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11、不安でたまらない
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窓から中へ入ると、とてもシンプルな部屋だった。
荷物が最小限だからだろうけど。余分な物がない、しばらく滞在しているだけっていう感じの部屋。
(そっか。先生、いつかまた外国に行っちゃうかもしれないんだ)
その考えに、胸がちくりと痛む。
「で、十万円っていうのは、何なんだ?」
伊吹先生が腕を組んで、見下ろしてくる。すごい威圧感。
その恐ろしさに、切ない気持ちなんて吹っ飛んだ。
「えっと、蝶です」
怖いから目を合わせられないよ。
「何の蝶だ。何のために蝶を追った。それは二階から落ちて怪我をするリスクを負うほど、重要なことなのか?」
「蝶は、フーベルウスバだったらいいなぁって」
「フーベルハウス?」
「ウスバです」
「聞いたことがない。どんな蝶だ」
わたしは視線をそらしたまま、それがチベットの蝶であること、雄なら十万円ってことを説明した。
「そのフーベルハウスは、大陸を渡り、海を越えるのか?」
「それは……知らないけど」
「ふむ。聞いたことがないということは、日本にはいないのだろうな。しかも見たところ、あれは普通のアゲハ蝶だった。骨折した場合、治療費もろもろが掛かってくるのは分かるな」
「は、はい」
「収支を考えた場合、損失の方が大きいと思うが」
仰る通りでございます。
「もし、仮に、万が一にもあれが十万円の蝶だったとしよう。そして運よく沙雪が屋根から落ちなかったと仮定する。だがお前は捕獲のための網を持っていなかった」
「あっ」
目先に諭吉さんが団体で飛んでいる気がして、それどころじゃなかった。
「標本にする蝶は、状態が良くなければならないんじゃないのか?」
なによー。結局意味なかったんじゃないの。わたしはうなだれた。
足の裏がなんだか濡れている気がして、わたしは自分の足を見てから、屋根に目を向けた。
「ごめんなさい、先生。あとで床を掃除するね」
「どうしたんだ、急に。媚びを売っても、俺の怒りは収まらんぞ」
「だって。屋根が朝露で濡れてたみたいで」
ほら、とわたしは屋根を指さした。
「いやー、先生の言うとおりね。濡れた瓦で足を滑らせてたかもしれないもんね。今後、気を付けるわ」
「瓦……濡れて……」
ぶつぶつと呟いたと思うと、突然先生がうずくまった。
「えっ! どうしたの? 大丈夫?」
「平気だ。ただ血の気が引いただけだ」
「どういうこと? 救急車を呼んだ方がいい?」
わたしは床に先生を横たえて、その冷たい手を握った。
顔は青白いのに、汗をかいているし。どうしよう。
「……平気だと言っている」
「すみれさんを呼んでくる」
立ち上がろうとすると、パジャマの裾を引っぱられた。
「頼むから」
「うん、頼まれた。すぐに呼んでくるから。任せて」
先生は今にも泣きそうな表情で、首を振る。それすらも、しんどそうだ。
「ただの脳貧血だ。横になっていれば、じきに良くなる」
本当に?
不安でたまらないわたしを安心させるかのように、先生はゆっくりと手を伸ばして、わたしの頬に触れた。
「頼むから、無茶はしないでくれ」
か細い声だった。
「いつでも手の届くところにいてやれたら、いいのだが。お前に何かあった時に、すぐに守ってやれるとは限らない」
「伊吹先生」
「お前が笑顔でいてくれることが、俺の望みなんだ。そのためなら、何だってする。お願いだから、自分を大事にしてくれ」
先生は、そのまま眠ってしまった。
夏布団を先生にかけ、わたしは飲み物を取りに一階に降りた。
水がいいのか、麦茶でもいいのか。貧血も脳貧血も、なったことがないから、よく分からない。
キッチンに置いてあるラジオをつけると、天気予報が流れてきた。
『花の湿原の天気は快晴。南南西の風。風力1、至軽風』
ラジオから聞こえてくるのは、すみれさんの声。
いつものようにおっとりとした口調ではなく、流れるように天気予報を読み上げている。
『南の海上に台風が発生しました。今後の進路にご注意ください』
「すみれさん、今日はもう仕事に行ってるんだ」
ダイニングのテーブルを見ると「ごめんねー、朝食は二人でなんとかして」とメモ書きが残されていた。
これは、また寝坊したな。
「もう、すみれさんったら。ちゃんと朝ご飯食べたのかな」
朝番なら、午前中に帰ってくるかな。朝食は、すみれさんの分も用意した方がいいかも。
わたしが麦茶を入れたグラスを持って、二階に戻ると、先生はよく眠っていた。
トレイごと、麦茶を先生の側に置いておく。
