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女帝の過去
甘い朝と辛い過去
しおりを挟むピピピッ……
無機質な目覚し時計の音で眠りから引き出されると、今朝は空気がいい。
雨の予報がなく、昨日は暖かかったから窓を開けて寝たのだ。勿論、網戸は占めている。
布団から出れば一日の始まりで、顔を洗いに洗面所へ向かう。
昨日の夕食の残りを食べ、シフォンケーキを小さめに何切れか切り分ける。
もう初夏ではあるが、お気に入りのサクラの紅茶を入れて一切れのシフォンケーキと一緒に楽しんだ。
今日の朝はいい感じだ。
先程切り分けたシフォンケーキをお昼用に袋に入れて、私は家を出た。
「おはようございまーす。あれ?紅ちゃんなんかご機嫌だねぇ」
オフィスに入ると、小雪ちゃんにそう声を掛けられる。
「なにかいいことあったのー?」
ニヤニヤというのがしっくりくるほどの余計な事を考えている顔で話しかけてくる。
デスクの下にカバンを置いて、デスクをさっと拭けば私の仕事は始まるはずだが、今日は小雪ちゃんによってそれは叶わない。
「小雪ちゃんの考えているようなことはないよ。ただケーキ焼いただけ。」
そう言ってパソコンを起ち上げれば、隣からは感嘆の声が聞こえた。
小雪ちゃんは期待した答えが聞けずに、何となく残念そうにしていたが、すぐにパソコンに向きなおって仕事をし始めた。
昼になり、今朝切り分けて持ってきたシフォンケーキを食べているとデスクに影が落ちた。
何だろう、と振り向こうとしたその瞬間に手元からケーキの感触がなくなった。
見ればそれは今日出張でいないはずの藤沢だ。
「うまいな……これ」
悪びれる様子もなく、人の許可を得ずに奪ったものを食べる藤沢に一瞬イラッとするが、美味しいといわれて少し怒りも薄れる。
「今日は出張なはずよね、定時には帰ってこれないって言ってなかった?」
藤沢の綺麗な形をした口にケーキが入っていくのを見ながら、問う。
何度か咀嚼して、彼は時計を見た。
「先方がこの後予定があるとかで早めに進行したら大幅な時間巻き上げが出来たってところだ。」
大幅って……5時間も巻き上げるというのはあり得るのだろうか。相当時間の掛かる案件だと聞いていたのだけど……
視線をこちらに戻した藤沢は、フッと笑ったかと思うと優しい顔をした。
「そのおかげで紀田の手づくりケーキ食えた。先方には感謝だな。」
え……?何この表情。今まで藤沢ってこんな顔したことあったっけ……?
なんというか、まるで私に好意を抱いているような目で見られていると思いそうだ。
藤沢に限ってそんな事はないのだろうが。
だって私は知っている。
藤沢が私をそういう目では見ていないということを。
✽
この会社に入社したとき、私には大学生から付き合っている彼氏がいた。
大学2年の時に告白され付き合い始め、
彼は誰がどうみても私に溺愛していた。
「紅、どこ行くの?」
お手洗いに立ち上がるのでさえ、不安げな表情を見せ、入り口で待つほどで今思えばその頃から束縛が入っていたのかなとも感じる。
それでもその頃はそんな束縛も彼の可愛いところだと思っていたし、特別困りもしなかった。
私も私で彼の可愛いところが好きで、犬のような振る舞いに癒やされていた。
ところが、私がこの会社に入り仕事の都合で学生時代よりも会えなくなってきて、
彼の束縛は目に見えて激しくなっていた。
「もしもし、紅?今なにしてるの?」
勤務中だと知っているはずなのに何度も掛かってくる彼からの電話。
「……浩人(ひろと)。今勤務中なの、そう何度も電話かけてこないで。」
諭すように優しく言うが、彼が電話をやめる気配もない。
「そんなこと言って、俺を騙そうとしてるんだろ?本当は男といるんじゃないのか!?」
電話に出るたび、私が他の男といるのだと勝手に思い込んではヒステリックに叫ぶ。
「いい加減にして、もう切るよ。」
携帯電話の電源を切り、バッグにしまう。電話を切っても、懲りずに電話に出るまでかけ続けるからだ。
彼は私より1つ上で、電気製品を取り扱う会社に務めていると言っていたが、そうなると彼は勤務中にも関わらず仕事を放棄して私に電話を掛けていることになる。
