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第五章 ジュディ・フォレスト

81.手枷の重さ

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 私たちはその後、他国へ出航する前に役所に立ち寄って、私はマックイーンの姓を無事に捨てた。両親には電話をして「暫く旅に出るから」と伝えたけれど、やはりいつも通りの薄い返事だったので心残りにはならなかった。

 そして、船に乗って三日ほどで辿り着いたのはプカラッタ共和国と呼ばれる小国だった。

 換金した小切手のお金を元に、私とヴィンセントは集落から離れた湖の近くに小さな家を買った。テオドルスと結んだ契約書には爵位の授与についても書かれていたらしいけれど、そんなものも他国では意味を成さないし、十分に生活出来るだけのお金があれば問題はなかった。

 あるとすれば、私の話だ。

 私は、側妃として過ごしたひと月あまりの間で、そうした行為に嫌悪感を抱くようになっていた。初めて気付いたのはプカラッタの小さな家を手に入れた日のことで、船の中の雑魚寝からやっと解放されて、あたたかい毛布の中でヴィンセントに抱き締められている時に異変は起こった。

 どういうわけか、涙が出てくる。
 触れ合う場所がゾワゾワした。


「………先生?」

 心配そうに尋ねる顔を見て、落ち着こうと思うのに、私の身体は言うことを聞かない。

「ご、ごめんなさい…!ちょっと体調が悪いみたいなの。先に眠るわね。また明日」

 逃げるように顔を背けて反対を向く私を、ヴィンセントは問い詰めたりはしなかった。ただ、背中越しに伝わってくる悲しさは感じ取れたし、それでも向き合えない自分を情けなく思った。

 私が抱える恐怖や怯えをヴィンセントが分かっていたのかは知らないけれど、彼は以前のように大きな犬の真似事はしなくなった。家の中でも適度な距離を持って私に接してくれるし、暖を取るようにくっついて眠ったりもしない。

 ソファで眠るという提案には、さすがに申し訳なくて「そんな必要はない」と答えた。でも、あのヴィンセントがここまで私を案じているということは、きっと私の気持ちは私が思っている以上に顔に出ているのだと思う。

(………どうしよう、)

 ただでさえ、今までずっと待たせていた状態なのに、やっと一緒になれたと思ったら今度は変な守りに入って彼を遠ざけている。そんな罪悪感は重い泥のように私の心に積もっていった。

 だけど、どうしても思い出してしまうのだ。
 自分のものではない他人の手に触れる度に、誰かの体温が私を包む度に、私は自分が人形のように抱かれた夜のことを考える。記憶は勝手に頭に流れ込んでくる。

 あの重たい手枷の音を、繰り返す絶望感を。
 消費される虚しさを私は十分覚えている。

 ヴィンセントだって男だ。そうした部分を満たせない私に不満を抱いていてもおかしくない。こんな日々が続けば、私は役目を果たさない用無しとして捨てられるんじゃないか。

 一向に減らない恐怖と、それでも嫌われたくない気持ちが胸の内でせめぎ合っていた。何か彼の役に立つことが無ければ、いつか彼は私の元を去ってしまうと、焦る気持ちがまた自分をがんじがらめにして苦しかった。


「あ…あのね、ヴィンセントくん。話があるの」

 ある日、勇気を出して誘ってみることにした。
 勢いでもなんでも、克服することが出来れば良いと思って。

 どうしました、と近寄って来たヴィンセントをベッドの上に座らせる。こうして向き合って目を見て話をするのも、なんだか久しぶりのように感じた。背中を嫌な汗が流れていく。

「私たち…あの、暫くそうしたことをしていないでしょう?私の体調を理由にしていたけど、もう大丈夫だと思うの」
「………そうですか」
「また、今までみたいに一緒に…良い?」

 恐る恐る窺った私の顔を、赤い瞳が見つめる。

「先生、たぶん勘違いしてます」
「え……?」
「僕は貴女を恋愛として好きで、そういうことをするのも勿論大好きですけど、そんな顔をさせたいわけじゃない」
「………、」
「あの人と一緒に居たからですか?それとも、僕が原因?或いは…貴女を苦しめた男が皆憎いですか?」

 私は閉口した。
 ヴィンセントの言葉は私が辿り着いていなかった私の心の芯を捉えていた。そうだ、私は娼館では娼婦を演じているつもりで、王宮では優秀な側妃に成り切っている気持ちでいた。

 だけど、たぶんそうした長い日々は私の心を混乱させて、分からなくした。自分の望むこと、嫌なこと、譲れない気持ちなんかをすべて塗り潰して見えなくしていた。


「………したくなかった」

 思い出したみたいに涙が溢れた。

「私は…消費されたくなかった。本当はすごく…すごく、死にたくなるぐらい嫌だった、自分が、どんどん失くなっちゃうみたいで」
「ジュディ先生、」
「もう、嫌なの…私は誰かのものじゃない、私のものだから」

 ボロボロと流れ落ちる涙を両手で受け止めていたら、そっと柔らかい手のひらが重なった。少しだけ強張った身体を気遣うように優しい声が降って来る。

「先生は、ちゃんとここに居ます。失くなってなんかない。貴女は今までも、これからだってずっと、貴女だけのものです」

 私は久しぶりに声を上げて泣いた。
 何かを犠牲にしなくても、与えられる優しさがあると初めて知った。

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