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7.マリッジブルーに悲しく揺れる
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料亭という場所は生まれて初めて来たのだけれど、別の意味でも緊張していた。
しっとりと落ち着いた建物は伝統を感じさせ、格式高い。足を踏み入れると、緊張がさらに増した。
「いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました。日比谷様は先にお着きになりまして、部屋でお待ちです」
女将さんに出迎えられ、もうすでに航たちが到着していることを知る。
わたしたちは時間より少し早めに着いたのだけれど、それより早く来てくださっていることに両親は恐縮していた。
でもたぶんそういう気遣いなのだと思う。わざわざ遠くから来るうちの両親を迎えてくださろうとしているのだろう。
続けて仲居さんが部屋へ案内してくれた。長い廊下からは日本庭園が望める。昼間なのに凛とした静けさが広がっていた。
ここが東京だなんて忘れてしまいそう。時間がゆったりと流れ、ここだけ別世界のようだった。
するとそこへ長身の男性が立ちはだかった。庭園に見とれていたため、それが誰なのかすぐにわからなかった。「美織」と名前を呼ばれ、ようやく航だと知った。
「あら、航くん!」
母が声を弾ませた。
母は航をとても気に入っている。結婚報告のために帰省したときも、これでようやく正式に息子になるのだと大喜びだった。父も、交際の挨拶のために実家にまで来てくれた航の誠実さを当時から高く評価していて、わたしにはもったいない彼氏だと言うほどだった。
「今日は遠いところからお越しくださってありがとうございます」
航は両親に向かって軽く頭をさげる。それからわたしに視線を移すと、悲そうな面持ちになった。
航のこんな顔は、これまで一度も見たことがない。怒ったり、ふてくされたりすることはあっても、こんな絶望したような顔は初めてだった。
どうして航が傷ついているの? 泣きたいのはこっちなのに。
「みお──」
わたしは、わざとそっぽを向いた。
「早く行こう。お待たせしちゃ失礼だよ」
わたしは両親に向かってそう言うと、案内をしてくださっている仲居さんに目くばせした。
航はなにか言いたげだった。謝ろうとしていたのか。それとも、この場は大人の対応をしようと言いたかったのだろうか。
言われなくてもそうするつもり。これから約二時間。とりあえず大人の振る舞いをして、この場をやり過ごすしかないと思うから。
広々としたお座敷に通されると、挨拶を交わし席につく。
外観や玄関もさることながら、このお座敷も重厚感があって上品で風情もある。
この料亭は航が選んだ。本店は京都にあって、仕事ではもちろん、日比谷家がプライベートでもよく利用しているそうだ。
うちの両親と航のご両親は初対面。航のお父様がこちらの緊張を和らげるように言ってくださった。
「堅苦しいのは抜きにしましょう。今日はおいしい料理を味わいながら、親睦を深められればと思っております。箱崎さんは、ビールはお好きですか?」
「ええ、アルコールならなんでも。昼間から飲めるとは、うれしい限りですね」
「ということは、かなり飲める口ですな。でしたら、今度ゆっくり飲みましょう、ふたりで」
「いいですね、ぜひ」
いきなり父親同士、妙に意気投合している。
航のお父様が仲居さんにビールを持ってくるように頼み、それからみんなで乾杯した。運ばれてきたお料理を頂きながら、航は時折うちの両親に話題を振り、場を盛りあげていた。
けれど和やかな雰囲気のかたわらで、わたしは航と目を合わせることをせず、ひたすらお料理を食べていた。話題に応じて笑顔を作り、話しかけられたときだけ愛想よく受け答えする。
たぶんうまく演じられていると思う。自分でもたいしたものだと思った。このまま無事に終えることができる……。そう思っていたら、ちょっとしたハプニングが起こった。
「ところで美織さん、今日は婚約指輪をしていないのね。航からは美織さんに贈ったって聞いていたんだけど」
航のお母様の突然の振りに、ギクリと肩が上下する。
今日のこの場に欠かせなかったダイヤモンドの婚約指輪なのに、すっかり頭から抜け落ちていた。
航の顔を見るのが怖い。なるべく考えないようにしていたのに、マンションでのシーンが呼び起こされて、再び、駅のホームで言われた雫さんのセリフが頭のなかで鳴り響く。
「あの、えっと、指輪は……」
