『聖域の鍵 ――泥を啜った日々は返さない――』

『聖域の鍵 ――泥を啜った日々は返さない――』

音を立てないように生きていた
靴底を引きずらず
食器を鳴らさず
息さえ浅くして

ここにいていいと
許された覚えは一度もないのに
追い出されないためだけに
「良い子」を続けていた

空腹は
痛みの形をしていた頃を過ぎて
ただの“穴”になった
水で満たせる程度の
軽い命だった

泣くことは
途中でやめた
涙は音がするから

代わりに覚えたのは
間違えないこと
気配を消すこと
何も望まないこと

それが
この家での正解だった

---

大人になって
家を手に入れた

壁は厚く
床は温かく
どの部屋にも光が届く

けれど最初は
それが怖かった

扉を閉めても
誰かが入ってくる気がして
鍵をかけても
意味がない気がして

「家」は
安心の形をしていなかった

---

だから
作り直した

一つずつ
確かめるように

誰を入れるか
誰を入れないか

その境界線を
自分の手で引いた

---

呼んでもいない声が
扉の向こうで騒ぐ

恩だとか
血だとか
義務だとか

全部
昔の言葉だった

あの頃の自分を
縛りつけるための
合言葉だった

---

鍵を回す

音は
驚くほど澄んでいた

誰かを閉め出す音ではない
ようやく
自分を守る音だった

---

もう
泥は啜らない

あの日々は
返さない

---

この家にいるのは
選んだ人だけだ

選ばなかったものは
ここには入れない

---

ここは
聖域だ

そして初めて
自分が
ここにいていいと思えた場所だ

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