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帝都の大学

身代わりの形見

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 イャーヴィスはそこで窓の布を全て閉めた。

 その時見えた車窓の景色でわかったが、乗り込んだ側とは反対側の車窓に建物の壁が迫っていて、人がひとり横を通れる程度を残し、この馬車は通りを塞ぐようにしてあったらしい。

 慎重に走ってはいるのだろうが、馬車はやはり揺れる。その揺れを上手くやり過ごせないキルシェの身体を、リュディガーが断りを入れて手を取り、肩を抱くようにしてやや寄りかからせるようにした。

 じんわり、と滲むように温かい彼の身体に、自分の身体がいかに冷えて強張っているのかを実感させられた。

 ふぅ、と細くため息を吐き、力を抜いて彼の支えを頼る。

「__ラウペン女史」

 呼びかけたのは、目の前に腰を吸えるイャーヴィス。あまりにも真剣な顔で、まっすぐ見つめている。

「怖かっただろう。帝国の__帝都の治安維持を任せられている武官の長として、心からお詫びする」

 目の前の元帥は着席したままであるが、それでも背筋を伸ばして誠心誠意を込め、頭を垂れた。

 こうした被害者は自分だけではないだろう。帝国は広いし、帝都の規模__面積や人口密度を考えただけでも、一日に何件もあるような事件に違いなく、認知されていないものも含めれば、目眩を覚えるかもしれない。

 目の前の不運を、よくあること、と片付けてしまうようなことはしない__それが、武官の長の為人ということなのだろう。

 手を差し伸べられるのであれば、差し伸べる__それは龍帝従騎士団のみならず、軍の中でも教育されているはずだ。

「出来得る限り、支援をすると約束する」

「……ありがとう、ございます」

 キルシェは、小さくそう答えるのが精一杯だった。

「閣下、ところで、どちらへ?」

「本来なら、最寄りの療養施設へと言いたいところであるが、この雨だ。とりあえず、近くの宿へ向かう。そこは私の顔が利く」

「宿、ですか」

 イャーヴィスは乗り込むときに手渡されていたタオルで、髪の毛を軽く拭いながら答えた。

「古い友人がそこに逗留していてね。友人が出立するのを見送っていたところで、マグヌ・ア中尉と賊に出くわしたというわけだ」

「左様でしたか」

 拭っていたタオルを肩に掛け、イャーヴィスは窓を覆う布を軽く指でどけて外を見やった。

「中尉には、人をそこへ寄越すよう、もうひとっ走りしてもらっている。__ラウペン女史は、私の縁故の令嬢ということにして……ナハトリンデン、そなたは、ラウペン家の従者で護衛だ」

「護衛、ですか。護衛らしい得物もなにもございませんが」

「太刀はどうした?」

「暇をもらっている身ですので、やたらに持ち出さないようにしております」

「レナーテル学長のことだ。封じているだろうことは承知だ。__私も昔同じことを施されたからな……。しかし、普段携行しないとは……突然召集があるかも知れぬのにかね」

「恐れながら、元帥閣下を始め、同胞を信じておりますので」

 はっきり、と力強く言い放つリュディガー。

 それを聞き、イャーヴィスはくつり、と笑う。

「上手いことを言う。さすが、単騎で残った豪胆な男なことはあるな。__だとしても、丸腰でよく制圧できたな」

「アッシス__マグヌ・ア中尉がおりましたので」

「なるほどな。確かに彼がいれば、心強いことに違いなかろう。__到着したら、とにかく話を合わせてくれ。悪いようにはしない」

「承知しました」

 リュディガーはすんなりと応じるものの、対してキルシェは僅かに小首をかしげた。

「……まだ大事にしないほうがよいだろう」

 優しく苦笑して言われ、キルシェは俯く。

 それは、確かにそうだ。

 __間違いなく醜聞だもの……。

 事細かに説明するつもりはないが、誤魔化せる範疇を越えてしまっている__否、キルシェには今その誤魔化しができないほど、余裕がない。

 恐怖、嫌悪__どうやっても、笑い話に昇華などできないのだ。

 ぎゅっ、と心臓が縮こまって、胃も拗じれるように痛む。せり上がる嫌悪感__わずかでも、あの状況を振り返ろうものなら、身体が反応して震えてくる。思考も止まる。

 加えて言えば、この顔がどれほどひどい顔をしているのか分からないが、リュディガーの反応や痛みの具合から相当なひどい怪我だと察せられる。見た目でも、周囲は異変があったと分かってしまうのだ。

