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第2章 氷の王子と消えた託宣

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     ◇
「くそがっ」

 外した手袋をトビアスは休憩室の床に叩きつけた。本当ならディートリヒ王に向かって叩きつけてやりたかったが、そんなことができるはずもない。

 王は王妃を好き放題にさせすぎている。アベル王子のことについても、そもそもディートリヒ王が入国の許可を出さなければよかったのだ。
 テレーズ王女が懐妊したという大事な時期に、そのそばを離れることがどれだけ危険か、王も承知しているだろうに。

 隣国の王室関係は非常に複雑だ。おのれの立場を守るために、血のつながりがあろうとなかろうと、暗殺・毒殺なんでもござれな状況なのだ。
 第三王子の子を宿すテレーズを、あの国にひとり残すなど本来ならあってはならないことだった。

「アンネマリー!」

 二人のいる部屋にジルケが青い顔をして入ってきた。呆然とした表情で立ちつくしていたアンネマリーをそのままきつく抱きしめる。

「お母様……」
「アンネマリー、よく……よく耐えたわね」

 ジルケのその言葉に、アンネマリーの瞳からせきを切ったように涙があふれ出した。ジルケは幼子おさなごにするように、アンネマリーの髪をやさしくなでていく。
 その様子にトビアスがもう一度「くそが」と毒づいた。

 ディートリヒは王位を継いでから、まったく読めない男になった。
 彼が王太子として冊立さつりくされる以前からそのそばにいたトビアスは、今でもそのことが信じられないでいる。以前は屈託くったくのない快活な男だったのだ。

 だが、王位についた途端、その姿は鳴りをひそめた。その変化は、もはや別の人格になったといっても差し支えのない程の豹変ひょうへんぶりだった。

 この国の王は、王位を継いだ瞬間からすべからく別人となる。それはディートリヒに限ったことではなかった。
 その変わりようは、王としての自覚や対外的なパフォーマンスなどとは全く異質なものだ。

 全身からかもし出される重厚な雰囲気も、耳に残る重く静かな声も、はるか遠くを見据える瞳も、そのすべてが一朝いっちょう一夕いっせきで身につけられるものではなかった。

 それを歴代の王たちは、一夜にして手に入れる。それは龍の加護なのだと、一部の貴族は信じて疑わない。

「アンネマリーはアベル殿下に何を言われたの?」
「……アベル殿下の……側妃そくひになれと」

 消え入りそうな声でアンネマリーは答えた。ジルケは言葉を失った。思わずトビアスの顔を見やる。その顔は、なぜアベル王子を連れてきたのだと、非難を含んだものだった。

 トビアスは「そうか」と言って大きく息を吐いた。アベル王子の目的はまさにそれだったのだ。テレーズが不安定な今、せめて心の支えにとアンネマリーを欲したのだろう。
 だが、アンネマリーはこの国の貴族の娘だ。王族とはいえ、何もかもがアベル王子の思うようになるはずもない。

「アンネマリーを側妃にすれば、誰にも口出しされずにテレーズ様のもとに置けると思われたのか」

 アベル王子の所有となれば、他の王子も手を出しづらくなるだろう。だが、第三王子を失脚しっきゃくさせようとたくらむ政敵は、今までもテレーズのみならずアンネマリーすら標的にしてきた。

 アベル王子はテレーズを大事にしている。それを疑うことはない。
 だが、やり方があまりにも稚拙ちせつで考えなしだ。アベル王子は真っ直ぐな気性で三人の王子の中でいちばん人望が厚い。しかし、こういった甘いところが他の王子を出し抜けない要因だった。

「まさか、あなた……アンネマリーを差し出すおつもりではないでしょうね」

 けんを含んだジルケの声が問う。アンネマリーはおびえたようにその胸にすがりついた。アンネマリーもテレーズの元に戻りたいとは思っている。だが、それはそんな形で望むものではなかった。

「そんなこと死んでもさせるものか」
 外交としてはありかもしれないが、父としてそれを許容することはトビアスとて出来なかった。

「それにテレーズ様はもとより、ディートリヒ王がそんなことをお許しにはなるまい」

 そのことだけは確信できる。ディートリヒ王は我が子可愛さに、他人を踏みつけにするような人間ではなかった。

 隣国の内情を知れば知るほど、この国がいかに平和か身に染みて感じる。この平穏な日々を他国から守るためにも、トビアスは外交を任されているのだ。
 しかし、その余波がすべてアンネマリーに向かっているような気がして、トビアスは眉間のしわをさらに深めた。

     ◇
 アンネマリーから目が離せなかった。

 彼女が広間を移動するにしたがって、その姿を求めハインリヒの視線も吸い寄せられるように後を追っていく。
 この壇上からはダンスフロアが隅々すみずみまで見渡せる。そのがらんとしたダンスフロアで、アンネマリーは踊っていた。

 ――どうしてあそこで彼女と踊っているのが自分ではないのだろう

 彼女にとってのファーストダンスなのだから、父親と踊っているのは当たり前の事なのに、なぜだかハインリヒはそんなことを思った。

 だが、何を馬鹿なことをと、そこにある違和感に無理やりふたをした。

 イジドーラ王妃のしでかしたことを考えると、彼女のこの国での未来は暗くつらいものになるだろう。まともな縁談は望めず、よくて老人の後妻に入るか、最悪、誰かの愛人の座に収まるか。
 醜聞しゅうぶんを抱えた未婚の令嬢の明るい未来はないのが貴族社会の常だ。恩を売られるように嫁いだ先で、幸せな未来が開けようはずもない。

 彼女は王太子である自分とは無関係なのだ。この口からそう言うことさえできたのなら。
 しかし王妃の暴挙ぼうきょを王子である自分が攻め立てるわけにはいかない。

 そうなれば、かつて他の令嬢にしたように、良縁をつくろって男をあてがうか。

(アンネマリーに? 自分以外の男を?)

 自身のその考えにかっと頭に血が上った。

 あれほど自分をいましめ、決して揺らぐことがないようにと心に決めたのに。ハインリヒはこみあげる衝動でどうにかなりそうだった。

 目の前でカイが彼女と踊っている。
 彼女の白い手を取って。あの柔らかそうな肢体に手をまわして。ふわりといい匂いのする耳元に顔を寄せて。

 ふと彼女がこちらを見た気がした。しかし、すぐに視線をらされてしまう。
 彼女の笑顔が自分に向けられることは二度とない。あの笑顔は、いつか、誰かのものになる。

 なぜ、なぜなのだ。
(アンネマリーはわたしのものなのに――)

 そんな馬鹿げた考えが、この胸をがすように支配する。焼き切れそうな何かが悲鳴を上げて、うまく息ができなくなる。

 隣国の王子がアンネマリーを手荒に扱うのを目にしたとき、ハインリヒは思わず壇上を飛び出しそうになった。

 そのとき不意にイジドーラ王妃が立ち上がった。ハインリヒを制するように片手をゆるく上げ、少しだけ振り返ると妖艶ようえんな笑みを口元にく。

 王妃はフロアに降りると、アンネマリーから隣国の王子を引き離した。そのまま彼女はカイに連れられて会場を後にする。

 ハインリヒはこぶしをきつく握りしめたまま、きびすを返して壇上から降りた。迷わず王族専用の扉からこの場を逃げるように出る。父王に許しを得ることすらしなかった。

 それをちらりと見やっただけで、ディートリヒ王はすぐに会場へと目と戻した。そして、はるか遠くまでを見渡すような瞳で、静かに、ただ夜会のきょうを眺め続けていた。
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