「ザ・ケルン・コンサート」まだ私は死なない!死ねない!
あの日のことを、私は今でも鮮明に覚えている。春休みの大学街はひっそりして、まるで時間が止まったようだった。明大の古い講堂でピアノを弾くのは、私のひそかな習慣だった。借りものの舞台と鍵盤に、キース・ジャレットの「ケルン・コンサート」を響かせる。譜面はない。自分の呼吸と記憶だけを頼りに、即興で再構築する。演奏しているあいだは、誰もいない世界にただひとり閉じ込められているような心地がする。
けれど、あの日は違った。弾き終えた瞬間、私は気づいたのだ。後方の暗がりに、ひとりの青年が座っていることに。ドアを開けた一瞬の光で、気配は感じていた。知らない男に覗かれていた、と一瞬、怒りが胸をよぎった。けれど、その怒りはすぐに戸惑いに変わった。彼の目が、演奏を汚すような視線ではなく、ただ真剣に聴いていた人の目だったからだ。
彼の名は宮部明彦。油絵を描き、物理を学び、そして偶然ここに迷い込んだという。私は「偶然」という言葉をあまり信じない。けれど、彼と話しているうちに、その偶然がどこか運命のように感じられた。ジャズの話、本の話、ユングやデミアン、相対性理論や犯罪心理学……私たちの会話は、初対面とは思えないほど滑らかに、深く潜っていった。
そして気がつけば、講堂を出て、山の上ホテルのバー「ノンノン」に座っていた。午後四時の空いたカウンターで、私はマーテルを、彼はメーカーズマークを頼んだ。ブランデーの琥珀色が、雨のしずくで曇った窓に映える。学生らしくない静けさと、少しだけ大人の時間。奇妙なことに、私はその時間を全然怖いとは思わなかった。むしろ、胸の奥にずっとあった孤独な旋律に、初めて和音が重なったように思えた。
女と男は、どこまでいっても分かり合えない、と口では言いながら、私は彼に話しつづけた。彼の笑顔や、少し考えこむ横顔が、曲の終わりに響く余韻のように心に残った。偶然が、たまたまが好きだという彼に、私の中の何かが静かにほどけていく。ペルソナも、仮面も、ここには必要ないような気がした。
「ねえ、四月から、あなたの学部にニセ学生として通ったらどうかしら」思わず口にしていた。彼は笑って「いいよ」と言った。
雨の土曜の午後、ケルン・コンサートから始まったこの出会いが、私にとってどんな物語になるのか、そのときの私はまだ知らなかった。
けれど、あの日は違った。弾き終えた瞬間、私は気づいたのだ。後方の暗がりに、ひとりの青年が座っていることに。ドアを開けた一瞬の光で、気配は感じていた。知らない男に覗かれていた、と一瞬、怒りが胸をよぎった。けれど、その怒りはすぐに戸惑いに変わった。彼の目が、演奏を汚すような視線ではなく、ただ真剣に聴いていた人の目だったからだ。
彼の名は宮部明彦。油絵を描き、物理を学び、そして偶然ここに迷い込んだという。私は「偶然」という言葉をあまり信じない。けれど、彼と話しているうちに、その偶然がどこか運命のように感じられた。ジャズの話、本の話、ユングやデミアン、相対性理論や犯罪心理学……私たちの会話は、初対面とは思えないほど滑らかに、深く潜っていった。
そして気がつけば、講堂を出て、山の上ホテルのバー「ノンノン」に座っていた。午後四時の空いたカウンターで、私はマーテルを、彼はメーカーズマークを頼んだ。ブランデーの琥珀色が、雨のしずくで曇った窓に映える。学生らしくない静けさと、少しだけ大人の時間。奇妙なことに、私はその時間を全然怖いとは思わなかった。むしろ、胸の奥にずっとあった孤独な旋律に、初めて和音が重なったように思えた。
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