「は、しまった。パジャマのままだった」
自分の格好にようやく気付いて、わたしは自分の部屋にとんで入った。
荷物が最小限だからだろうけど。余分な物がない、しばらく滞在しているだけっていう感じの部屋。
(そっか。先生、いつかまた外国に行っちゃうかもしれないんだ)
その考えに、胸がちくりと痛む。
「で、十万円っていうのは、何なんだ?」
伊吹先生が腕を組んで、見下ろしてくる。すごい威圧感。
その恐ろしさに、切ない気持ちなんて吹っ飛んだ。
「えっと、蝶です」
怖いから目を合わせられないよ。
「何の蝶だ。何のために蝶を追った。それは二階から落ちて怪我をするリスクを負うほど、重要なことなのか?」
「蝶は、フーベルウスバだったらいいなぁって」
「フーベルハウス?」
「ウスバです」
「聞いたことがない。どんな蝶だ」
わたしは視線をそらしたまま、それがチベットの蝶であること、雄なら十万円ってことを説明した。
「そのフーベルハウスは、大陸を渡り、海を越えるのか?」
「それは……知らないけど」
「ふむ。聞いたことがないということは、日本にはいないのだろうな。しかも見たところ、あれは普通のアゲハ蝶だった。骨折した場合、治療費もろもろが掛かってくるのは分かるな」
「は、はい」
「収支を考えた場合、損失の方が大きいと思うが」
仰る通りでございます。
「もし、仮に、万が一にもあれが十万円の蝶だったとしよう。そして運よく沙雪が屋根から落ちなかったと仮定する。だがお前は捕獲のための網を持っていなかった」
「あっ」
目先に諭吉さんが団体で飛んでいる気がして、それどころじゃなかった。
「標本にする蝶は、状態が良くなければならないんじゃないのか?」
なによー。結局意味なかったんじゃないの。わたしはうなだれた。
足の裏がなんだか濡れている気がして、わたしは自分の足を見てから、屋根に目を向けた。
「ごめんなさい、先生。あとで床を掃除するね」
「どうしたんだ、急に。媚びを売っても、俺の怒りは収まらんぞ」
「だって。屋根が朝露で濡れてたみたいで」
ほら、とわたしは屋根を指さした。
「いやー、先生の言うとおりね。濡れた瓦で足を滑らせてたかもしれないもんね。今後、気を付けるわ」
「瓦……濡れて……」
ぶつぶつと呟いたと思うと、突然先生がうずくまった。
「えっ! どうしたの? 大丈夫?」
「平気だ。ただ血の気が引いただけだ」
「どういうこと? 救急車を呼んだ方がいい?」
わたしは床に先生を横たえて、その冷たい手を握った。
顔は青白いのに、汗をかいているし。どうしよう。
「……平気だと言っている」
「すみれさんを呼んでくる」
立ち上がろうとすると、パジャマの裾を引っぱられた。
「頼むから」
「うん、頼まれた。すぐに呼んでくるから。任せて」
先生は今にも泣きそうな表情で、首を振る。それすらも、しんどそうだ。
「ただの脳貧血だ。横になっていれば、じきに良くなる」
本当に?
不安でたまらないわたしを安心させるかのように、先生はゆっくりと手を伸ばして、わたしの頬に触れた。
「頼むから、無茶はしないでくれ」
か細い声だった。
「いつでも手の届くところにいてやれたら、いいのだが。お前に何かあった時に、すぐに守ってやれるとは限らない」
「伊吹先生」
「お前が笑顔でいてくれることが、俺の望みなんだ。そのためなら、何だってする。お願いだから、自分を大事にしてくれ」
先生は、そのまま眠ってしまった。
夏布団を先生にかけ、わたしは飲み物を取りに一階に降りた。
水がいいのか、麦茶でもいいのか。貧血も脳貧血も、なったことがないから、よく分からない。
キッチンに置いてあるラジオをつけると、天気予報が流れてきた。
『花の湿原の天気は快晴。南南西の風。風力1、至軽風』
ラジオから聞こえてくるのは、すみれさんの声。
いつものようにおっとりとした口調ではなく、流れるように天気予報を読み上げている。
『南の海上に台風が発生しました。今後の進路にご注意ください』
「すみれさん、今日はもう仕事に行ってるんだ」
ダイニングのテーブルを見ると「ごめんねー、朝食は二人でなんとかして」とメモ書きが残されていた。
これは、また寝坊したな。
「もう、すみれさんったら。ちゃんと朝ご飯食べたのかな」
朝番なら、午前中に帰ってくるかな。朝食は、すみれさんの分も用意した方がいいかも。
わたしが麦茶を入れたグラスを持って、二階に戻ると、先生はよく眠っていた。
トレイごと、麦茶を先生の側に置いておく。
「は、しまった。パジャマのままだった」
自分の格好にようやく気付いて、わたしは自分の部屋にとんで入った。
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