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第五十九章

『忘れるためには憎むこと』

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 バーハムと祖母は医師からの連絡を受け、病院へ向かった。

 病院に着き、病室へ向かおうとしたが、受付で医務室に行くように告げられた。

 医務室に入ると医師が神妙な顔付きでこう言った。

「昨夜、突如、発作が起こりまして…、今、鎮静剤で寝かし付けていますが。」

「発作というと?自殺未遂…ですか?」

 バーハムが心配そうに医師に尋ねた。

「いえ、自殺未遂ではありません。それは御心配なく。」

 バーハムはほっとため息を吐き、安堵した。

「これを見てください。」

 医師は2人に浩子の部屋のモニター画面を表示した。

 画面が再生される。

【浩子が部屋のドアを見ながら独り言を呟いている。そして、身体中を震わせ、布団に潜り込み、叫び始める。

『もう嫌ぁ!もう嫌ぁ!止めて!映像を止めて!』

『もうやめてぇ!もう死にたい!』

 散々、叫び続けた後、気絶したようにベットに倒れ、痙攣を繰り返している。】

 医師はモニター画面を停止し、

「発作が起こったのは午前2時頃です。私と看護師1名で意思確認を行いましたが浩子さんの返答はありませんでした。軽い痙攣を起こしていたので鎮静剤を投入した次第です。」と説明をした。

 バーハムは医師の説明を祖母に通訳すると、祖母は、「原因は何か分かりますか?」と尋ねた。

 医師はこう説明した。

「恐らく悪夢を見たのであろうと思います。

 浩子さんのうつ病の原因ははっきりしています。

 ジョンさんとの突然の別れ

 失恋という言葉が適正であるかは分かりませんが、かなり辛い喪失感がうつ病を招いていると思われます。

 モニター画面の映像を見ると、やはり、ジョンさんの夢を見たように思われます。

 悲しい表情でジョンさんの名前を呼び、驚いた表情でマリアさんの名前を呟いています。

 最後は絶望の表情で絶叫しています。

 これは、感受性の強い患者に有りがちな睡眠障害の一種である『悪夢障害』を発症していることが窺えます。

 浩子さんは、ジョンさんと離れる前、何かジョンさんに不安を感じてしまい、それに加え、第三者であるマリアさんの介入により、その不安が増大してしまったようです。

 このような、整理が付かない大きな不安や悩みに対し、心は自己防衛本能により、取り敢えず、心の奥底である深淵へ沈めて置くのです。

 しかし、本人は分かっているのです。その悩みは解決していないことを。そして、試みるのです。

 所謂『怖いもの見たさ』です。

 わざわざ、深淵に埋没させている不安を浮上させ、整理・解決を試みようとするのです。

 これが夢に表出される『悪夢障害』の仕組みです。

 更に厄介なのは、心の深淵に閉まっておいた不安は増大し続けているのです。鎮静してはいないのです。

 心の深淵から顔を出そうと風船のように刻々と膨らみ続けているのです。

 膨らませているのは本人です。

 浩子さんの場合は、ジョンさんとの関係に関わるあらゆる事象を感知し、不安を膨らませ、遂には、今後起こり得る最悪のシナリオを心の深淵の中で描き続けていたのです。

 それを弱りきった心の目で見ようとするから、当然、心は悲鳴をあげます。

 まともに見れる状態では有りませんから。

 弱った心は、またもや自己防衛本能を発動させるのです。

 全てを見る持久力が無いのです。

 よって、先を急いでしまう。

 事実を無視し中間省略を行い、突如、最悪のシナリオの最終ページを提示してしまう。

 その結果、心は破裂してしまうのです。

 浩子さんの最後の絶叫がその証です。

 そして、悪夢の後に訪れる『絶望』と向き合うのです。」と

 バーハムは祖母に通訳した後、医師にこう言った。

「モニター画面で浩子は『フィアンセ』、そして、私の名前も言及しています。

 恐らく、ジョンとマリアさんが婚約し、結婚する『悪夢』を見たのかと…

 そして、私がその2人の仲介人の神父として…」

 医師はバーハムに言った。

「暫くの間、バーハムさんは浩子さんに会わないでください。」と

 バーハムも「私もそう思います。」と項垂れた。

 祖母はバーハムを介し、医師に問うた。

「あの子は一体どうなるのですか?」と

 医師はバーハムを介し祖母にこう説明した。

「抗うつ剤は1週間で効き目が出始めます。

 脳内ホルモンのセロトニンの分泌が平準化され、絶望感は一定の解消が図られます。

 ただ、この平準化は即効的ではなく遅効的で緩やかであるため、ここで多くの患者は『抗うつ剤が効いてない』と焦り、困惑します。

 この時がかなり辛い時期となります。

 それを乗り越えるとうつ状態は次第に解消されて行きます。」

 バーハムと祖母はそれを聞き、少し安心した表情を浮かべた。

 医師の説明はそれで終わりではなかった。

「一つ覚悟しておいて下さい。

 浩子さんの場合、強い感受性により『悪夢障害』を発症しています。

 このことは悪い事ばかりではないのです。

 早い段階で最も過酷な症状に到達しているのです。

 分かりやすく言えば、『熱が上がり切った』状態なのです。

 良いですか。

 抗うつ剤で脳と心は疲労困憊の状態から抜け出します。

 そして、元気になった『心の目』で浩子さんが創作した最悪のシナリオを見るのです。

 浩子さんはどう思うと思いますか?」

「元気な心の目で…」

「そう!一旦は事の顛末を自己に非があると自分自身を責め続けた心は、鬱を経て、以前よりも強固になるのです。

 自分を責めないのです。

 相手を責めるのです。

 浩子さんの心に、従前には無かった攻撃的な側面も表れてきます。」

「浩子がジョンを責める?」

「そうです。自分に非がないのに、どうしてこんなに辛い思いをさせられるのか。そう思うようになります。

 最悪のシナリオを見たとすれば、浩子さんの心には、ジョンさんの『裏切り』に対する『憎悪』或いは『恨み』といった憎しみの心情が産まれて来ます。」

「浩子は優しい子なので、恨むとかは…」

 そう言葉を濁すバーハムに医師は毅然とこう言った。

「恨んで当然でしょう。私でも恨みますよ!

 あなた方のお話しが事実であれば、普通、憎悪感を抱きますよ、ジョンさんという方にね。

 それが正常なのです。

 ですから、浩子さんの変化に戸惑わないよう覚悟しておいて下さい。」

 医師はそう説明すると、浩子の部屋のモニター画面を表示し、鎮静剤で眠っている浩子に対して、語り続けるのであった。

「浩子さん、我慢せずに怒っても良いんですよ。

 貴女の愛をあんなにも粗末にするような人には憎んで当然ですからね。

 良いですか。

 裏切った相手を忘れるためには相手を憎む事です。」と

 
 
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