なんて答えればいいのだろう。正直それどころではなくて、うまい返しが思いつかない。あれこれ言い訳せずに、忘れましたと言ってしまおうか。
しっとりと落ち着いた建物は伝統を感じさせ、格式高い。足を踏み入れると、緊張がさらに増した。
「いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました。日比谷様は先にお着きになりまして、部屋でお待ちです」
女将さんに出迎えられ、もうすでに航たちが到着していることを知る。
わたしたちは時間より少し早めに着いたのだけれど、それより早く来てくださっていることに両親は恐縮していた。
でもたぶんそういう気遣いなのだと思う。わざわざ遠くから来るうちの両親を迎えてくださろうとしているのだろう。
続けて仲居さんが部屋へ案内してくれた。長い廊下からは日本庭園が望める。昼間なのに凛とした静けさが広がっていた。
ここが東京だなんて忘れてしまいそう。時間がゆったりと流れ、ここだけ別世界のようだった。
するとそこへ長身の男性が立ちはだかった。庭園に見とれていたため、それが誰なのかすぐにわからなかった。「美織」と名前を呼ばれ、ようやく航だと知った。
「あら、航くん!」
母が声を弾ませた。
母は航をとても気に入っている。結婚報告のために帰省したときも、これでようやく正式に息子になるのだと大喜びだった。父も、交際の挨拶のために実家にまで来てくれた航の誠実さを当時から高く評価していて、わたしにはもったいない彼氏だと言うほどだった。
「今日は遠いところからお越しくださってありがとうございます」
航は両親に向かって軽く頭をさげる。それからわたしに視線を移すと、悲そうな面持ちになった。
航のこんな顔は、これまで一度も見たことがない。怒ったり、ふてくされたりすることはあっても、こんな絶望したような顔は初めてだった。
どうして航が傷ついているの? 泣きたいのはこっちなのに。
「みお──」
わたしは、わざとそっぽを向いた。
「早く行こう。お待たせしちゃ失礼だよ」
わたしは両親に向かってそう言うと、案内をしてくださっている仲居さんに目くばせした。
航はなにか言いたげだった。謝ろうとしていたのか。それとも、この場は大人の対応をしようと言いたかったのだろうか。
言われなくてもそうするつもり。これから約二時間。とりあえず大人の振る舞いをして、この場をやり過ごすしかないと思うから。
広々としたお座敷に通されると、挨拶を交わし席につく。
外観や玄関もさることながら、このお座敷も重厚感があって上品で風情もある。
この料亭は航が選んだ。本店は京都にあって、仕事ではもちろん、日比谷家がプライベートでもよく利用しているそうだ。
うちの両親と航のご両親は初対面。航のお父様がこちらの緊張を和らげるように言ってくださった。
「堅苦しいのは抜きにしましょう。今日はおいしい料理を味わいながら、親睦を深められればと思っております。箱崎さんは、ビールはお好きですか?」
「ええ、アルコールならなんでも。昼間から飲めるとは、うれしい限りですね」
「ということは、かなり飲める口ですな。でしたら、今度ゆっくり飲みましょう、ふたりで」
「いいですね、ぜひ」
いきなり父親同士、妙に意気投合している。
航のお父様が仲居さんにビールを持ってくるように頼み、それからみんなで乾杯した。運ばれてきたお料理を頂きながら、航は時折うちの両親に話題を振り、場を盛りあげていた。
けれど和やかな雰囲気のかたわらで、わたしは航と目を合わせることをせず、ひたすらお料理を食べていた。話題に応じて笑顔を作り、話しかけられたときだけ愛想よく受け答えする。
たぶんうまく演じられていると思う。自分でもたいしたものだと思った。このまま無事に終えることができる……。そう思っていたら、ちょっとしたハプニングが起こった。
「ところで美織さん、今日は婚約指輪をしていないのね。航からは美織さんに贈ったって聞いていたんだけど」
航のお母様の突然の振りに、ギクリと肩が上下する。
今日のこの場に欠かせなかったダイヤモンドの婚約指輪なのに、すっかり頭から抜け落ちていた。
航の顔を見るのが怖い。なるべく考えないようにしていたのに、マンションでのシーンが呼び起こされて、再び、駅のホームで言われた雫さんのセリフが頭のなかで鳴り響く。
「あの、えっと、指輪は……」
なんて答えればいいのだろう。正直それどころではなくて、うまい返しが思いつかない。あれこれ言い訳せずに、忘れましたと言ってしまおうか。
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