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河西の離宮
企みの荊棘②
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姫君の部屋に戻れたのは、夕餉の支度が終わるころだった。というより、証人として男に付けられた女官が見張りさながらに「離れるな」と言うので、膳部での彼女の仕事をぼんやりと眺めていたらこの時間になってしまったというわけだが。
姫の居室へと膳を運ぶ一団の後ろをとぼとぼと歩きながら、白狼はだぶついた袖の中で八角が入った袋を弄んだ。
「まあ白狼、おまえという人はどこまで使いにいっていたのですか」
居室に入るやいなや翠明に見つかり嫌味を言われるが、白狼は何も答えずただぺこりと頭を下げるだけだった。通りしなに周にも拳骨をもらうが、それに対しても反応ができない。ただ黙って項垂れる白狼に、翠明も周も訝しげに首を傾げた。
己の企みにこちらが気付いたと疑っているのだろうか。白狼は横目で彼らを伺うが、二人ともすぐに自分の仕事に戻って行ってしまった。変わった様子など欠片も見られない。でも、と白狼は頭の中で男の言葉を反芻する。
本当に白狼に罪を擦り付けるつもりなのだろうか。であればそうなる前に手を打たなければいけない。しかし彼らが本当に銀月を裏切るようなことがあるだろうか。銀月が産まれてからずっと、側近として重大な秘密を守り抜いてきた彼らが。
翠明は銀月の卓の準備を進め、周は警護をするべく居室の戸口近くに立つ。にっちもさっちもいかなくなれば隙をついて逃げようかと思っていたが、戸口を塞がれてはそうもいかない。もしや周はそれを警戒してあの場所を選んだのかもしれない。
男が名指ししたもう一人である翠明はといえば、配膳の指揮を執っているようだが時折ちらちらと白狼の挙動を伺っているようにも見える。
白狼はわずかな望みをかけて銀月に目を向けた。
卓についている銀月は側近たちだけでなく膳部の女官もいる手前、扇でしっかりと顔を隠し一言も発しない。時折咳払いが聞こえるが、病弱を装っている工作の一つなのだろう。
ぼうっとしているように見えたのか、銀月の侍女の一人――黒花とかいった女に手伝えと言って小突かれた。
袖の中でかさりと八角の音がする。
いつ言うべきか。さっきからちくちくと、証人として付けられた女官の視線が刺さっている気がする。ちらりとそちらを見やれば、唇だけ動かして――早く言え、と白狼を急かしていた。彼女も緊張しているのか、顔色は青を通り越してもはや白い。
決心がつきかねる白狼は、ぐっと唇を噛んで配膳の手伝いを続けるしかなかった。
「姫様、本日の夕餉でございます」
膳をもつ者を率いてきた女官が告げると、後ろに控えていた毒見が進み出た。それぞれの皿から一さじずつ小さな銀色の器に取り、においを嗅いだり色を見たりしてからおずおずと口に含む。
一通り毒見が終わり毒見係が恭しく頭を下げ「よろしゅうございます」と後退すると、いよいよ姫君の食事の始まりである。
ただし姫君がこの食事に手を付けないのは周知のことなのだろう。下がってよい、と翠明が告げると膳部の女官たちはそろって退室した。
茶番だが、この茶番のために用意されるこれらの食事は、後から下女たちに下げ渡されるので、下働きたちの腹を満たすためには必要なものなのだろう。毒が入っていなければ、だが。
配膳の女官達が退室しても、白狼の証人役の女官だけは壁際にたたずむ白狼の隣で待機していた。膳を下げるためという建前だが、実際は姫の本当の食事が運ばれてきた際に白狼の言い分を補佐するという仕事を遂行するためだ。
彼女の顔を見て白狼は舌打ちした。
