よく効くお薬

高菜あやめ

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第一部

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 バイトを終えて外に出ると、ロッカー室の前で津和が待ち構えていた。

「……え、待ってたの」
「ついでだよ。残業があったんだ」

 俺が付いてくるのが当然とでも言うように、津和はさっさと踵を返して駐車場へと向かう。

(残業あるからって、俺の帰りとピッタリ合うわけない……合わせてくれようとしない限りは)

 薄暗い駐車場の中を横切りながら、俺は思い余って津和の背中に声を掛けた。

「あのさ、俺もう足痛くないし、明日からは一人で帰れるから」

 運転席のドアを開きかけた津和は、スッと目を細めて俺を見つめた。俺の事を、大概失礼な奴だと思ったに違いない。

「……なんて顔してるの。何かあった?」
「は?」
「とにかく乗って。ここじゃ話もできない」

 俺は首をひねりつつ助手席のドアを開くと、運転席から伸びてきた手に腕を取られて、車内に引っ張りこまれた。

「えっ、ちょっと……」

 気がつくと、津和の腕の中で抱きしめられていた。

「気を使うなって言っただろう」
「なっ……」

 それは俺の台詞だ、と言い返しかけて、ふと気づいた。

「それって、お互い様じゃないの」
「……俺は別に、気を使っていない」

 そっと体を離され、両肩をつかまれた。間近で見つめられると、なんだか落ち着かない気分になってしまい、つい視線をさ迷わせてしまう。

「だ、だって、こんな風に、仕事待っててくれたりしてさ……」
「それは俺が、好きでやってるだけだ。悪いからとか言って、遠慮している君とは違う」

 唇が、吐息が、掠めるくらい近づけられた。それは映画のシーンで言えば、ロマンチックなキスする瞬間にも見えるし、殺し屋が今まさに息の根を止めようとしている直前にも見えるし、なんとも奇妙な緊張感で体がこわばった。

「なんて顔をしているんだ……まるでキスして欲しいみたいだ」
「えっ」

 ドクッと心臓が跳ねた。まるで俺が思い浮かべたことを覗かれたようで、顔がカッと熱くなる。

「図星か」
「はっ……んうっ……」

 唇が重ねられて、目の奥が熱くなって思わずつぶってしまった。体中の血が逆流するような熱いキスに、頭がぼうっとして思考がまとまらない。すると肉厚な舌が口の中に入り込み、あっという間に舌を絡み取られ、強く吸われてしまう。

「……はあ、んん……ふっ……」

 儚い水音を立てて唇が離される。俺はぶるぶると震えながら、まだ至近距離にある津和の顔を穴が空くほど見つめた。

「これで、仲直りできた」
「は……はあ!?」

 チュッと、やたら可愛いリップ音を立てて再びキスされた。クスクスと笑う姿に、俺はからかわれているのか、意地悪されたのか、それとも嫌がらせされたのか混乱する。

「君は俺に怒ってて、俺は君に誤解されて傷ついた。それをキスで修復したってこと」

 説明を聞いても訳が分からず、津和が再び異星人に見えてきた。

「修復って、その、それでキスって……」
「仲直りの常套手段だろう? ま、今のは少し濃すぎたかもしれないけど、初めが肝心だから、念入りに修復しておこうと思ってね」

 甘い微笑を向けられながら、そっと頬を撫でられた。俺はパクパクと口を動かすばかりで言葉が出てこない。

(だからって、それ、ぜってーおかしいだろう!? 変だよな? 俺が変なんじゃなくって、いいんだよな!?)

 車のエンジン音が響き、車体がゆっくりと駐車場を抜けて、夜の街に滑り出す。
 俺は、胸の内に散らばった様々な感情を纏めて蓋をすると、この状況に無理やり理由づけしようと必死だった。

(津和はアメリカ生活長かったみたいだし、向こうはキスって挨拶でするし。つまりそんなに、大げさな意味だったわけじゃないんだよな、きっと)

 チラリと隣を見やると、涼しい顔をしてハンドルを握る津和の横顔が視界に映って、次に形の良い唇に目がいってしまい、パッと視線を逸らした。津和の態度が、あまりにも平然としているから、先ほど起こったことが俺の夢か幻だった気すらしてきた。

(アメリカンジョーク、ってことで……いいのかな?)

 俺はどうしようもない結論に、心の中で失笑しつつも、ひとつだけ認めなくてはならない。津和のキスはとても上手くて、気持ち良かった。男の俺がこれだけ腰砕けになるんだから、女だったらすぐに身を投げ出してしまうだろう。

「津和さんって、彼女いないの」
「何、急に?」

 車内にクスクスと笑い声が微かに響き、先ほどの笑顔をまざまざと思い起こさせられ、俺は気まずさに口を引き結ぶと、わざと運転席に背を向けた。

「可愛い反応だね。もしかしてキス、久しぶりだった?」
「……うっせ、どうせ俺には彼女いねーよ」

 いつまでも笑っている津和に、俺は恥ずかしさを誤魔化せたことにホッとした。わざと不貞腐れた振りして、頭の中ではさっきのシーンがグルグルと回り続けていた。

「いいんじゃないの、君のペースで。君の人生なんだから」

 穏やかな言葉が、俺の心に滲み込んでいく。それは俺が、誰かから言ってもらいたかった言葉みたいで、その言葉を彼がこのタイミングで言うのが、ものすごく不思議で仕方なかった。

「俺のペースでやってたら、いつまでたっても何も変わりゃしないよ……ここ何年もちっとも変わらないし」

 少し反発したい気持ちもあって、愚痴みたいなものを吐き出してしまう。すると津和は、なるほど、と納得したように口を開いた。

「それなら君のペースじゃない方がいいね。いっそ俺のペースに合わせればいい」
「はあ? なんでそうなるんだ……」
「なぜなら俺はここ数年、様々な変化があった。数か月、数日単位でも変化があって、それはいつもいい方ばかりじゃないけれど、悪い方ばかりでもなかった。時には思いがけず、素晴らしい変化に恵まれることだってあったよ」

 信号待ちの中、津和の手が俺の頭をサッとひと撫でした。
 恵まれてきた男のように見えるのに、やはり生きていると悪い事もあったのか、なんて当たり前の事に気づかされる。でも、それを変化の過程の一部と受け止めて、前向きに生きている姿は尊敬に値する。

「だから君だって、俺と一緒なら変わっていける。すでにこの生活は、変わったことのひとつじゃないのか」
「そ、それはそうだけど」
「俺のマンションに住んで、俺と飯食って、俺と一緒に眠って、そうしているうちに元の生活が過去になる。過去になるということは、今は変わったという証拠だ」
「……そうかも、な……」

 こんな風に、最終的に納得させられてしまう。津和には本当にかなわない。
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