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第五十八章

涙を枯らす悪夢

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 浩子は夢の中に居た。

【『明日、やっと退院できる。迎えに来てくれる。私の一番大切な人が、あのドアを開けて…』

 浩子はそう思うと微笑み、病室のドアを見遣った。

 すると、自動ドアのように病室のドアがそっと開いていった。

 浩子は不思議そうにドアを見遣った。

 その時、向かい側の病室のドアも開き、浩子の視界はカメラズームのように、向かい側の病室の様子を捉えた。

『ジョン!』

 浩子は思わず声を上げた。

 向かい側の病室のベットの上には確かにジョンが居た。

 看護師がジョンの部屋に入って来た。

『ブラッシュさん、面会者が来ています。通しますね。』とジョンへ告げた。

 ジョンは何かを喋ったが浩子には聞こえない。

 看護師が病室から出ると、1人の女性が入って来た。

 女性はベットの前の椅子に腰掛けるとジョンにこう言った。

『ジョン、もう大丈夫よ。私が来たからね。

 浩子じゃ、ジョンを助けてくれないわ。

 あの子には少し期待はしたけど、駄目だったみたいね。

 今度は私がジョンを助けるから。

 私がジョンの一番の味方になってあげるからね。

 もう大丈夫よ!

 私が側にずっと居るから、この病室から出ましょう。

 私が迎えに来たから、もう大丈夫よ。』

 浩子は愕然とし、身体が震え出した。

『一体何なの?『浩子』って言ったわ。私じゃ駄目だと…、誰なの?あの人は誰なの?』

 浩子の視線はその女性の後ろ姿を捉えていた。

 女性はジョンをベットから起き上がらせると着替えを手伝い始めた。

 ジョンは、まるで子供が母親に着替えさせて貰うよう、なすがままに従っていた。

 ジョンは着替え終わると女性に付き添われ病室を出て行った。

『あの人は誰なの?一体、誰なの?』

 浩子には女性の顔がボヤけてはっきりと見えなかった。

 浩子はベットに寝たままにもかかわらず、不思議にも浩子の視線は2人を追い続ける。

 ジョンは女性の運転する車に乗り込むと、女性はジョンにこう話す。

『ジョン、浩子と一緒に居たら駄目よ。貴方は不幸になるわ。あの子じゃ、貴方を助けられなかったでしょう。結局、私が貴方を助けたのよ。』

 浩子は口に手を当て、『マリアさん、あの女性はマリアさんなの?』と心に問い掛けた。

 車を運転する女性の顔は尚もボヤけて映る。

 映像が早送りされるよう映し出され、場面が細かに変わって行く。

『皆んなに紹介するわ!私のフィアンセのジョンよ!』

『お似合いのカップルだね!』

 ホテルのレストランで女性がジョンをそう紹介している。

 浩子は堪らず叫んだ!

『違う!ジョンは貴女のフィアンセなんかじゃない!』

 浩子の声は浩子の病室内に響くだけで、視線の先の映像には届かなかった。

 1人の招待客が席を立ち、ジョンと女性の肩に手を置き、皆んなに向かって何かを話そうとした。

『バーハム神父様?』

 浩子の視線が捉えたその招待客は紛れもなくバーハムであった。

『皆んなにこの『奇跡の恋人』の馴れ初めを話そう!

 ジョンが熊に襲われ大怪我をしたんだ。

 それもカーソンの森の中で。

 誰も助けに来れないような山奥の森の中で。

 でも、奇跡が起こる。

 マリアは感じたんだ。

 ジョンの危機を感じ、何十kmも離れたサンタフェから、瀕死のジョンの元へ向かい、そして助けたんだ。

 この強い2人の絆は奇跡以外、表現のしようがない。

 そうです。皆さん!

 2人は神がお造りなった『奇跡の恋人』なのです。』

 レストラン中から喝采と拍手が湧き上がる。

 病室の浩子の瞳から涙が溢れる。

『やっぱり、あの人はマリアさん…、ジョンのフィアンセ…、2人は『奇跡の恋人』、私は何処に行ったの?私は…』

 浩子の声はジョンの元には決して届かない。

 映像は早送りされ、綺麗な湖が映し出された。

『あれは、私とジョンの『神秘の湖』、どうして?何が始まるの?』

 浩子の心臓の鼓動が恐怖で太鼓のように鳴り響き始めた。

 湖に月光が黄金の城を創り始めた。

 湖畔には新郎新婦が愛を誓い合っている。

『嫌よ!見たくない!もう止めて!映像を止めて!』

 浩子は両手で目を覆い、泣き叫ぶ。

 またしてもバーハム神父の声がした。

『この『神秘の湖』は2人が初めて出会った場所であり、そして、2人が永遠の愛を誓い合う証言の場所になるのです。』

 浩子は叫ぶ。

『違う!この湖は私とジョンだけの湖なの!私とジョンだけの…』

 新郎新婦は愛の口付けを交わす。

『もう嫌ぁ!もう嫌ぁ!止めて!映像を止めて!』

 浩子はベットに潜り込み、固く目を閉じた。

 身体中が震え、呼吸が苦しくなって来た。

『もうやめてぇ!もう死にたい!』

 映像はクライマックスを迎えた。

 2人は裸のまま手を繋ぎ、神秘の湖に出現した黄金の城へ入城しようとしている。

 浩子は固唾を飲み、両目を覆った掌の指をゆっくりと広げ、その隙間から覚悟を決めて、映像を見ようとした。

 映像は一瞬、浩子の最も大切にしていた『神秘の湖』でのジョンとの愛の行為を蘇らせた。

『ジョン…、愛してる…、もっと抱いて…』

 浩子は思わずそう呟いた。

 その瞬間、ジョンに抱かれ喜悦の声を奏でる女性の顔が映し出された。

『私じゃない…、マリアさん…、ジョンに愛されているのは…、私じゃない…』

 浩子の視線は、映し出されるジョンとマリアの愛の交歓を延々と見続けた。

 浩子の瞳から涙という体液は枯れ果てた。

 浩子の心から哀しみという感情は使い果たされてしまった。
 
 浩子は1人、病室のベットに生きた屍のように横たわり、死んでも見たくはなかったジョンとマリアの愛の交歓を心の視線で見続けるのであった。】

 浩子は悪夢から目を覚ました。

 浩子の瞳は乾ききって瞼は開かなかった。

 それでも浩子は泣いていた。

 夢の中でも現実の中でも

 涙を失ってしまっても

 浩子は生まれたばかりの仔鹿のように身体をひくひくと震わせ、ただ、泣き続けた。

 そう、浩子の感受性は、ジョンの心の謝罪を認知したのであった。

 
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