膳部にいたときはうすぼんやりと生気のない顔つきだったのに、姫の部屋まで来た時にはそれが鬼気迫る表情に変わっていた。鋭い視線で刺されるように睨まれれば居心地が悪く、白狼はまた袖の中で八角の袋を弄んだ。
かさかさというかすかな音は厚手の宦官服の袖に吸い込まれ、部屋の中には漏れ聞こえていないだろう。このまま食事の様子を見守る手もないわけではない。
「方々、どうされました」
不意に部屋の外がざわつき、表へ出た周の声が聞こえた。
「あれは?」
「多分、江様の言った兵」
隣の女官が囁いた。つまり、白狼が側近の二人を告発したときに踏み込んでくるために配置された兵ということだ。本当に兵まで動員するとは、もう後には引けない。
白狼はぐっと歯を食いしばった。
「姫様のお食事の時間です。お静かにお控えくださいませ」
翠明が尖った声を張る。外の兵たちを制するためだろう。白狼の位置からは姿は見えないが、ざわついた空気が少し静まった。さすがに何も起きていない時点で帝姫のおわす室内に踏み込むわけにはいかないらしい。
隣の女の肘が白狼の脇腹を突く。焦れているのか、当たりは相当に強かった。
――俺次第ってことか。
自分でも何を迷っているのかわからなかった。しかし今白狼が声を上げれば、何かが変わる。
銀月の隣で翠明が手を挙げた。それを合図にして、本当の「姫の食事」が黒花によって運ばれてきた。膳部からゆっくり運ばれてきたそれとは異なり、すぐ近くの厨房で作った食事はあたたかそうに湯気が立つ。ふわりと漂う香りは、定食屋で嗅いだ鶏粥のにおいに似ていた。
しかし、その香りの中にあの夜定食屋に売りつけた実の匂い、枯れた草の匂いと同時にツンと鼻をつくような強い匂いを感じて白狼は目を見開いた。
「姫様、こちらの香辛料は召し上がる直前に」
見れば、今まさに卓に供された羹(スープ)へ、翠明が茶色い粉を振りかけている最中ではないか。銀月はそれに頷いて、匙ですくって口へ運ぼうとしている。
白狼の脳裏に、定食屋で泡を吹いて倒れている客の姿がよぎった。激しく睨みつけてくる店主の顔も。
「ダメだ!」
咄嗟に白狼は叫び声をあげ、銀月の卓に突進した。
姫の居室へと膳を運ぶ一団の後ろをとぼとぼと歩きながら、白狼はだぶついた袖の中で八角が入った袋を弄んだ。
「まあ白狼、おまえという人はどこまで使いにいっていたのですか」
居室に入るやいなや翠明に見つかり嫌味を言われるが、白狼は何も答えずただぺこりと頭を下げるだけだった。通りしなに周にも拳骨をもらうが、それに対しても反応ができない。ただ黙って項垂れる白狼に、翠明も周も訝しげに首を傾げた。
己の企みにこちらが気付いたと疑っているのだろうか。白狼は横目で彼らを伺うが、二人ともすぐに自分の仕事に戻って行ってしまった。変わった様子など欠片も見られない。でも、と白狼は頭の中で男の言葉を反芻する。
本当に白狼に罪を擦り付けるつもりなのだろうか。であればそうなる前に手を打たなければいけない。しかし彼らが本当に銀月を裏切るようなことがあるだろうか。銀月が産まれてからずっと、側近として重大な秘密を守り抜いてきた彼らが。
翠明は銀月の卓の準備を進め、周は警護をするべく居室の戸口近くに立つ。にっちもさっちもいかなくなれば隙をついて逃げようかと思っていたが、戸口を塞がれてはそうもいかない。もしや周はそれを警戒してあの場所を選んだのかもしれない。
男が名指ししたもう一人である翠明はといえば、配膳の指揮を執っているようだが時折ちらちらと白狼の挙動を伺っているようにも見える。
白狼はわずかな望みをかけて銀月に目を向けた。
卓についている銀月は側近たちだけでなく膳部の女官もいる手前、扇でしっかりと顔を隠し一言も発しない。時折咳払いが聞こえるが、病弱を装っている工作の一つなのだろう。
