束縛フィアンセと今日も甘いひとときを

さとう涼

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2.秘書の日常とほんの少しの憂鬱

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 午前の仕事が終わり、早めの昼食を終えた國枝先生を見送り、わたしもお昼休みに入った。いつものように学食のある棟へ行く。
 お昼ごはんは別の研究室の秘書さんと一緒に食べたり、たまにうちの研究室の学生と食べたりする。
 わたしの場合、学食を利用することが多い。ほかの階には数年前にできたばかりのカフェテリアやサンドイッチ専門店もあるのだけれど、学食が一番落ち着くのだ。

 日替わり定食を選び席につくと、人の気配を感じた。目線をあげると、志摩《しま》さんという男性が向かい側に立っていた。
 志摩さんは二十代後半ぐらいの助教で、三ヶ月ほど前に採用されたばかり。
 研究室は違うのだけれど、とても気さくな人で、キャンパスで会うと向こうから挨拶をしてくれて、軽く世間話もする。甘いマスクのスポーツマン風で、学生やほかの秘書さんにも人気がある。

「今日はひとりなの?」
「はい、ほかの秘書さんはまだみたいです」
「ここ、いいかな?」
「ええ、どうそ」

 志摩さんは牛丼とサラダ、ラーメンをお盆に載せている。「いただきます」と箸を持つと、気持ちいいくらいに豪快にラーメンをすすり、牛丼を頬張った。
 やっぱり男の人。すごい食欲だ。
 箸を持ったまま思わず見入っていると、視線を感じたのか目が合ってしまった。

「すみません、あまりにもおいしそうに食べるなあと思いまして。わたしも牛丼にすればよかったかな」
「箱崎さんも牛丼好きなんだ。よかったら、どうぞ」

 志摩さんが牛丼をわたしのほうへ差し出してくるので固まってしまった。
 ……えっ、食べかけ?
 でも志摩さんは冗談を言っているような感じではなく、本気で「どうぞ」と言っているみたいだった。
 言葉のチョイスを間違った。なんだか牛丼を食べさせてと催促したみたいになっている。牛丼が食べたくなったという意味じゃなくて、そう思えるくらい気持ちのいい食べ方だってことなんだけれど。

「そっち側は箸をつけてないから」
「……はい、ではいただきます」

 断わるのも悪いと思い、箸で牛肉だけをつまみ口に運ぶ。「どう?」と目を輝かせて聞いてくるので、おかしくてふき出しそうになる。「おいしいです」と笑顔で答えた。

「ここの学食って、めちゃめちゃおいしいよね。特に白米が」
「うちの大学は昔から評判いいですよ。ネットの『東京の大学 メチャウマ学食ランキング』でも毎年上位に入っていますから」
「そのランキング、名前だけは聞いたことあるよ。すごいね。ここの学生は幸せだなあ」
「そのわりには利用者が少ないんですよね、ここの学食。最近の学生は、カフェテリアとかサンドイッチとかオシャレなのがいいみたいで」

 パンも大好きだけれど、わたしはがっつり食べたい派。なので、たいてい日替わり定食だ。安くてボリュームがあって、メニューに悩まなくていい。

「箱崎さんは、この大学の卒業生なんだよね」
「はい、丸六年この大学に通っています。でもそんなに白米、おいしいですか?」
「もちもちして、うまいよ。日本の米はやっぱり最高だな。でも僕の卒業した大学の学食はとにかく白米がまずかったんだよなあ。炊き方のせいかな」

 志摩さんとじっくり話をするのは初めてだったけれど、会話が弾み、楽しく食事ができた。
 とても聞き上手な人だと思う。わたしの話に興味深げに耳を傾け、相槌を打ってくれる。かといって、ずっと受け身ではなく、大学時代に東南アジアの数か国をバックパッカーで訪れた話を楽しそうに語ってくれた。だからお米に妙なこだわりがあるらしい。

 東南アジアは稲作が盛んで、ひとりあたりのお米の消費量は日本よりもはるかに多い。現地で食事をしていくなかで、お米の種類に合った食べ方があって、それが思ったよりも日本人の口に合うのだと教えてくれた。
 聞けば、ヨーロッパや南米にも行ったことがあるそうだ。歴史にも興味があって、夢だった遺跡めぐりをしたとか。
 なるほど、だから人気があるのかもしれない。博識で、人あたりがよくて、モテないわけがない。

 志摩さんとの時間はあっという間。腕時計を確認するとお昼休みがもうすぐ終わる時間になっていた。

「今日は楽しかったよ」
「こちらこそ、楽しかったです」
「それじゃあ、また」

 研究室のある棟まで来ると、階の違う志摩さんとは途中で別れ、わたしはひとり階段をのぼっていく。すると廊下の途中で、声をかけられた。
 振り向くと、ショートボブで背の高い女性が颯爽と歩いてくる。
 彼女は隣の研究室の秘書さんで、川畑《かわばた》さん。小学生のお子さんがいるパートさんで、秘書歴はわたしよりも遥かに長い。
 ベージュの上品なワンピースに七センチヒールの白いパンプスというファッションはとてもよく似合っていて、いつ見ても川畑さんは格好いい。

