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河西の離宮

企みの荊棘③

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 なぜそんなことをしたのか全く分からない。身代わりになるとか、そんな高尚な考えは一切ないし、そもそもそこまでの忠義心など白狼には持ち合わせがあるわけがない。
 しかし叫んで卓に駆け寄った白狼は皆が呆気にとられる中、銀月の持った匙に思い切り食いついていた。あ、というほとんど素であろう銀月の声が頭上から降ってくる。
 ままよ、と白狼は口に含んだ分を飲み込んだ。喉から鼻へ独特の風味が抜け、かっと腹が熱くなる。
 払い落とせばよかったのでは、と思ってもすでに後の祭りである。

「な、なにをしているのです!?」

 いち早く我に返った翠明が叫んだ。くわえた匙を放り投げ、卓上の皿を横薙ぎに払いのけた白狼は年嵩の侍女頭が手に持つ茶色の粉に指をさす。

「そりゃこっちのセリフだ、婆あ! てめえ今何入れやがった!」

 激昂した白狼の勢いに飲まれたのか、翠明はきょとんとしたまま手元とぶちまけられた皿の中身に目をやった。

「何とは、どういうことです」
「てめえが今、振りかけた粉だよ! それ、シキミだろ!」
「はあ? シキミ? あの禁制品の? そんなもの、どうやって手に入れると」
「すっとぼけやがって。違うのかよ! そのにおいは……ぐはっ!」

 一向に要領を得ない様子の翠明に詰め寄ろうとした白狼は、喋っている途中でいきなり背後から突き飛ばされた。もんどりうって倒れた白狼は、卓の脚に額をしたたかにぶつけてうめき声をあげる。涙に滲む視界の中で、銀月の薄紅色をした裳裾が揺らめいた。

「お、おそれながら金春きんしゅんが姫様に申し上げます……!」

 震えてほとんど裏返った声は、あの証人として付けられた女官のものか。額を押さえて振り返ればいつの間に奪われていたのだろう、白狼が持たされていたあの小袋を彼女が持っているではないか。

「わ、わたくしと小間使い殿が先程こちらの厨房で、そのっ、こんなものを見つけてございます!」

 真っ青な顔で小袋を掲げた女官に、翠明が訝し気な目を向けた。

「そなた、膳部の女官の金春きんしゅんですね。厨房でなにを見つけたというのです」
「ひっ、姫様に、ご覧いただきたく……!」 
「姫様に直接お渡しするなど、無礼にもほどがあります。お貸しなさい」

 翠明が、叱責され慄いた女官の手から小袋をひったくる。まずい、と白狼は立ち上がりかけたが襟首を後ろから抑えつけられた。待てとささやくような声に耳朶をくすぐられ、ハッとして振り返れば静かに椅子に座る銀月と目が合う。扇で半分隠れたその口元は、かすかではあるが笑っているようにも見えた。
 落ち着き払った銀月の様子に白狼が戸惑っているうちに、翠明がおもむろにその中を開いてしまった。

「これは……」

 顔色一つ変えずに翠明は小袋に指を入れ木の実を一粒つまみ出す。鼻を近づけ匂いを嗅ぐと、満足そうに頷いた。

「これはとてもよい八角ですね。ほら、良い香りですし齧っても問題ないほど新鮮な」
「あぁ!」

 木の実を齧った翠明を見て、女官が悲鳴を上げて腰を抜かした。白狼も思わず息を飲んだ。あんな怪しいもの、シキミと呼ばれる毒かもしれないのに平然と口を動かす翠明はなんと豪胆なのだろう。
 ぺたりと床に崩れ落ちた女官の鼻先に、翠明は八角の小袋を突き付けた。

「八角を厨房でみつけたなどとは、そんなことはあたりまえではないですか。今振りかけたものも八角ですよ。姫様の好物です」
「あ……あの……」
「そもそもお前が市場で買ってきたものなのですから。ねえ白狼?」
「は?」

 白狼を振り返ってにやりと翠明が微笑んだ。ふふっと背後で銀月の含み笑いが漏れ聞こえる。
 どういうことだ。自分が持っていたのはシキミだのはずだ。八角だと?
 翠明は銀月の命を狙っていたのではないのか。周は、どうだ。何か動きがないかと戸口へ視線を走らせれば、そこには厳つい表情のまま仁王立ちをしている護衛宦官の姿だけがある。
 白狼が声を上げれば兵たちが踏み込む手はずだったはずなのに。騒ぎが起きていてもなぜか外は静かなままだ。なぜだ。
 目まぐるしい状況の変化に混乱しきった白狼の脳天に、一筋の光のようなひらめきが降り立った。険しい顔で振り返れば、銀月の口角がさらに上がる。

「さて、今そなたは白狼とともに厨房でこれを見つけたと言いましたね? なぜ、厨房にいたのですか?」

 謀られた――。白狼は銀月の手を振り払って女官と翠明の間に割って入った。

「待て、ばばぁ!」
「お控えなさい、白狼。今私は金春に話を聞いています」
「待てって、こいつ、指示されただけなんだって!」
「そんなことは承知の上です。さあ、なぜ膳部の女官が姫様の厨房の中にあったものを見たと申し出たのです? 姫様のお部屋近辺は許可なく入ることを禁じていたはず。忍び込んだのですか? いつ? なんのために? それは誰に命じられたのです?」

 翠明は小袋を片手に息注ぐ暇なく詰め寄った。その迫力に気圧された白狼は、思わず二、三歩後ずさる。背後にはへたり込んでうつむいてしまっている女官。これ以上追い詰めては、そう思ったときだった。

「っく……」

 脇腹に焼けるような痛みが走った。何が起こったかと振り返れば、視界の端にぎらりと銀色に光る筋が掠める。

 ――斬りやがった。

 白狼がそう気が付いて膝を折るのと、女官が白狼の身体を乗り越えて翠明に斬りかかるのはほぼ同時だった。

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