ぼうっとしているように見えたのか、銀月の侍女の一人――黒花とかいった女に手伝えと言って小突かれた。
袖の中でかさりと八角の音がする。
いつ言うべきか。さっきからちくちくと、証人として付けられた女官の視線が刺さっている気がする。ちらりとそちらを見やれば、唇だけ動かして――早く言え、と白狼を急かしていた。彼女も緊張しているのか、顔色は青を通り越してもはや白い。
決心がつきかねる白狼は、ぐっと唇を噛んで配膳の手伝いを続けるしかなかった。
「姫様、本日の夕餉でございます」
膳をもつ者を率いてきた女官が告げると、後ろに控えていた毒見が進み出た。それぞれの皿から一さじずつ小さな銀色の器に取り、においを嗅いだり色を見たりしてからおずおずと口に含む。
一通り毒見が終わり毒見係が恭しく頭を下げ「よろしゅうございます」と後退すると、いよいよ姫君の食事の始まりである。
ただし姫君がこの食事に手を付けないのは周知のことなのだろう。下がってよい、と翠明が告げると膳部の女官たちはそろって退室した。
茶番だが、この茶番のために用意されるこれらの食事は、後から下女たちに下げ渡されるので、下働きたちの腹を満たすためには必要なものなのだろう。毒が入っていなければ、だが。
配膳の女官達が退室しても、白狼の証人役の女官だけは壁際にたたずむ白狼の隣で待機していた。膳を下げるためという建前だが、実際は姫の本当の食事が運ばれてきた際に白狼の言い分を補佐するという仕事を遂行するためだ。
彼女の顔を見て白狼は舌打ちした。
膳部にいたときはうすぼんやりと生気のない顔つきだったのに、姫の部屋まで来た時にはそれが鬼気迫る表情に変わっていた。鋭い視線で刺されるように睨まれれば居心地が悪く、白狼はまた袖の中で八角の袋を弄んだ。
かさかさというかすかな音は厚手の宦官服の袖に吸い込まれ、部屋の中には漏れ聞こえていないだろう。このまま食事の様子を見守る手もないわけではない。
「方々、どうされました」
不意に部屋の外がざわつき、表へ出た周の声が聞こえた。
「あれは?」
「多分、江様の言った兵」
隣の女官が囁いた。つまり、白狼が側近の二人を告発したときに踏み込んでくるために配置された兵ということだ。本当に兵まで動員するとは、もう後には引けない。
白狼はぐっと歯を食いしばった。
「姫様のお食事の時間です。お静かにお控えくださいませ」
翠明が尖った声を張る。外の兵たちを制するためだろう。白狼の位置からは姿は見えないが、ざわついた空気が少し静まった。さすがに何も起きていない時点で帝姫のおわす室内に踏み込むわけにはいかないらしい。
隣の女の肘が白狼の脇腹を突く。焦れているのか、当たりは相当に強かった。
――俺次第ってことか。
自分でも何を迷っているのかわからなかった。しかし今白狼が声を上げれば、何かが変わる。
銀月の隣で翠明が手を挙げた。それを合図にして、本当の「姫の食事」が黒花によって運ばれてきた。膳部からゆっくり運ばれてきたそれとは異なり、すぐ近くの厨房で作った食事はあたたかそうに湯気が立つ。ふわりと漂う香りは、定食屋で嗅いだ鶏粥のにおいに似ていた。
しかし、その香りの中にあの夜定食屋に売りつけた実の匂い、枯れた草の匂いと同時にツンと鼻をつくような強い匂いを感じて白狼は目を見開いた。
「姫様、こちらの香辛料は召し上がる直前に」
見れば、今まさに卓に供された羹(スープ)へ、翠明が茶色い粉を振りかけている最中ではないか。銀月はそれに頷いて、匙ですくって口へ運ぼうとしている。
白狼の脳裏に、定食屋で泡を吹いて倒れている客の姿がよぎった。激しく睨みつけてくる店主の顔も。
「ダメだ!」
咄嗟に白狼は叫び声をあげ、銀月の卓に突進した。
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