 つい動きやすさを重視してしまう今日のわたしのファッションは、ネイビーのフレアースカートによくある白のニットアンサンブル。足もとはフラットシューズだ。

「見てたよ、なんかいい雰囲気だったね」
「変なこと言わないでください。ただ一緒にお昼ごはんを食べていただけですよ」
「女子学生の目がギラギラ光ってたよ。気がつかなかった?」
「えっ……」

 ぜんぜん知らなかった。志摩さんが人気のあることは重々承知していたのに。

「まあ女子学生はどうせ憧れ的な感じだろうからいいんだけど。志摩さんはどうだろうね。箱崎さんに彼氏がいるの知らないのかな?」
「そういう話はしたことないので」
「そっか、知らない可能性が高いか。かわいそうに」

 そうは言いながらも、たいして気の毒だとは思っていない感じ。逆におもしろがっているようだった。

「変な勘ぐりはやめてください。たまたま学食で見かけたから声をかけてきたんですよ、きっと」
「箱崎さん、本気でそう思ってるの?」
「そうですけど。それに、どうせほかにお相手がいらっしゃいますよ。女性が放っておかない感じですから、志摩さんって」
「女性はたくさん群がってくるかもしれないけど。志摩さんってふらふらなびかないタイプに見えるよ」
「それは同感ですが……」

 川畑さんの言うことはあながちはずれていない気がする。
 見聞が広くて、いろいろなことをいったん受け入れても、ちゃんとポリシーを持っているように見える。
 前に白衣のポケットに入れていた万年筆が目に留まり、國枝先生と似ているなと思って、「素敵ですね」と言ったら、十年使い込んだものだと教えてくれた。なんでも大学入学のお祝いに、お父様からプレゼントされたものだそうで、手に取った万年筆を愛おしそうに見つめていた。
 それ以外にも何年も前に買ったというハイブランドの時計を身に着けていたり、名刺入れは本革製の職人さん手作りの一点ものだったり。多少値が張っても、いいものなら躊躇《ちゅうちょ》なく手に入れ、長く愛用するタイプなのかな。

「わたしが独身でもっと若かったら、グイグイ迫ってたのになあ」

 川畑さんが悔しそうに言う。
 たしかにチャラチャラしてないところは好感が持てる。
 でもわたしは……。
 恋愛対象として見ることはできない。
 わたしにとって航が最高のパートナーで、航以外の男性に惹かれるなんて考えられない。五年半という月日が流れても、航を想う気持ちは変わることはない。

「旦那さんがいるのに、そんなこと言っちゃだめですよ」
「やだなあ、旦那がいなかったらの話だって。浮気なんてしないわよ」
「ですよね、川畑さんは旦那さんにめちゃめちゃ愛されてますもんね」

 川畑さん夫婦は、結婚記念日や誕生日にはお子さんを実家に預け、ふたりきりで食事デートを楽しみ、その晩は高級ホテルに宿泊するほど仲がいい。旦那さんは電話やメールがマメで、こんなきれいな人を奥さんに持つといろいろ心配にもなるのかもしれない。

「でも男なんて所詮浮気する生きものだからね。愛されてるってうぬぼれてると、痛い目見るかもよ」
「そういうものですか?」
「男はね、同時に複数の女を愛せるの。だからわたしは母親であると同時に女性であることも忘れないようにしてる。箱崎さんも気をつけなよ」
「わたしは大丈夫ですよ」
「そういう思い込みがだめなの。誠実そうに見えたって、実際に浮気する人は大勢いるんだからね」
「たしかに……」

 川畑さんは研究室のドアを開け、「じゃあね」と手を振って入っていった。わたしも自分の研究室に戻る。
 わたしは自分のデスクで川畑さんの言っていたことを考えていた。
 川畑さんの言う通り、この世の中、浮気や二股なんて珍しくない。女性らしさも大切だと思う。そこはすごく共感できた。
 だけど航に限って浮気なんてするわけない。だって、いつもわたしの心配ばかり。仕事が忙しいのに自ら進んで迎えに来てくれるし、ベッドではこれでもかっていうくらい愛してくれる。
 航しか知らないわたしには、ほかの男性がどうなのかは知る由もないけれど。友達の話などから察するに、たぶんわたしはかなり愛されているのではないだろうか。

 ただ、航は黙っていたって女性が寄ってくるタイプなのが心配の種。女性からのアピールがすごいらしいから、たぶん過去の女性遍歴は相当あると踏んでいる。いくら追及しても本人が口を割らないというのはそういうことだ。
 まあ、過去のことはしょうがないとしても。航と一緒にいる限り、そういう不安はこの先も続くような……?

「あー、だめだめ!」

 わたしは起こってもいないことで悩んでいる。
 そうだよ、航はわたしを裏切らない人だ。だから気にするだけ無駄! だいたい、こんなのは贅沢すぎる悩みだ。いや、悩みともいえないよ。
 わたしはそう思い直し、午後からの仕事に集中した。
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