溺れる私が掴んだ藁は

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番外編

余裕 〈一〉

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 春まだ遠く、冷え込みがきつい夜。吐く息が白い。静まり返るオフィス街を急ぎ足で駅へ向かう。

 急な残業が入ってすっかり遅くなってしまった。
 やらかしたのは例によって例のごとく小野田氏(ちょいぼんやり)だ。
 仕事についてみちみち詳細に語るのも何なのでざっくり説明しよう。小野田氏の今回のミスは得意先に直接迷惑をかけるようなものではなかったが、別部署の業務を大いにとどこおらせる類いのポカであった。

 私は怒っている。ぷんすこ怒っている。
 もちろん管理部門のみなさんを呆れさせたポカについても腹を立てている。しかしそれだけではない。今日は定時で退勤しデートする予定だった。美術館に行ってレストランに行ってバーに行って、など詰め込めるだけ詰めこむつもりだった。失恋に痴女行為にゲリラ豪雨で始まったおつきあいからおよそ半年、いくらふだんの仕事で接点がなくとも会社が同じで家も近所となればあっという間に「卵の特売って今日じゃなかった?」「クリーニング屋さん、行っておこうか?」などと生活臭にまみれてしまうんだ。ほんのりスウィーティな非日常は貴重なんだ。それなのに、またおまえか小野田! 貴様のミスで関係ない篠原さんまで残業だ。「資料をつくりながら待ってるよ。仕事は探せばいくらでも見つかるから」なんていわせてしまった。先に帰ってもらえばよかった。

「おのれ……」
「十和さんが怒るのも無理ない。逃げるみたいに出張に行った小野田さんが悪い」
「呪ってやる……」
「そうだね。そうしよう、呪おう」

 隣で呪詛じゅそのつぶやきに穏やかに相槌あいづちを打つ篠原さんの足取りはゆったりしていた。私の身長は平均を超えている。決して小さくないはずなのだが、やはり身長差があると歩幅にも差が出る。

「だって、今日は……」
「仕方ない。こういう日もある」

 忙しなく歩きながら見上げると、悠々と足を運びながら篠原さんがやわらかく微笑んでいる。ちょっと笑顔になったくらいで彫りの深い強面は変わらないし、口から白い息が漏れたなびくさまは高身長に分厚い胸板という圧の強い体格も相俟あいまって夜叉やしゃかな、くらいに迫力があるが慣れてしまえば怖くない。

「俺も楽しみにしてたから――ん? どうかした?」
「いいえ! 清さんかっこいいから見惚れちゃいました」

 不意討ち食らわせちゃえ、と思い切っていってみた。どぎまぎさせたかったんだけど半分以上本音だ。

「ありがとう」

 歩調を乱すことなく篠原さんは微笑んだ。
 きゅ。
 痛むようなわななくような、不思議な感覚が胸の奥をざわめかせる。
 いい。余裕があって大人の男らしくて、いいんだけどさ。
 つきあいはじめて半年経って、私は今でもときめいてどきどきするのに篠原さんはそうじゃないんだ。
 アラサーに片足どころか腰を越えて鳩尾みぞおちまでだっぷり浸かった大人の女だ。わだかまりのひとつやふたつ、ビールなしでもごっくんして面に出さぬのがお作法。分かっちゃいるがうちの課のポカ野郎への怒りとおりのように溜まった不満で、このままだと篠原さんにやつあたりしそうだ。これは、まずい。
 会社最寄り駅から地下鉄に乗って、隣に立つ篠原さんにいった。

「今日はこのまま帰ります」
「えっ」

 眉間の皺がぐ、と深まる。険しい表情だが怒っているわけではない。

「うちに……」
「行きません。うちに帰ります」

 紛らわしいが篠原さんのいう「うち」はK駅前のマンションで、私の「うち」はT駅から徒歩十分強のアパートだ。
 交通の便も居住性も買い物環境もどちらがよいかといったら微塵みじんの迷いなく篠原さん宅で何かとお邪魔しているし当たり前のようにお泊まりセット常備だしわざわざアパートに戻らなくても出勤可能なくらいお着替えその他もろもろも置いてある。いっしょに住めばいいのにと、離れて暮らしておいでの篠原さんのご両親やお姉さまにもいわれているがそれはそれ、まだそういう段階じゃないし男女の仲はいつどうなるか分からないんだしいやその少なくとも私には心変わりする予定などないしする気もさらさらないけどもとにかく! 今日は自分のアパートへ帰る。決めた。

「どうした」

 篠原さんは今日はじめて戸惑いの表情を見せた。
 見たかったのは気遣わしげなこの色ではない。急な残業だからと散々待たせておいて勝手なことを口にする自分がほとほと厭になる。

「この時間だと……」

 ちら、と腕時計へ目をやって篠原さんは口をへの字にした。

「十和さん、面倒くさがって夕飯抜くだろう」
「そんなことは……、でも一食くらい……」
「帰りたいならちゃんと送るから、ご飯食べにおいで」
「でも」
「おいで。いいね?」
「う……」

 結局押し切られた。



 夜遅めの時刻のわりに乗換駅は混雑していた。より正確に言い表すならばどえらく混雑していた。

「……どうします?」
「まいったな」

 この路線は便利は便利なのだが、施設の老朽化だのなんだのを理由にそこそこに腹の立つ頻度で運行停止する。今日もポカ野郎のせいで残業に励んでいた最中、どうやら電車が止まってしまっていたらしい。でもタイミングよく、運転再開している。

「動いているなら、乗ろうか」

 篠原さん宅最寄りのK駅はここから二十分もかからない。あれやこれやと迂回路うかいろをたどるより、動いているなら乗ってしまうほうが早いのだ。混雑することはするが。

「そうですね。行きましょう」

 私は篠原さんと連れ立ってホームへ向かった。
 甘かった。
 ことの起きた順番が違うし時間帯が違うし電車の路線が違うし季節が違うし、あのころと違って今は篠原さんとおつきあいしているし、――しかし私に油断がなかったとはいいきれない。ポカ野郎がポカをやらかした時点で私は注意、警戒すべきだったのだ。私自身に。より正確に言い表すならば、私の右掌に。

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