殿は令嬢や侍女たちから熱烈に慕われているのに、少しも相手にしてくれない。あまりにもつれない態度なので、実は女に興味がないのではないか、とまで言われてましてね」
「そうなの?」
アリシア王女はリアンが今まで女性に見向きもしないのはそういう理由だったのかと衝撃を受けたように固まった。
「殿下、真に受けないでください」
苦虫を噛み潰したような顔でリアンがジョナスの言葉を否定する。
「では、真実ではないと?」
「当たり前です」
よかった、とアリシアは胸をなで下ろした。そして元凶であるジョナスを睨む。王女の咎める視線にも、彼は肩を竦めるだけだ。
「話は最後まで聞くものですよ」
「……そうね。ではその後どうなったのか教えていただける?」
「これでは埒が明かないと、彼の幼なじみであるオーウェン殿に話を聞くことにしたんです。そしたら、彼は同じ村の出身である少女が忘れられないのだと」
「まあ」
アリシアは本当なのかとリアンの方を見る。彼は居たたまれないような、怒ったような、複雑な顔をしていた。けれど今度はジョナスの言葉を否定しなかった。アリシアの胸がざわつく。
彼女にとって、リアンは今までの男性とは違う、特別な人だった。それは彼と出会った時からずっと変わらない。
幼くもその実力を周囲に知らしめた彼をアリシアは興味本位で呼びつけ、彼を自分の騎士にすることを決めた。まだ若すぎるのではないかと諫める者もいたが、アリシアを溺愛する国王は娘の要求を叶えてやった。そして――
「リアン、あなたをわたくしの騎士として任じます」
凛とした声とともに剣がリアンの肩に置かれる。あの、大勢の者たちが観ている中で交わされた誓い。王女殿下を守ると言ってくれたリアンの瞳。恭しく剣を受け取り、立ち上がった彼がさっと振り返ると、人々の惜しみない拍手が若々しい青年を歓迎した。
あの輝かしい瞬間を、アリシアは決して忘れない。それはリアンにとっても同じだろうと信じていた。
(ああ、リアン。あなたはいつ見てもなんて素敵なんでしょう……)
夜空を思わせる髪は肩まであり、後ろで一つに結んである。髪色と同じ目は常に前を見据え、鼻筋は通って、唇は薄く、凛々しい顔立ちは気品があった。今までアリシアが出会った男性の中で一番、特別に見えた。
少年から青年へと変わっていく彼を誰よりもそばで見てきた。特別だという思いは日に日に大きくなってゆく。
アリシアはこの青年の心を自分に向けさせたいと思った。
それができると、アリシアは何の不安もなく、今の今まで思っていた。それだけにジョナスの話は衝撃的であり、どうか嘘であってほしいと願うようにリアンを見つめた。
「本当なのですか、リアン」
「……そうですね、嘘かどうかと聞かれましたら、本当ですと申し上げるしかありません」
そっと目を伏せるリアンの表情は柔らかく、まるでその相手を愛しているようで……アリシアの心が絶望で染まってゆく瞬間だった。
(嫌。そんなの嫌!)
リアンは自分のものでなければならない。自分を愛してくれなければならない。アリシアはそうはっきりと悟った。
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