 __先生……。

 先生にはなんと説明しよう。この顔の怪我は、なんとすればいい。

 さかしらに身に降り掛かった不運を見せ、同情をもらうつもりはないものの、やはりビルネンベルクには正直に伝えるべきなのだろうか。

 __わからない……。

 キルシェは鼻を抑えていた手をどけて、血の出具合を確かめた。幸いにしてどうやら止まったらしいが、返すには憚られるほどハンカチは血で染まってしまっている。

「すみません、こんなに……」

「気にするな。それよりも、もう暫く抑えていたほうがいい」

 リュディガーは優しくそう言って、鼻を抑えるように促した。

「おや……」

 キルシェが頷いたところで、何かに気づいたようなイャーヴィスの声に、リュディガーともども彼を見る。

「__耳飾りが片方ないようだが」

 驚いて弾かれるようにそれぞれの耳に触れてみれば、確かに右の耳飾りがなかった。

 __いつの間に……。

 あれだけ走り回り、そして揉み合いになったのだ。投げ飛ばされもした。無くなっていてもなんら可笑しいことはない。

 遮二無二、我武者羅になって逃げ回り、日傘だって投げつけてしまって手元にはない。

 だがあれは。あの耳飾りは__

「__母の、形見……」

「何? そうだったのか?」

 ぽつり、と微かに零した言葉だったが、リュディガーは聞き漏らさなかったらしい。

 はっ、と我に返ったキルシェは顔を上げて彼を見る。彼は眉をひそめて、真剣な面持ちだった。

「__落とした心当たりは?」

 キルシェは首を僅かに横に振る。

「……走りまわった、ので……」

 恐怖におののき、走り回った記憶しかない。

 地の利もなく、迷路のようなに感じられた。

 どこをどう走ったのか、説明はもちろん、再現もできないだろう。

「すまなかった。さっきあそこで私が気づいていれば、馬車に乗り込まず探しに行ったのに」

 __あの辺り……あの、部屋……。

 もしかしたら、あの連れ込まれた部屋で__

 __思い出したくない……っ!

 ぶるり、と震えるキルシェ。

「閣下。すみません、自分をここで降ろしてください。急げばまだ__」

 キルシェは言う先を制するように、リュディガーの膝に置かれていた手をむんず、と掴む。

「いいの。……もう」

「だが__」

 膝へ押さえつけるように更に力を込めるキルシェ。

 __……いいの。

 それは声として出ただろうか。

 ぱたぱた、と俯いた視界の膝に、目から雫が落ちて染みができていくのが見えた。

「ナハトリンデン。今しがたの私の指示を忘れたか?」

 腕を組んだイャーヴィスは、苦笑を浮かべていた。

「__そなたは、ラウペンの従者で護衛だ、と言ったはず」

 指摘されたリュディガーは、ひゅっ、と息を吸った。

「宿は確かに安全なところであるが、今の彼女には、よく知るそなたが必要な支えだと思うぞ。放っておくな」

「……御意」

 リュディガーの返答に、よろしい、とイャーヴィスは頷いた。

「できる限りのことはさせてもらう。その言葉に偽りはない。__耳飾りは、こちらで探させてみよう。後で手の空いている者に指示しておく」

 イャーヴィスの言葉に、キルシェは涙を拭ってから残った耳飾りを外して手にとった。

 中指の長さと同じくらいの長さで、三指分の幅はある大ぶりな耳飾り。

 透明な石、水色の石、青い石はどれも丸みを帯び、大きさはまばら。その色が偏りすぎないような配置で、金の地金に留められている。

 この世に2つとないそれ。同じものを作れたとて、それはもはや別物である。

 __よりにもよって……失くしてしまうなんて……。

 どこで落としたのかは不明であるが、それにしても時間が経ちすぎている。雨も降っているから、なおのこと見つけにくいだろう。
 
 __もう……きっと、戻ってはこないでしょう。

 あれを放って置く者は、良くも悪くも居ないだろう。

 誰かの手中に、すでにあるかもしれない。そして、売り払いやすいよう、ばらばらにされて換金されてしまっているかも知れない。

 __お母様……。

 身代わりに不運を受けてくれた__そう思って諦めよう。

 __そう思わなければ……今は……。

 これ以上、リュディガーや多くの人の手を煩わせてしまうのは、申し訳なさすぎる。
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