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4 聖人候補の領地経営

605 侍従の胃痛

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605

「公爵様、本当にこのまま先触れもせず、ご訪問になるおつもりで……?」

シルベスター公爵の筆頭侍従クラバは、ソワソワと落ち着かない様子で、おずおずと主人に尋ねた。

「何度もうるさいぞ。の家を訪問するのに、そんなものは不要だ。どうしても気になるというなら、いまから先触れをすると良い」

公爵は〝天舟アマフネ〟のデッキで紅茶を飲みながら機嫌よさそうにしている。

「そ、それでは《伝令》を使いまして、先様にお知らせいたしますので……」

侍従が慌てているのには理由がある。〝先触れ〟とは名ばかりで、もう半日後には到着してしまうシルベスター公爵。この段階での〝先触れ〟など、相手方にとっては困惑するしかない意味不明なものであることは、侍従が一番わかっていた。

(このようなやり方をされるとは……なんという大人気ない……)

クラバは今回のことには最初から反対だった。とはいえ主人の命令は絶対だ。突然〝天舟アマフネ〟を用意させ、イスの遥か東の最果ての土地まで行くと言われたことだけなら、自分たちが慌てふためけば済むことなので、まだ良かった。
だが、それが急に思いついた物見遊山ではなく、公爵の突然現れた従姉妹、メイロード・マリス伯爵に会うためだと出かける直前に知らされた時には、怒りを通り越して呆れてしまった。

どうしてもメイロード・マリス伯爵を驚かせたい公爵は、先触れどころか、伯爵家に訪問するというのに十分な手土産すら用意していない。

もちろん用意するのは我々使用人なわけだが、あの方はそんなことを一切考えてはくださらないし、間に合わないと何度も告げたことも、耳に入ってはいない様子だ。

(この自分に都合のいい話しか耳に入らないところは、子供の頃からお変わりにならない……ああまたか……)

公爵は〝家族〟と言ったが、マリス伯爵家は、シルベスター公爵家とはまったく別の名前の家だ。そのつもりで準備しなければならないのに、あまりに急なことで、準備が追いつかないまま〝天舟アマフネ〟に乗ることになってしまった。これは侍従としては許されない失態に属することだ。まかり間違えば、侍従の責任として厳罰に処されることもありうる。

(ああ、本当になんということを! せめて公爵さまから知らされてすぐ魔法学校にいらっしゃるアーシアン様にお伝えしたことが、先方に伝わっているといいのだが……)

長く公爵家に勤めてきた侍従クラバはアーシアンが公爵位を継いでくれていたら……と何度も思っていた。長子継承が貴族の慣いとはいえ、侍従の目から見てもアーシアンはあまりに優秀だった。だが、そのために兄に疎まれていることも理解できてしまっている。昔から兄と対立しないように控えめに過ごしている、この出来の良すぎる弟君は決して表立って公爵家の仕事には関わらず、影で支えることに徹している。クラバの望みも虚しく、彼に公爵家継承といった野心がないことは明らかだった。

(今回のことも、なんとかマリス伯爵に会おうとする公爵をアーシアン様が諫めてきたことへの反発に違いないのだ)

アーシアンは、あれだけキッパリと公爵家との縁を絶った彼女にこれ以上関わるべきではないと、彼女に関わることで、皇宮の不興を買うことも十分ありうると、何度も公爵に話し、彼女は当家とは関わりを持たない選択をしたのだと説得した。

(アーシアン様は、同じ魔法学校におられたマリス伯爵様のことをよくご存じの様子だった。そのアーシアン様があれだけ言うのだ。きっと深い事情がおありになるのだろう。それなのに、我が主は儚げな美少女だというその容姿のせいで完全に〝子供〟と侮っている。ああ、この不躾な訪問はどうなってしまうのか……)

クラバはキリキリと胃が痛むのを感じながら、慌てて用意した贈り物を検品し、その準備不足にため息をついた。

(公爵は、こうした細々とした訪問のしきたりがどれだけ大切で手間がかかることなのか、まったくおわかりでない)

主人の思惑に振り回される侍従は、それでもできる限りの準備を整え、到着に備えるしかなかった。

ーーーーー

「シルベスター公爵様、ようこそマリス領へおいで下されました。遠い帝都からの長旅、さぞやお疲れでございましょう」

電撃訪問のはずのカングンの離発着場に降り立つと、そこにはマリス伯爵家の家令だという品の良い男性が、数人の使用人とともに待ち構えていた。

そのキッチリとした出迎えの様子に、シルベスター家の侍従クラバは、

(どうやら、アーシアン様から連絡が入ったようだな)

と思い、少しホッとしていた。それでも、この田舎ではとても時間が足りなかっただろうと気の毒に思いつつ、使用人同士のしきたりに則ったやりとりを始める。

「お荷物がございましたら、別荘までお運びいたします」

ちなみに、別荘とは先先代のシルベスター公爵がこの地を手に入れたときに建てたもので、おそらくこれもこの土地とともにアーサーへと引き継ぐつもりだった家だが、その所有について明確な遺言がなかったため、現在もそのまま使われずにいる建物だ。

これの処遇について明確にしたい、と新設された役所の財務担当官がシルベスター家にお伺いを立てたところから、この恩着せがましい訪問が降って湧いたのだ。シルベスター家にとってはなんの意味もない辺境の地の小さな館など、もともと所有権を主張するつもりはまったくないものであったが、それを〝相談する〟という理由をつけ訪問するきっかけを無理やり作ったのだ。

「マリス家の皆様方のお気遣いに心より感謝申し上げます。当家の荷物はマジックバッグで運びますゆえ、ご安心ください。それから、こちらの品は誠に些少でございますが、マリス伯爵様へとお贈りさせていただきたく持参いたしました品物にございます。どうかお納めくださいますようお願い申し上げます」

ここでの侍従同士の挨拶では、こうした公爵家からの贈答品の引き渡しを兼ねている。ここで引き渡した贈答品は、のちの対面の時、その部屋の背景として飾られる大事なものだ。

シルベスター家の侍従が差し出したその贈答品を見て、ほんの一瞬、マリス家の家令は眉をひそめた。おそらく他の者は誰も気がつかなかっただろうが、その意味がわかっている侍従クラバはいたたまれない気持ちで、少し俯き加減に、今後の予定についてやりとりした。
マリス家の家令セイツェの段取りは素晴らしいもので、非の打ちどころがなく、むしろ公爵家の使用人たちの方がしっかり対応するために気を張らなければならないほどのきっちりと、公式の領地訪問者に対するそれだった。

(公爵様、これのどこが〝家族〟の訪問なのでございますか! 完全に他領を訪れた賓客に対する最上級の公式な対応ですよ! ああ、準備不足が悔やまれる! 衣装は、小物は大丈夫だろうか)

素晴らしいシツラえの馬車で別荘まで送られながら、侍従は公爵への恨み節とともに、さらに胃をキリキリとさせていた。
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