大丈夫なのだろうか、そんな私の心配通り、彼はしばらくすると会社をクビになった。
それからは私の会社の前で彷徨いたり、酷いときはエントランスホールに入って、私を呼べと受付の人にしつこく喚き散らしたりして、会社の人にまで迷惑をかけるようになった。
彼は会社から出禁をくらい、しばらく姿を見せなかった。
彼の散々な行為に疲れ果てていた私は、ある日彼に別れを切り出した。会うのも躊躇われて電話で伝えた。
彼は無言だったから承諾と受け取って、彼とは全て終わったと思った。
ダンッダンッ
「紅?嘘だよね?どうしたの?最近俺が会いに行かないから嫌になったの?安心してよ、また毎日会いに行くから。……紅?」
夜中の2時。
なぜ、こんなにも恐ろしいのだろうか。私がおかしいのだろうか……彼が怖い。
休みなく叩かれるドアと語りかけてくる、かつて可愛かった彼氏。
両隣の部屋にも人は暮らしているが、その人たちもこの異常な男を怖がってか夜中の騒音に文句を言わない。
どうにかして助けてほしかった私は、同期でよく一緒にお酒を飲みに行く藤沢に電話を掛けて助けを求めた。
警察に電話をすればいいのに、藤沢に助けを求めたのは何でかわからない。
日頃から何かあったら呼べと言ってくれていたからかもしれない。
しばらくしてドアを叩く音が消え、インターホンが鳴った。
浩人の声が聞こえないように布団をかぶっていた私は、恐る恐るインターホンの画面を見た。
そこに浩人の姿はなく、藤沢が映っている。
ドアを開けて藤沢の顔を見ると、安心からか涙が溢れてしまった。
そんな私を大事そうに優しく抱きしめる藤沢に浩人との差を感じて、弱っていた心が恋を勘違いした。
それから顔や言葉にはでないものの、私を気遣って態度が優しい藤沢に恋を勘違いしたまま入社2年目に突入しようとした時だった。
「紀田はどうよ?いい身体してるし、美人だし。」
デスクに手帳を忘れてきたことに気付いて、オフィスに戻ると先輩のそんな声がした。
紀田……?私?
なんの話をしているのだろう…?
何となく入ってはいけない気がして、足を止める。
「紀田は駄目ですよ。恋人になんて出来ませんよ。」
藤沢のその一言で、彼らは彼女は誰がいいかを話し、私は藤沢に却下されたのだとわかった。
嬉しいことではないが、あまりショックも受けなかった。
やっぱり藤沢には恋してなかったんだな。
そう思って、手帳を取りにオフィスに入り先輩達には少し焦った目で見られたが、私は何事もなかったかのように会釈して帰った。
もう、恋はいいや。
浩人にしろ藤沢にしろ、多分私には恋愛が向いていないんだろう。
もともと友人たちの恋バナについていけるような人間じゃなかったし、可愛い女子って言う感じでもないし。
……冷めたつまらないやつだから。
恋愛なんてできない。
恋愛はしない。……するわけがない。
自分自身に言い聞かせているような気もしたが、でも本当のことなのだ。
そう決めた次の日からは更に仕事に打ち込んだ。
しばらくして、部長の座の誘いがあったけど、今までのゴタゴタを全て流し、新たなスタートをきろうと思い、断った。
今部長になったら、浩人と付き合っていた自分が土台になっている気がして、何だか嫌だった。
後になって藤沢に役職を目指していたんじゃないのか、と問われぼんやりと答えたのを覚えている。
考え事をしながら無意識で仕事をしていた私は、気付けばオフィスに一人になっていた。
あたりを見回してパソコンに目を戻すとき、ふと目に入った白いコンビニの袋には、お茶とおにぎりが入っている。
その横にビターチョコレートも置いてあり、それには付箋のメッセージがついていた。
無理しないでね、という丸っこい可愛らしい字が差出人が小雪ちゃんであることを示している。
コンビニの袋の方は藤沢だろうか。
シフォンケーキのお礼だとか言って、置いていきそうだ。
知らぬ間に自分のデスクに置かれた、職場の人たちの気遣いに私は何となく泣きそうだった。
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